ゲルハルトの足跡
旧世界の研究施設は、丘陵の裏側に隠れていた。
コンクリートの外壁が風化し、表面が砂のように崩れている。窓という窓に鉄板が打ちつけられ、正面の防爆扉は内側から溶接で封じられていた。それが、外からこじ開けられている。溶接痕を鉄殻用の油圧カッターで切断した跡。分厚い鋼材が飴のように歪んでいた。
「切断痕が新しい」
トワが防爆扉の断面に触れた。指先で錆の具合を確かめる。灰域の傭兵ならではの鑑識眼だ。錆の色と深さで、切断からの経過時間を読む。
「一週間以内だな。大型の鉄殻用カッターで切っている。手慣れた仕事だ。素人じゃない」
カイは残殻のコックピットから周囲を確認した。ケストレルの修復を待つ間、まだ残殻に乗っている。足元の泥に、鉄殻の足跡が残っていた。初冬の冷気で泥が半ば凍り、足跡の形が保存されている。足裏の形状は汎殻のものではない。銘殻特有の幅広い踏面。沈み込みが深い。重量級。
「バスティオンの足跡か」
トワが足跡の深さを見て言った。泥の沈み込みから重量を逆算する。灰域の傭兵の基本技能だ。
「34トン以上。間違いない。ゲルハルトの部隊だ」
施設の内部に入った。
トワが先行し、カイが後を追う。生身で、銃を構えて。残殻は入口に待機させている。廊下は暗く、天井の蛍光灯は全て割れている。ガラスの破片が床に散らばり、靴底で砕ける音が反響した。壁に旧世界の文字が残っている。読めない。だが矢印の形状と数字の配列から、奥に向かう案内板だと分かった。
一階。荒らされている。
金属製の棚が倒され、引き出しが全て引き抜かれている。中身は空だ。旧世界の紙の書類が床に散乱し、踏みつけられた足跡がついていた。鉄殻用のブーツではない。人間の足。複数人。ゲルハルトの部下が生身で探索した証拠だ。書類の一部をめくってみる。旧世界の言語で書かれた技術文書らしきもの。読めないが、図表やグラフが含まれている。
「全部持っていったか、それとも必要なものだけ抜いたか」
トワが引き出しの配列を見ている。
「必要なものだけだ。書類を選り分けた形跡がある。知っている人間が指示して、特定のものだけ回収している」
地下一階。同じだ。旧世界の実験機材の残骸が並んでいる。金属製のフレームに固定されていたであろう装置が、全て外されている。端末の記録媒体が引き抜かれていた。基板の半田付けを外して中の部品を取った痕跡まである。
「徹底している」
トワが壁のコンセントパネルを確認した。カバーが外され、配線が引き出されている。
「電源系統も調べている。旧世界の施設で電力が生きている箇所を探したんだろう。ここに何かがあったなら、ゲルハルトが先に持っていった」
地下二階。
ここも荒らされていた。だが、一つだけ違いがあった。奥の部屋の扉が閉じている。他の全ての扉が開いているのに、ここだけが閉まっていた。
「開けなかったのか」
「開けられなかったのかもしれない」
トワが扉に近づいた。旧世界の電子ロック。テンキーの横にカードリーダーの差込口がある。電源が生きていない限り、解錠できない。ゲルハルトはこの扉を破壊することもできたはずだが、していない。扉の周囲に手を加えた形跡がない。
「無視したのか、後回しにしたのか」
「分からない。だがゲルハルトが戻ってくる可能性がある。この扉の中に何があるか、確認だけしておきたいが」
カイは扉を見つめた。旧世界の技術で作られたロック。タリアがいれば、あるいは解錠できるかもしれない。だがタリアはラストヘイムだ。
地下三階への階段は崩落していた。
鉄骨が折れ、コンクリートの床が地下に落ち込んでいる。崩落の断面から鉄筋が覗き、その向こうに、もう一つの防爆扉が見える。分厚い。一階の防爆扉の倍はある。研究施設の最深部。ゲルハルトの足跡は、ここで途切れていた。崩落を越えるには鉄殻の力が要る。だがこの狭い階段に鉄殻は入れない。生身で降りるには、崩落した床の下まで10メートル以上の落差がある。
* * *
外に出た。
灰色の空に鉄錆色の丘陵が広がっている。初冬の風が顔を刺す。呼吸が白い。カイは残殻のコックピットに戻り、手を暖めてから通信を開いた。
ストーンクロスからリントの声が入った。ノイズが混じっている。距離がある。気温が下がると通信の質が落ちる。灰域の通信インフラは、天候に左右される。
「カイ、聞こえるか」
「聞こえる。ノイズが多い」
「こっちもだ。セルヴィスの偵察部隊がストーンクロスに接近している。汎殻6機。バートンが防備を固めている。お前たちはいつ帰ってくる」
カイは研究施設の外壁を見た。ゲルハルトが先に来て、先に探し終えた。テオのデータを求めて、旧世界の施設を一つずつ潰している。
「ケストレルが直ったらすぐ戻る」
「急げ。時間がない。セルヴィスの先遣は50キロまで来ている。偵察の次は本隊だ」
通信が切れた。ノイズが最後まで消えなかった。
トワが残殻の足元で煙草に火をつけた。灰域煙草の赤い葉が風に揺れている。吸い込んで、煙を細く吐く。
「ゲルハルトは単なる兵隊じゃない」
煙を吐きながら言った。目は遠くの丘陵を見ている。
「テオのことを個人的に知っている。テオの考え方を知っている。テオならどこに何を隠すか、推測できる人間だ。あの男がテオのデータを見つけたら、どうなる」
カイは答えた。
「見つけさせない」
だが言葉に重さが足りない。それを自分でも分かっていた。ゲルハルトのバスティオンには、残殻では太刀打ちできなかった。全高11.2メートルの重装甲。4.5メートルの鉄巌剣。アルマナック No.36の骨格。あの戦いで感じた圧力は、まだ体に残っている。鉄巌剣が残殻の左肩装甲を削った瞬間の衝撃。金属が裂ける音。コックピットに走った振動。
「ケストレルがなければ、同じ土俵にも立てない」
トワは煙草を踏み消した。
「なら急ぐしかないな。ガルドを信じろ」
帰路、カイは残殻の計器を見つめていた。
燃料残量68%。装甲健全度は全域緑。機関温度は正常。この残殻で戦ってきた。トワとの訓練も、無法傭兵との戦いも、ゲルハルトとの遭遇も。だがこの機体には限界がある。冴覚があっても、機体の応答速度が追いつかない。操縦桿を引いてから機体が動くまでの遅れ。その遅れが、銘殻との差になる。
ケストレルが直れば、変わる。
父が乗った機体。ガルドが一から設計した銘殻。アルマナック No.46。鋳脈なしでも、冴覚と直接操縦で戦える機体。
アイアンウェルの工房の灯りが、丘の向こうに見えた。夜の闇の中に、橙色の光が小さく灯っている。
ガルドはまだ作業を続けているだろう。手を止めず、焦らず、0.05ミリの精度を守りながら。




