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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
折れた天秤

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折れた天秤

「折れた天秤」最終話。

焚き火の灰が、風に舞った。

 仮設拠点の壁の隙間から冬の風が吹き込み、焚き火の残り火を散らす。カイは毛布を肩にかけたまま、灰の中の赤い欠片を見つめていた。こめかみの奥に、まだ鈍い痛みが残っている。コルヴァスとの戦闘から5日。冴覚(さいかく)の代償は、こうして長く体に居座る。


 ストーンクロスは失ったままだ。灰域(アッシュランド)の抵抗勢力は、ラストヘイムとアイアンウェルを結ぶ線の上に散らばっている。バートンの仮設拠点がその中心。だが拠点とは名ばかりの、壁が3面だけ残った旧世界の廃墟だ。天井代わりの鉄板に雪が積もり、時折その重みで鉄板が軋む音が響いた。


 バートンが全員を集めた。焚き火の周りに、灰域(アッシュランド)の人間たちが円を作る。

「状況を整理する」

 バートンの声は、いつもと同じ低い落ち着きを持っていた。目の下の隈が深くなっている。この男は夜通し各地との通信を続けていた。

「ストーンクロスは失った。だが住民は全員避難させた。死者はゼロだ。戦闘員の損耗は残殻(ざんかく)2機を完全喪失、3機が中破。修理可能なのは2機。つまり稼働可能な残殻(ざんかく)は5機に減った」

 バートンは数字を淡々と並べた。数字は感情を削ぎ落としてくれる。だが削ぎ落とした感情は、消えたわけではない。バートンの右手が、小指のない手が、テーブルの上で微かに震えていた。


 ボルトが腕を組んだ。

「次は負ける。5機で受けられる戦力じゃない」

 ボルトの声に虚勢はなかった。39年間を戦場で生きてきた男の、冷静な見立てだった。傭兵は現実を読み違えたら死ぬ。ボルトはまだ死んでいないということは、現実を読み違えたことがないということだ。


「だから短期決戦はしない」

 バートンが言った。

「これは持久戦だ。セルヴィスもグランヴェルトも、灰域(アッシュランド)に全戦力を投入しているわけじゃない。連中には連中の事情がある。セルヴィスは管区内の治安維持にも人員を割いている。グランヴェルトは鋼城(こうじょう)の建造に資源を集中している。灰域(アッシュランド)の冬は過酷だ。補給線が伸びれば負担が増える。外の連中にとっても、冬の灰域(アッシュランド)で長期作戦を維持するのは楽じゃない」


 トワが壁に背を預けたまま言った。

「つまり、冬の間は引きこもって耐えろってことか」

「耐えるだけじゃない。その間に外交を動かす。クレスタとの接触、セルヴィス内部の反鋼城(こうじょう)派への働きかけ。春までに、灰域(アッシュランド)だけでは作れない包囲網を作る」


 リントが口を開いた。

「バートンさん。ストーンクロスは取り戻せるんですか」

 バートンは一瞬だけ間を置いた。リントの目を見た。ストーンクロスで生まれ育った若い操手(そうしゅ)。妹をセルヴィスに連れ去られた男。赤いスカーフが首元で揺れている。

「取り戻す。だが今じゃない」

 リントは唇を噛んだが、頷いた。拳が白くなるまで握られていた。


 リオンが続けた。

「春を待つ間に、部隊の再建が必要です。残殻(ざんかく)の修理と補充。それから戦術の見直し。コルヴァスの遊肢(ゆうし)に対する対策が不十分でした」

「対策はある」

 カイが口を開いた。全員の視線が集まった。

「リーヴの遊肢(ゆうし)は4基同時展開で包囲してくる。だけど左手の操作が遅れる瞬間がある。そこを突けば包囲網に隙間ができる。問題は、1対1じゃその隙間を突いても後が続かないことだ。連携が要る」

「カイが隙間を作り、リオンがそこを突く」

 トワが煙草の煙を吐きながら言った。

「悪くない。だが練度が足りない。冬の間に訓練する時間はあるか」

「作る」

 カイは言った。



 * * *



 会議が解散した後、ガルドがカイに声をかけた。

「来い。見せたいものがある」


 ガルドはケストレルの整備区画に向かった。作業台の上に工具が並び、予備部品が木箱に入れられている。油の匂いと金属の匂いが混じった、ガルドの居場所の匂い。その奥。ガルドは作業着の内ポケットから、小さな金属の箱を取り出した。手のひらに収まる大きさ。角が丸くなった、古い金属筐体。旧世界の録音装置だった。


