灰の日常
共同水場の水は鉄の味がする。
旧世界の地下水脈から汲み上げた水が錆びた配管を通るうちに鉄を溶かし込む。カイは顔を洗って口をゆすいだ。舌の上に残る金属の苦みはラストヘイムの朝の味だった。
今日も空は灰色だ。雲があるわけではなく、大気そのものが濁っていて足元に影が落ちない。
昨夜の赤い光のことが頭から離れない。
地平線の向こうで何かが燃えていた。目を凝らしたが距離が遠すぎて正体は分からなかった。やがて光が消えるとカイはそのまま眠りに落ちた。夢は見なかった。
朝食は灰域パンと塩漬けの根菜の薄切りだ。パンを齧ると歯に砂が当たった。どんぐり粉を混ぜた灰域パンは硬くて味がないが、それでも腹は満たされる。集落の共同食堂――廃墟の壁を三方だけ囲った吹き抜けの空間――では住民たちが同じ朝食を黙々と口に運んでいた。
* * *
食事を終えたカイはタリアの通信小屋へ足を向けた。
通信小屋と呼んではいるが実態は廃墟の一角に波板の屋根を被せただけの狭い空間だ。壁にはバラした基板の部品が瓶に分類して並べられ、机の上では半分解状態の通信機二台から配線が腸のようにはみ出している。
タリアは机に突っ伏し、はんだごてを握ったまま眠っていた。
「タリア」
返事がない。肩を叩くとびくりと跳ね起きた。
「あ、カイ。おはよ。何時?」
「とっくに朝だ」
タリアは目を擦って髪についた半田の屑を払った。そばかすの浮いた鼻の頭が赤い。一晩中ここにいたらしい。
「昨日カラス商隊が持ってきた基板、すごいの。ゼロ・デイ以前の通信モジュールの回路がまるごと残ってた。信じられる? 旧世界の技術者はこんなものを当たり前に使ってたんだ」
タリアの目が輝いている。通信機器の話になるとこの幼馴染は疲労を忘れるのだ。カイは壁際に寄りかかってタリアが基板の部品を一つ一つ説明するのを聞いていた。コンデンサの耐圧や抵抗値の色帯に集積回路のピン配置など、半分も分からない。それでも早口は止まらず聞いているこっちまで眠気が飛んだ。
「これが全部動いたら、少なくとも30キロ先の集落と通話できる。今の二倍以上だよ」
「やれよ」
タリアははんだごてを置いてにっと笑った。返事はそれで足りるらしかった。
* * *
昼前、カイはリック・フォードと廃材回収のために集落の外縁へ出た。
リックはカイより頭一つ小さく頬の丸みがまだ取れていない。首からぶら下げた旧式の双眼鏡が歩くたびに胸で跳ねていた。
「カイ兄、あっちに鉄殻の残骸が見える」
リックが双眼鏡を覗き込んで西の廃墟群を指差した。
「先週見たやつだ。もう漁った」
「え、もう?」
「使える関節部品は持ってきた。残りは装甲板だけだが、錆が深くて再利用できない」
リックの肩が落ちる。カイは構わず足元の瓦礫を捲って使えそうな金属片を選別し始めた。
鉄殻拾いはラストヘイムの子供が最初に覚える仕事だ。
廃墟に散乱する鉄殻の残骸から使える部品を見つけ出すのだ。配線やボルトにベアリングや薄板など、何が使えて何が使えないか見た目では分からない。手で持って重さを量り、爪で叩いて音を聞く。カイはリックに部品の選び方を教えながら錆びた配管の中から銅線の束を引き抜いた。
「これ、使える?」
リックが差し出したのは歪んだギアだった。歯が三本欠けている。
「歯を削り直せば別の用途に回せる。持っていけ」
リックの顔が明るくなった。廃墟の狭い隙間に小柄な体を滑り込ませて大人が入れない場所を漁るその目の良さはカイも認めている。
「カイ兄」
瓦礫の奥からくぐもった声がした。
「鉄殻ってさ、本当に人が乗って動かすんだよな。腕も脚も、自分の手足みたいに」
「ガルドはそう言ってる」
「乗ってみたい」
