鉄屑の空の下
摩耗した軸受けを素手で削る。
鉄粉が指の間に食い込み爪の下に錆が溜まる。灰域の人間の手はみなこんな色をしている。
カイ・セヴァルは17歳。生まれてから一度もこの荒野の外を知らない。
右膝関節の軸受けは20年前の量産型から引き抜いた中古品だった。内径が僅かに合わない。やすりを当てて削り、指先で回転を確かめた。引っかかる。もう一度削る。鉄粉が風に散った。
灰色の空の下、集落の外縁に転がる残殻の傍らでカイは朝から同じ作業を繰り返していた。腰には使い込んだマルチツールを提げ、首からぶら下げたゴーグルが鎖骨にぶつかる。鉄錆と砂の匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。
集落は廃墟の上に乗っている。カイがしゃがんでいる土台のコンクリートも元は何かの床だった。むき出しの鉄骨を廃材で塞いだ屋根と、罅割れた壁の隙間に組まれた住居。生まれてからずっと見てきた景色だ。住んでいるのは200人。誰がどの罅の向こうで寝起きしているかカイは全部言える。
空には鴉が旋回している。鉄殻の残骸に巣を作る灰域の鴉だ。あいつらのほうがこの土地の先住民だと誰かが言っていた。
軸受けをもう一度回すと今度は滑らかに回った。
カイは膝関節の枠に嵌め込んで固定ボルトを締めた。工具が手に馴染む。この残殻は寄せ集めだ。左腕は別の機体から移植し胴体装甲は3枚のうち1枚が欠けている。関節のあちこちにこびりついた錆苔は放っておけば装甲を食い破る。まともな鉄殻とは呼べないが、それでも灰域ではこれが命綱になる。
カイは操手ではないし戦ったこともない。ただの修理工だ。それでもガルドは「鉄殻に乗れるかどうかで生き死にが変わる」と繰り返し言った。父も同じことを言っていたらしい。
「またこんなところにいる」
背後から声が降ってきた。振り返るとタリア・ホリーがオーバーオール姿で廃材の山を越えてくるところだった。肩の長さで切り揃えた茶色がかった黒髪が風に煽られている。腰にはいつもの自作の通信機がぶら下がっていた。
「部品探し?」
「通信機のコンデンサが焼けた。予備がないから、この辺で拾えないかと思って」
タリアは残殻の横にしゃがみ込むと足元の廃材の山を漁り始めた。手慣れた動きだった。幼い頃からずっと二人でこうして鉄屑の中を這いずり回ってきた。
「あ、これ使えるかも」
タリアが引き抜いたのは焼け焦げた基板の一部だった。目を細めて部品を検分して満足げに頷く。
「カイ、膝は直った?」
「ああ。軸受けを削り直した」
「相変わらず器用だね。あたしは手が油まみれになるのは好きだけど、金属を削るのは苦手」
タリアは笑った。そばかすの浮いた鼻の頭に鉄粉がついている。カイは黙ってそれを指で払った。
昼食は集落の外縁で済ませた。
灰域パン。粗挽きの小麦とどんぐり粉を混ぜた平パンを焚き火の灰で焼いたものだ。硬くて薄くて味はほとんどない。それと干し肉の切れ端。カイは黙々と噛み、タリアは通信機の基板を膝の上に載せたまま齧っていた。
「行儀が悪い」
「あんたに言われたくない。食べながら工具握ってるくせに」
言われて左手に握りっぱなしのやすりに気づき、カイは無言でポケットに突っ込んだ。
風が吹くと砂と鉄錆の粒が頬を叩く。空は今日も灰色だった。カイはその色を疑ったことがない。青空というものを絵でしか見たことがなかった。
「そろそろ戻る」
カイは立ち上がって修理した軸受けの部品を布に包んだ。ガルドの作業場に持っていかなければならない。
* * *
ガルド・ヴェッセンの作業場は廃工場の一角を改装したものだった。
壁には旧世界の工具と自作の治具が所狭しと並んでいる。油と金属粉の匂いが染みついた空間に赤葉の煙が漂っていた。ガルドが口元に咥えた灰域煙草の独特の辛い香り。ラストヘイム産の赤葉はこの作業場の匂いの一部になっている。
カイが入るとガルドは残殻の脚部を分解した状態で棚に肘をつき、片手に遺灰酒の瓶を握っていた。彫りの深い顔の皺に金属粉が黒く溜まっている。痩せているのに廃材を担ぐときの腕だけは妙に太い。白髪交じりの暗褐色の髪はいつも無造作に流したままだ。
