他管区の噂
ストーンクロスに戻ったのは、ゲルハルト戦の翌日の夕暮れだった。
カイの残殻は満身創痍だ。左肩装甲は仮修復のシート鋼を被せただけで、右脚関節の異音は抑えられていない。ストーンクロスの門を通過する時、見張りのリントが残殻を見て眉を上げた。
「何と戦った」
「グランヴェルトの銘殻」
リントの目が、一瞬だけ大きくなった。そして、何も言わずに門を開けた。
バートンの執務室は、ストーンクロスの中心にある旧世界の石造建築の2階にあった。窓の外に集落の全景が見える。丘陵に沿って並ぶ石壁の家々。市場の広場。残殻の格納庫。炊事場の煙突から白い煙が上がっている。夕食の準備だ。
「ゲルハルト・ナルセンが灰域にいるなら、事態は想定より速い」
バートンが椅子の背に体を預けた。元クレスタの管区長。灰域に身を落としてなお、政治家の目は健在だ。太い指が、机の上の地図を叩く。
「グランヴェルトが本格的に灰域に手を伸ばし始めている。しかもエースを送り込んでいるということは、探しているものが相当に重い」
「テオが隠したものだ」
ガルドが壁に背を預けて言った。
「鋼城の設計データ。テオが命をかけてグランヴェルトから持ち出したものだ。それが灰域のどこかにある」
バートンの目が細くなった。鋼城。その一語が持つ重さを、この老政治家は正確に理解している。
「それ以外の情報も共有しておこう」
バートンが引き出しから複数の紙片を取り出した。灰域の通信網を通じて集めた、各地の情報だ。
「バルトリア沿岸連合が、グランヴェルトへの関税をまた引き上げた。年内二度目だ。グランヴェルトの輸出品に対する関税が18%から25%に」
「物流が細くなる」
リオンが地図を確認した。
「バルトリアはグランヴェルトと灰域の間に位置する。関税引き上げは、グランヴェルトが灰域に物資を送る経路を締め付けることにもなる」
「その通り。だがグランヴェルトは灰域に物資を送っているわけではない。灰域から何かを持ち出したいのだ。テオの設計データ、あるいはそれ以外の何か」
バートンは二枚目の紙片を広げた。
「カスピ精錬都市の燃料価格が高騰している。精製重油の取引価格が先月比で40%上昇。原因はカスピの精錬施設で事故があったという噂だが、詳細は不明だ。灰域への燃料供給は、カスピ経由のものが3割を占める。それが絞られている」
カイは顔をしかめた。燃料不足は死に直結する。鉄殻を動かすにも、集落の発電機を回すにも、精製重油が要る。
「リベルタ傭兵自治区からの流入も増えている」
バートンが三枚目の紙片をめくった。
「リベルタの治安が悪化して、傭兵が灰域に流れてきている。質の悪い連中もいれば、腕のいい者もいる。ストーンクロスに来た者は受け入れて使っているが、ジェロニモの残党に合流する者もいるようだ」
* * *
「焦土の声」のラジオが、部屋の隅で低い音量で流れている。
雑音混じりの声が、灰域のニュースを伝えていた。
「――セルヴィスの灰域浄化計画が加速している。先週、セルヴィス管区の南端から偵察部隊が灰域に侵入した模様。住民の一時退去を勧告したという情報があるが、セルヴィスは公式には否定している――」
リオンの表情が曇った。かつての自分の組織が、今も灰域を圧迫し続けている。
「リオン。管区側の情報で補足できることはあるか」
バートンが聞いた。
「グランヴェルトとセルヴィスは表面上は協力関係です。軍事技術の一部をグランヴェルトがセルヴィスに供与し、セルヴィスは特定の鉱物資源をグランヴェルトに供給している。だが裏では、灰域の利権を巡って対立しています」
「利権、とは」
「灰域に眠る旧世界の技術遺産。セルヴィスは灰域を管区に組み込むことで、旧世界の遺構へのアクセスを独占しようとしている。グランヴェルトは先遣部隊を送り込んで、セルヴィスより先に遺産を確保しようとしている。両者が灰域で衝突する可能性は、ゼロではありません」
バートンが地図の上に指を置いた。
「つまり、灰域が踏み潰される前に、二つの統治機構体が互いの足を引っ張る可能性がある」
「はい。それを利用できるかもしれません」
バートンは微笑んだ。政治家の微笑みだ。計算と判断が混ざった表情。
「利用する、か。灰域の人間がそれを言えるようになるとは思わなかった」
カイは黙って聞いていた。世界は灰域の外でも動いている。バルトリアの関税、カスピの燃料、リベルタの傭兵、セルヴィスの浄化計画、グランヴェルトの先遣部隊。全てが灰域に影響を及ぼしている。灰域は孤立した荒野ではない。世界の一部であり、世界の力学の中で翻弄されている。
その複雑さに圧倒されながらも、一つだけ確かなことがある。灰域は一つにまとまらなければ潰される。ストーンクロスだけでは足りない。ラストヘイムも、アイアンウェルも。灰域の全ての集落が、同じ方向を向かなければ。
* * *
会議の後、ガルドが地図を広げた。
テオの地図ではなく、バートンから借りた灰域の広域地図だ。ガルドの指が、一点を指した。
「テオが最後にいた場所は、ここから南東200キロだ。アイアンウェルの近く」
カイの心臓が跳ねた。
「旧鉄道の駅舎がある。コンラッドが7年前にテオを見かけたと言っていた場所と一致する」
「コンラッドが?」
「アイアンウェルの長だ。バートンと通信で繋がっている。テオの足跡の最後の確認地点が、アイアンウェルの近郊の旧鉄道駅舎だ」
カイは地図を見つめた。南東200キロ。残殻の巡航速度で約5時間。だが途中の道は分からない。灰域の地形は地図通りではない。崩落した橋、汚染地域、野盗の縄張り。実際には二日以上かかるかもしれない。
「ゲルハルトも同じ場所を目指している可能性がある」
リオンが言った。
「彼もテオの足跡を追っている。アイアンウェルの近くで、また遭遇するかもしれない」
「構わない」
カイの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「逃げても追いつかれる。なら先に着く方がいい」
ガルドがカイの顔を見た。焚き火の灯りの中で、カイの灰色の目が静かに光っていた。テオの目に似ている、とガルドは思った。だがテオよりも穏やかで、テオよりも頑固だ。
「出発は明後日だ。残殻の修復に一日かかる」
「分かった」
「トワ、リオン。準備をしてくれ。アイアンウェルまでの最短ルートを出す」
トワが頷き、リオンが地図に目を落とした。
テオの足跡の終わりが、近づいている。父が何を隠し、何を守ろうとしたのか。その答えが、南東200キロの先にある。




