ケストレル起動
起動キーを回した瞬間、コックピットが震えた。
ケストレルの動力炉が目覚める。低い唸りが足元から這い上がり、シートを通じて背骨に伝わる。残殻の起動音とは全く違った。残殻は古い機械が渋々目を覚ますような、がらがらと不揃いな振動だった。ケストレルの起動は滑らかだ。動力炉の回転が安定するまでの時間が短い。3秒。残殻の三分の一。
計器パネルが順に点灯していく。
燃料残量計。100%。満タンだ。アイアンウェルのコンラッドから譲り受けた精製重油を、ガルドが規定量まで注入した。機関温度計。青域。冷間始動の正常値。装甲健全度。全域緑。ガルドの修復は完璧だった。関節負荷表示。全て正常。ガルドが増設したセンサー補助パネルが最後に灯った。装甲の部位別状態、関節トルク、周囲の音響データのグラフ表示。鋳脈者なら体で感じるはずの情報が、数字と図形になってカイの目の前に並んでいる。
操縦桿を握った。
ガルドが調整したグリップ。カイの掌に合わせて、太さと角度が変えてある。握り込むと、指の関節が自然に収まった。力を入れなくても安定する位置に、桿が来ている。グリップの根元にある、テオの親指が刻んだ凹み。その隣に、カイの親指が収まる位置がある。父と子の指の跡が、一つの操縦桿の上で並んでいた。
右のペダルに足を乗せた。踏力が軽い。残殻の三分の二ほど。ガルドが調整した新しいバネ。足首を返すだけで反応する。左ペダルも同じ。両足が自然にペダルの上に乗っている。シートの位置、ペダルの高さ、全てがカイの体に合わせてある。
「試験機動を開始する。まず歩行から」
ガルドの声が通信に入った。格納庫の外で、通信機を片手に立っている。口には火のつかない煙草。
右脚を前に出した。
ケストレルの右脚が地面を離れ、前方に踏み出す。操縦桿を引いた量に対して、脚が動いた量。その比率が、残殻とは違う。小さな入力で、大きな動きが返ってくる。応答速度が速い。操作してから機体が動くまでの遅れが、ほとんど感じられない。0.05秒以下。残殻では0.2秒あった遅れが、四分の一以下に縮まっている。
左脚。右脚。歩行が安定する。
足裏のセンサーが地面の硬さを数値化して計器に表示している。「地表硬度: 中。礫混じりの凍土」。鋳脈者なら足の裏で直接感じる情報を、カイは目で読む。だが計器の配置がいい。視線を大きく動かさなくても、必要な情報が視野の端に入る。正面を見たまま、下方の計器の数値が読める。ガルドの設計だ。操手の視線移動を最小にするための配置。
「走行に移る」
スロットルを上げた。ケストレルが加速する。逆関節の脚部が地面を蹴り、三本爪の鳥足が凍った土を掻いた。背部のスラスターが低い唸りを上げる。まだ使っていない。地上走行だけで、時速60キロ。残殻の全力巡航速度に並んだ。操縦桿の振動が手に伝わる。路面の凹凸を拾っているが、コックピットの揺れは小さい。逆関節の脚部がサスペンションのように衝撃を吸収している。
「旋回」
操縦桿を横に倒す。ケストレルが左に切れ込む。重心の移動が滑らかだ。残殻なら横滑りする速度でも、ケストレルは脚部の逆関節が衝撃を吸収し、姿勢を崩さない。旋回半径が残殻の半分以下。機体の重心が低いのだ。胴体が薄く、重量が脚部に集中している設計。
「跳躍」
ペダルを踏み込む。同時にスラスターを噴かす。ケストレルの機体が地面を離れた。3メートル。5メートル。7メートル。残殻では考えられない高度。風の音がコックピットの外壁を叩く。機関温度計が青から緑に上がる。着地。逆関節が沈み込み、衝撃を殺す。コックピットの揺れは、残殻の半分以下だった。着地の瞬間に関節負荷表示が一瞬黄色になり、すぐに緑に戻る。アルマナック・フレームの関節が、衝撃を受け止めて正常域に戻す。
次元が違う。
カイは息を吐いた。汗が額に浮いている。試験機動だけで、手が震えている。興奮ではない。この機体の性能の深さに、自分がどこまで追いつけるか分からない恐怖だ。ケストレルの操縦は、残殻の延長線上にはない。全く別の乗り物だ。同じ操縦桿を握り、同じペダルを踏んでいるが、返ってくる動きの質が違う。
だが同時に、分かることがある。
鋳脈がない。センサー情報は全て計器を通じて読む。鋳脈者なら「体で感じる」速度で処理できる情報を、カイは「目で読んで、頭で理解して、手で操作する」。その一手間がラグになる。0.3秒。鋳脈者とカイの間にある、埋められない差。装甲への被弾を鋳脈者は「痛み」として瞬時に感知する。カイは計器のランプが点灯するのを見て、初めて被弾を知る。その差が、戦場では命取りになる。
冴覚がそれを補う。
相手の動きを先読みすれば、0.3秒の遅れを相殺できる。だが冴覚にも限界がある。機械的な動き、パターン的な攻撃には先読みが効かない。ドールの群れ。自動砲台のプログラム射撃。そういう相手には、冴覚は無力だ。
「どうだ」
ガルドの声。
「速い。全部速い。残殻とは比べものにならない」
「当たり前だ。アルマナック No.46のフレームに、俺の駆動系を積んでいる。応答速度はセルヴィスのポラリスと同等以上だ」
「でも、計器を読む間に遅れる」
「知っている。だからそれをお前の冴覚と目と耳と勘でカバーしろ。それが俺の回答だ」
トワが残殻の肩の上から口笛を吹いた。
「別物だな。残殻とは」
リオンが腕を組んで試験機動を見ていた。風で髪が揺れている。紺色の瞳が、ケストレルの動きを正確に追っていた。
「あの機体なら、ポラリスとも渡り合える」
リオンの声に確信がある。元セルヴィスの正規操手が、ケストレルの性能を認めている。
* * *
カイはケストレルのコックピットに座ったまま、空を見上げた。
銘殻の視界は残殻より広い。メインカメラの解像度が高く、補助カメラの視野角が大きい。灰色の空が、残殻で見ていた時よりも鮮明に広がっている。雲の層の厚みが見える。灰原草の穂の一本一本が見える。遠くの丘陵の稜線が、残殻では潰れていた輪郭まで鮮明だ。
世界がクリアに見える。
「行こう」
カイは通信を開いた。
「ストーンクロスに戻る」
ケストレルの足が、初めてカイの意志で地面を蹴った。逆関節の鳥足が凍った土を跳ね上げ、背部のスラスターが青白い排気を吐く。鉄紺色の機体が、灰色の荒野を駆け始めた。