「持ってきた」
カイが布を広げるとガルドは煙草を咥えたまま軸受けを手に取った。指先で回転させて光にかざし、爪で表面を引っ掻く。沈黙が長い。
「溶接は悪くない」
ガルドが言い、カイは少し肩の力を抜いた。
「だが遊びが甘い」
軸受けがカイの手に押し戻された。内輪と外輪の隙間を詰めすぎている。熱で膨らんだ金属がその僅かな余裕を食い潰すのだ。
「公差ゼロじゃ鉄殻は動かん。完璧な嵌め合いは紙の上だけだ。実戦では砂が噛む、温度が上がる、衝撃で歪む。その全部を織り込んで初めて、部品になる」
飄々とした男だ。だが鉄殻の話になると声から無駄が抜ける。
「もう一度削れ。0.05ミリ広げろ」
「分かってる」
カイはやすりを取り出した。ガルドは酒瓶を棚に戻して赤葉の煙を吐いた。
削り直す間ガルドは黙って見ていた。カイの手つきを観察して時折「力を抜け」「やすりを寝かせるな」と短い指示を飛ばす。それだけだ。手本は見せない。失敗して自分の指で覚える。ガルドはずっとそうやってカイに教えてきた。
カイがこの男から学んだことは多い。工具の使い方から鉄殻の構造に軸受けの選び方まで、父がいなくなった後にガルドがそれとなく教えてくれた。師匠と呼んだことはないしガルドもそう呼ばれることを嫌がる。だがカイの手に刻まれた技術の大半はこの作業場で身についたものだった。
削り終えた軸受けを差し出すとガルドは今度は無言で頷いた。遊びが0.05ミリ広がっただけで指の感触が変わる。
「帰れ。飯の時間だ」
ガルドは赤葉に火をつけ直しながら棚の奥へ手を伸ばした。遺灰酒の瓶だ。芋から作ったラストヘイムの蒸留酒は灰域の中では比較的マシな味だと言われている。カイは飲んだことがない。
* * *
作業場を出ると夕暮れが近づいていた。
集落の中心ではゲオルグが子供たちと屋根の補修をしている。白髪を短く刈り上げた68歳の大男が丸太のような腕で廃材を持ち上げ、子供たちに釘の打ち方を教えていた。右頬の火傷痕が夕陽に照らされている。
「カイ、ちょうどいい。こっち持ってくれ」
ゲオルグに呼ばれてカイは梁を支える役に回った。子供たちが釘を打つたびに木材が振動する。一人が釘を曲げて泣きそうな顔をするとゲオルグは「まあ、座れ」と言い、自分の手で曲がった釘を引き抜いて新しいのを渡した。
ゲオルグの隣で梁を押さえながらカイは集落を見渡した。廃材の壁に囲まれた広場では女たちが夕食の支度を始めている。大鍋に乾燥豆と干し肉と根菜を放り込んで薪をくべる。誰の家から出た豆か誰が獲った肉かもう分からない。ラストヘイムの夕食はいつもこれだ。集落の全員が一つの鍋を囲む。
錆鉄キノコの苦い匂いが風に乗ってきた。鉄殻の残骸に繁殖する茶色いキノコを乾燥させて粉にし、スープに混ぜる。錆を食うと灰域では言う。文字通りの話だ。
屋根の補修が終わる頃には空が赤紫に染まっていた。
子供たちが散っていく。ゲオルグは懐中時計を取り出して一瞬だけ目を閉じた。亡き妻の形見だが誰もそのことに触れない。
カイは集落の高台に足を向けた。ラストヘイムを一望できる場所だ。崩れかけた建物の屋上に腰を下ろすと、灰原草の白くなりかけた穂が荒野の果てまで続いているのが見えた。秋が近い。
西の空が鉄錆色の大地に呑まれていく。
そのとき、足が止まった。
空は灰色のままだ。風の音も鴉の影も昨日と変わらない。何も変わっていない。
なのに首の後ろの毛が立っていた。カイは自分の手を見た。やすりを握ってもいないのに指が固まっている。
疲れだと思った。朝から残殻を弄っていたせいだろう。
立ち上がって高台を下りる。振り返ると南の空が微かに赤い。夕焼けの残り火か、それとも別の何かか。
答えは出ず、カイは集落に戻った。
* * *
寝床に入っても毛布の下で体が強張ったままだった。
馬鹿げていると寝返りを打つ。窓の外の灰色の闇に鉄殻の残骸が黒く沈んでいる。目を閉じたが、それでも強張りはほどけなかった。
眠りに落ちかけたとき、窓枠の鉄が赤く染まった。
今度は一瞬では消えなかった。一度、二度。南の空が繰り返し光っている。等間隔ではない。
カイは毛布をはねのけて窓に手をついた。




