残された通信
ガルドは一人で格納庫にいた。
ケストレルの胸部装甲パネルを開き、コックピット内の記録装置にアクセスしている。カイたちは地上で休息を取っている。朝が来るまで、あと3時間。
携帯灯の白い光が、コックピットの狭い空間を照らしていた。計器盤の裏側にある小さなボックス。飛行記録装置。旧世界の航空機に搭載されていた技術を、鉄殻用に改修したもの。テオが自分で取り付けた装備だ。正規の仕様にはない。
ガルドは接続端子の埃を払い、携帯端末を繋いだ。データが読み込まれる。テオが最後にケストレルに乗った日の記録が、数秒の沈黙の後に表示された。
音声データがあった。
ガルドは一瞬、手を止めた。
テオの声を聞くのは、7年ぶりだ。7年間、テオの声を忘れまいとしてきた。だが記憶の中の声は少しずつ曖昧になり、ガルドは自分がテオの声を正確に覚えているかどうか、確信が持てなくなっていた。
再生ボタンを押した。
ノイズが走り、それからテオの声が格納庫に響いた。
「ガルド。これを聞いているのがお前なら、まだ間に合う」
低く、落ち着いた声。だがどこかに急いている響きがある。時間がない中で録音したのだろう。
「ケストレルをカイに渡してくれ。ただし、鋳脈は使わせるな。あいつにはあれを背負わせたくない」
ガルドは目を閉じた。テオの声が、鼓膜の奥で反響する。7年前の声。まだ若い。まだ生きている声。
「俺の体はもう限界が近い。左手の感覚がほとんどない。右耳が聞こえにくくなってる。あと何年乗れるか分からん」
鋳脈の代償だ。テオの神経は、ガルドが設計したリレー素子によって20年以上にわたって蝕まれ続けた。ガルドはその劣化の過程を、専属技匠として最も近くで見てきた。
「カイには伝えてくれ。俺が帰れなかったのは、帰りたくなかったからじゃない。帰れなくなったんだ。やらなきゃいけないことが、一つだけ残ってる」
テオの声が、一瞬途切れた。ノイズ。そして続く。
「鋼城の設計データは、ここには置いていない。別の場所だ。お前なら分かるはずだ。俺とお前が、最初に一緒に酒を飲んだ場所」
ガルドの手が震えた。
最初に一緒に酒を飲んだ場所。グランヴェルトの工廠の裏にある安酒場だ。「鉄錘亭」。傭兵と技匠が集まる場所で、テオとガルドが初めて話をしたのはそこだった。だが鉄錘亭はグランヴェルト管区内にある。灰域ではない。テオは管区内に設計データを隠したのか。
「もう一つ。格納庫の壁面パネルの裏に、メモを入れてある。俺が旧世界の施設で見つけたものについて書いた。全部は書けなかった。まだ分からないことが多すぎる。だが、一つだけ確かなことがある」
テオの声が、静かになった。
「あの施設の奥にあるものは、鋳脈の素材と同じだ。あれが何なのか、俺にはまだ言葉がない。だが――ヴィルヘルムは知っている。あいつだけが、全部を知っている」
ノイズが強くなった。録音の末尾が近い。
「カイが強くなったら、ケストレルに乗せてやってくれ。あいつの冴覚なら、鋳脈なしでもこの機体を動かせる。俺はそう信じてる」
最後に。
「ガルド。お前のせいじゃない。鋳脈を望んだのは俺だ。お前を責めるな」
通信が、切れた。
* * *
ガルドは長い間、動かなかった。
携帯端末の画面が、録音の終了を示すアイコンを表示している。テオの声はもうない。7年前の声が、格納庫の静寂に吸い込まれて消えた。
お前のせいじゃない。
テオはそう言った。だがガルドは知っている。テオが鋳脈を望んだのは事実だ。だが望ませたのは、戦場だ。灰域の過酷な環境が、テオに選択を迫った。そしてその選択を実行できたのは、ガルドの技術があったからだ。
テオが望み、ガルドが作り、戦場がそれを消費した。三者の罪の按分を正確に計算できる人間はいない。だがガルドは、自分の取り分を軽くする気はなかった。
格納庫の壁面パネルを確認した。テオが言った通り、パネルの裏側にビニール袋が貼り付けられていた。中に紙片が数枚入っている。
取り出した。テオの筆跡。荒い文字。急いで書かれたものだ。
最初の紙片は、旧世界の施設の見取り図のようなものだった。カイたちが探索した二つの施設と、もう一箇所。テオはカイたちが行っていない第三の施設にも足を運んでいたらしい。
二枚目は断片的なメモだった。
「Ψ記号 = プロジェクトの標識」
「触媒体 → リレー素子の素材 → 同一?」
「場の強度と冴覚の感度に相関あり」
「ヘリオス → イグニス → 大崩落の原因?」
テオは施設の中で何かを理解しかけていた。だが完全な答えには辿り着けなかった。
三枚目。
ガルドの手が止まった。
「イグニスは火ではない。火の前にあるもの。人の意志が、世界に触れる接点。俺たちはそれを兵器にした。だが本当は――」
メモはそこで途切れていた。
テオが以前に残したメモと同じ内容。だが、こちらには一行だけ追記がある。
「カイに見せるな。まだ早い」
ガルドはメモを懐にしまった。
テオの最後の願い。カイにはまだ見せない。だがいつか、見せなければならない日が来る。テオが言葉にできなかったものの正体を、カイ自身が感じ取る日が。
* * *
ガルドは工具を手に取った。
テオの工具箱から、リレー素子の分解用の精密ドライバーを選んだ。この工具を最後に使ったのは、テオのケストレルの鋳脈接続機構を調整した時だ。10年以上前。
ケストレルの胸部装甲パネルを再び開き、鋳脈接続機構にアクセスした。後頸部のリレー素子受信機。神経信号の変換ユニット。フィードバック回路の分配器。テオの体と機体を繋いでいた装置群。
一つずつ、外していく。
接続端子を外す。配線を切断する。変換ユニットを取り出す。テオの神経を蝕み続けた装置が、ガルドの手の中で部品に戻っていく。
この機体は、もう誰の神経も食い潰さない。
カイが乗る機体にする。
鋳脈なしで。冴覚と手動操縦だけで。テオが到達できなかった場所に、カイを送り届ける機体にする。
ガルドの手は震えていたが、工具を握る指は正確だった。技匠の手は、心が揺れても仕事を間違えない。
「お前の最後の頼みだ、テオ。任せろ」
ガルドの声が、格納庫の闇に溶けた。
ケストレルが、静かに目覚めの時を待っている。
触媒体 -- イグニス反応を起こすために必要な特殊物質。原料鉱脈はセルヴィス管区内に存在する。