「テオが残したものだ」

 ガルドの声は低かった。いつもの飄々とした調子が消えていた。

「消える前に、俺に預けた。『カイが操手(そうしゅ)になると決めた時に渡してくれ』と言っていた。お前がケストレルに乗ると決めた時が、本当ならそのタイミングだったんだろう。だが渡せなかった。お前が真実を知る前に渡すのは卑怯だと思った。知った後では受け取ってもらえないかもしれないと思った」

 ガルドは息を吐いた。

「もうこれ以上待てない。聞いてくれ」


 カイは金属の箱を受け取った。冷たい。冬の空気で冷えた金属の感触が、手のひらに染みた。テオが触ったかもしれない金属。7年前の指の温度は、もうどこにも残っていない。


「側面のボタンを押せ」


 カイはボタンを押した。

 ノイズが走った。旧世界の録音装置の、古い磁気テープが動く音。ザーッという砂嵐のような音の中から、声が浮かび上がった。


 テオの声だった。


 カイの指が、金属の箱の上で固まった。7年間聞いていない声。記憶の中で少しずつ輪郭を失いかけていた声。だがテープから流れてきた瞬間、全てが鮮明に蘇った。低くて、少し掠れていて、言葉を選んでから話す癖があって。朝、作業場に入ってくる時の「おはよう」の声。工具を手渡す時の「持ってろ」の声。夜、焚き火の前で黙って隣に座っていた時の、何も言わない沈黙さえ。

 自分と同じ癖だと、今になって気づいた。


『ガルド。これを聞いてるってことは、俺はもう戻れなかったんだろう』


 テオの声は落ち着いていた。覚悟を決めた人間の声だった。


『ケストレルをカイに渡してくれ。あいつが操手(そうしゅ)になるかどうかは、あいつが決めることだ。強制するな。だが、もし乗ると決めたなら――鋳脈(ちゅうみゃく)は使わせるな。絶対にだ』


 テオの声が、一瞬だけ途切れた。息を吸う音がした。テープのノイズの向こうに、風の音が微かに聞こえた。テオがこれを録音した時、どこにいたのだろう。灰域(アッシュランド)のどこかの、風が吹く場所。


『俺は自分で選んで鋳脈(ちゅうみゃく)を受けた。お前のせいじゃない、ガルド。お前は止めてくれた。俺が聞かなかった。だが鋳脈(ちゅうみゃく)は人間が背負うには重すぎる。俺の体がどうなったか、お前が一番知ってるだろう。あれをカイにはさせるな。俺の代わりに、頼む』


 録音が途切れた。ノイズだけが流れる。もう声は来ないのかと思った。金属の箱が手の中で震えていた。震えていたのは箱ではなく、カイの手だった。


 テオの声が、最後にもう一度だけ聞こえた。


『カイ。お前がこれを聞いてるかは分からない。だが、言っておく。お前は俺より強い。鋳脈(ちゅうみゃく)なんかなくても。親父の真似をするな。お前の道を行け』


 録音が終わった。

 金属の箱が、カチリと小さな音を立てて停止した。


 カイの頬を、涙が一筋流れた。

 声を出さなかった。操縦桿を握るように、金属の箱を両手で握りしめた。テオの声が、まだ耳の中で反響している。7年間。この声を聞きたかった。父が自分のことを考えていたのかどうか、知りたかった。消えたのは自分を捨てたからではないのかと、夜中に何度思ったか分からない。


 考えていた。消える直前まで。


 ガルドはカイの隣に立っていた。何も言わなかった。煙草にも火をつけなかった。両手を作業着のポケットに突っ込んで、ただ立っていた。この男も7年間、この録音を抱えていたのだ。渡せないまま、抱えていた。