声が弾んでいる。カイは答えなかった。隙間からはリックの靴の裏だけが見えている。子供の頃に自分も同じことを言った気がするが、父がそのとき何と返したのかは思い出せない。
リックが薄板を一枚引きずり出してきた。角が錆びていて使えない代物だったが、リックは宝物のように布で包む。カイは止めなかった。
作業の合間にリックが尋ねてきた。
「昨日の夜、空が赤かったの見た?」
カイは銅線を巻く手を止めずに応じた。
「見た」
「何だったんだろう。マーサ婆ちゃんは何も言わなかったけど、顔が怖かった」
好奇心で目は輝いているのにギアを握る指には力が入っている。
「分からない。だが、気をつけろ」
それだけ言ってカイは作業に戻った。
* * *
午後、広場でゲオルグ・ハートが住民と話し合いをしていた。
白髪を短く刈り上げた大男が低い声で議題を進めている。右頬の火傷痕が曇った日差しの下で白く浮いていた。
「井戸の水量が減っている。一人あたりの配分を見直す必要がある」
ロイドが帳簿を手に数字を読み上げた。一日の使用量や貯水槽の残量、地下水脈の回復速度の推定。紙を見ているのか暗記なのか分からないほどの速さですらすらと続く。彼の目の下には濃い隈があった。
「南のケイルン集落との交易路の件もある」
ゲオルグが頷く。
「カラス商隊が先月の便で、ケイルンの住民が減っていると言っていた。理由は不明だ。交易路の安全確認を出す余裕があるか」
「人を出せば、ここの作業が遅れる」
「だがケイルンとの交易が途絶えれば、塩の供給が止まる」
住民たちの間にざわめきが走った。塩は保存食の要であり、灰域パンも干し肉も塩がなければ作れないからだ。
ゲオルグは黙って全員の顔を見渡すと最後にロイドを見た。
「ロイド、お前の判断は」
「備蓄を確認して、2週間分の余裕があれば一人出す。なければ様子を見る」
「それでいい」
ゲオルグの穏やかな声に誰も口を挟まなかった。
* * *
夕方、カイとタリアは集落の高台に登った。
ラストヘイムを一望できる崩れかけた建物の屋上だ。眼下には廃材の壁に囲まれた集落が広がり、その向こうへ灰原草の大地が続いている。
秋が近づいていた。灰原草の穂が白く変色し始め、風に揺れるたびに銀色の波が走る。これは灰域で唯一美しいと言われる景色だ。粉塵に曇った空の下で白い穂だけが仄かに光っている。
「いつかさ」
タリアが膝を抱えたまま言った。
「この通信機を全部直して、他の集落と繋ぎたい。ケイルンとも、もっと遠い集落とも。声が届けば、人は助け合える。交易の話だって、もっと早くできる」
風が吹くと灰原草の穂が一斉に傾いてさらさらと乾いた音を立てた。遠くで灰域鴉が鳴いている。
「やれよ」
カイが同じ言葉を繰り返すとタリアは笑った。
「あんたって本当にそれしか言わないね」
二人の間に沈黙が落ちる。子供の頃から変わらない。鉄屑を漁って廃墟を駆け回り、灰域パンを分け合ってきたのだ。
陽が傾き始めると灰原草の穂がいっそう白く輝いた。
カイはその光から目を上げて地平線を見た。昨夜あそこが赤かったが、今は何もない。
* * *
夜、集落の外で灰域鴉が一斉に飛び立った。
普段は鉄殻の残骸に巣を作り日没後は動かない大型の黒い鳥だ。それが数十羽も翼を打ち鳴らして南へ逃げていく羽音が集落に響き渡る。
カイは窓を開けた。冷えた風が頬を打つ。鴉の群れは夜空を横切りあっという間に見えなくなった。
リックが隣の区画から顔を出した。
「鴉が逃げるのは悪い兆候だって、マーサ婆ちゃんが言ってた」
カイは南の空を見た。昨夜の赤い光はなく、灰色の闇が地平線まで動かずに横たわっている。
窓を閉めようとした手が途中で止まった。鴉の羽音がまだ耳の奥に残っていた。