 長い時間が過ぎた。

 カイは目を拭い、静かにガルドに向き直った。

「親父の声、久しぶりに聞いた」

「ああ」

 ガルドの声は短かった。だがその一音の中に、7年分の重さがあった。


「ガルド」

「なんだ」

鋳脈(ちゅうみゃく)は受けない。親父が言ったからじゃない。ダリオの耳を見た。リーヴの左手を見た。俺自身が、受けないと決めた。親父と同じ結論だったってだけだ」


 ガルドは黙って頷いた。煙草を取り出し、火をつけた。赤い火が、二人の間の暗がりを一瞬だけ照らした。ガルドの目尻の深い皺が、炎の光で動いた。

 二人の間の亀裂が、ゆっくりと塞がり始めていた。完全ではない。だが同じ場所に立っている。同じ方向を見ている。今は、それで十分だった。



 * * *



 夜が更けた。

 仮設拠点の外に出ると、雪が降っていた。音のない雪。灰色の空から、白い欠片が際限なく落ちてくる。地面に積もった雪が、廃墟の輪郭を柔らかく覆い隠していた。旧世界の壁も、鉄殻(てっかく)の残骸も、白い衣の下に沈んでいく。


 カイは空を見上げた。

 焦土紀(しょうどき)23年が終わろうとしている。明日から、焦土紀(しょうどき)24年。新しい年。


 焚き火の周りに、人が集まっていた。バートンが薪をくべている。乾いた木が炎の中で爆ぜ、橙色の火の粉が立ち上る。ボルトが酒瓶を傾けていた。リントが火に手を翳し、赤いスカーフの下で何かを呟いている。妹の名前かもしれない。トワは少し離れた場所で煙草を吸い、灰色の空を見上げていた。リオンは毛布に包まって焚き火の光を浴びていた。紺色の目に炎が映り、揺れている。ガルドはケストレルの足元で工具を磨いていた。明日の整備のために。まだ直すものがある限り、この男は工具を磨き続ける。

 灰域(アッシュランド)の年越しに特別な行事はない。ただ火を焚いて、旧い年を送る。それだけの小さな慣習が、ここにあった。


 リオンがカイの隣に来た。毛布の中から白い息を吐いた。

「音声データ、聞いたんですね」

「ああ」

「お父さんは、あなたのことを考えていた」

「ああ」

「よかった」

 その一言は短かったが、嘘がなかった。カイは少しだけ、口の端を持ち上げた。


 リオンは何か言おうとして、やめた。代わりに、カイと同じ方角を見た。東。ストーンクロスがある方角。そしてその遥か向こうに、グランヴェルトの鋼城(こうじょう)が建造されている方角。鋼城(こうじょう)モノリスが完成すれば、灰域(アッシュランド)どころか世界の力の均衡が崩壊する。3ヶ月から4ヶ月。それが残された時間。

 だがその時間は、同時に準備の時間でもある。冬の間に部隊を再建し、連携を鍛え、外交を動かす。春が来る前に、打てる手を全て打つ。


 バートンが酒瓶を掲げた。

「新しい年に」

 短い言葉だった。乾杯の音頭にしては素っ気なかった。だが誰も文句を言わなかった。ボルトが瓶を受け取り、一口飲んで、隣に回した。酒瓶が円を描くように回り、トワが一口、リントが一口、リオンが一口。カイも受け取って、一口飲んだ。灰原草の蒸留酒が喉を灼いた。ガルドは工具を置いて立ち上がり、焚き火に近づいて酒瓶を受け取った。一口。大きな一口だった。


 遠くから、風が何かを運んできた。鉄の匂い。冬の灰域(アッシュランド)の、凍った大地の匂い。そしてもっと遠くから、鋼城(こうじょう)が産声を上げる金属の唸りが聞こえるような気がした。気のせいだ。ここから旧中欧のグランヴェルト本領までは、途方もない距離がある。だがカイの肌は、何かが始まろうとしている気配を感じ取っていた。


 灰域(アッシュランド)の冬は深まっていく。春はまだ見えない。鋼城(こうじょう)の完成まで3ヶ月から4ヶ月。その前に動かなければ、全てが終わる。

 だがカイの目には、確かな光が宿っていた。父の声を聞いた。鋳脈(ちゅうみゃく)を拒む意志を固めた。隣にはリオンがいる。ガルドがいる。バートンがいる。ボルトがいる。トワがいる。リントがいる。灰域(アッシュランド)の仲間がいる。

 まだ、終わっていない。


 雪が降り続いていた。灰色の空から、白い欠片が音もなく落ちてくる。焚き火の火の粉が、雪の中に舞い上がった。赤い光と白い光が交錯し、灰域(アッシュランド)の夜空に一瞬だけ、小さな星のように瞬いた。

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