俺の答え
銃口が、目の前にあった。
ソルスティスの右前腕に内蔵された30ミリ機関砲。距離は20メートルもない。至近距離。ケストレルは片膝をつき、両脚の損傷で立ち上がれない。左腕の関節は半壊し、鍛翼刀を握る右腕だけがまだ動く。だがこの体勢から振っても、リーヴの機体に届かない。
4基の遊肢が、頭上を旋回していた。等間隔の包囲網。逃げ場はない。
コックピットの中は暖房が切れかけていた。吐く息が白い。計器の半分が警告を示し、燃料残量は28パーセント。機関温度は黄域の上端に張りついている。ケストレルは満身創痍だった。
だがカイの頭は、不思議なほど冷えていた。冴覚の余韻ではない。もっと深い場所にある冷静さだった。
通信が開いた。リーヴの声。
「なぜ鋳脈を受けない」
唐突な問いだった。銃口を向けたまま、リーヴは問うた。声は穏やかで、しかし切迫していた。答えを求めている声だった。
「お前の冴覚に鋳脈を加えれば、俺と同じ場所に立てる。遊肢も使える。計器の読み取りに頼る必要もなくなる。機体のセンサーが体の一部になる。なぜ拒む」
カイは息を吐いた。操縦桿を握ったまま、答えた。
「お前の左手」
カイは言った。
「もう感覚ないだろう」
沈黙。
ソルスティスの銃口が、微かに揺れた。揺れたのは一瞬だった。だがカイはそれを見た。冴覚ではない。この戦闘の中で、何度もリーヴの左手を見続けてきた目が、あの揺れを捉えた。
「さっきの鍔迫り合いで分かった。双牙刀の衝撃が来た時、左手の反応が遅れてた。握ってはいる。だけど、握ってる感触がないから、力の加減ができない。衝撃を受けた瞬間に刃の角度がずれる。右手ではずれない。左手だけがずれる」
リーヴは答えなかった。灰域の風が、2機の鉄殻の間を吹き抜けた。雪がちらつき始めている。
「ダリオ・メイスの耳も壊れてた」
カイは続けた。声を荒げず、淡々と。
「通信を聞き逃して、味方への指示が遅れて、そこを突かれた。俺が突いた。あの人は遊肢を2基操れる操手だった。鋳脈がなければ。だが鋳脈の代償で聴覚が壊れて、鋳脈で得たはずの力を発揮できなくなっていた」
カイは操縦桿を握ったまま、リーヴのソルスティスを見上げた。漆黒の装甲。赤いメインカメラの光。その奥に、20歳の青年が座っている。体が壊れかけている青年。
「強い側が正しいって言うなら、お前の体が壊れていくのも正しいのか。鋳脈の代償で味覚がなくなって、指先の感覚がなくなって、そのうち目も耳もダメになるかもしれない。それが正しいのか」
「それは対価だ」
リーヴが答えた。声は平坦だった。感情を削ぎ落とした声。
「守るための力を得る対価だ。俺は選んだ。14の時に自分で選んだ」
「14歳の子供に、選ぶ力なんてあったのか」
通信の向こうで、風の音が聞こえた。灰域の冬の風。リーヴが生まれた土地の風。リーヴもかつて、この風を知っていたはずだ。
リーヴの遊肢が揺れた。4基のうち1基が、軌道を僅かにぶらした。旋回の軌道が歪み、一瞬だけ包囲網に隙間ができた。リーヴの集中が乱れた証拠だ。カイの言葉が、鋳脈のフィードバックでは防げない場所に届いている。
「お前に何が分かる」
リーヴの声は低かった。だが怒りではなかった。もっと深い場所から出てきた声だった。胸の底を抉り出すような声。
「灰域で何も守れなかった俺に、力以外の何があった。お前にはラストヘイムがあった。ガルドがいた。ゲオルグがいた。集落の人間がいた。俺には何もなかった。4歳で両親が死んで、セルヴィスの孤児保護プログラムに回収されて、兵士にされた。力がなければ捨てられる場所で、力だけを頼りに生きてきた。それの何が悪い」
カイは黙った。
リーヴの言葉は、嘘ではなかった。灰域で両親を失い、セルヴィスに回収され、14歳で鋳脈を受けた少年。カイの10歳の時、テオは消えたが、ガルドがいた。ゲオルグがいた。クレアがいた。タリアがいた。ラストヘイムの200人がいた。
リーヴには、誰もいなかった。
答えが見つからなかった。正しい言葉が見つからなかった。だがカイは口を開いた。正しい答えではなく、今この瞬間に言える言葉を。
「俺には分からない。お前の14歳の時のことは分からない」
操縦桿を握る手に、力を込めた。
「だけど、お前の左手が壊れていくのを見て、それでいいとは思えない。鋳脈がなければ守れない世界なら、俺は鋳脈なしで守れるようになる。それが俺の答えだ」
* * *
リーヴが引き金を引こうとした瞬間、右方から衝撃波が走った。
残殻が一機、全速で突っ込んできた。リオンの残殻だった。右腕のルークが火を噴き、40ミリの弾がソルスティスの右肩に当たった。装甲をかすめただけだ。漆黒の塗装に白い傷痕が走っただけ。だがソルスティスの銃口がカイから逸れた。一瞬。だが一瞬で十分だった。
リオンの通信がリーヴに届いた。開放回線。誰にでも聞こえる周波数。
「リーヴ」
その声は、軍人の声ではなかった。命令でも報告でもなかった。士官学校の同期の声だった。かつて同じ教室で、同じ訓練場で、同じ空の下にいた人間の声。
「あなたが守りたかったのは、力じゃなかったはずだ」
ソルスティスが動きを止めた。
4基の遊肢が、一斉に静止した。旋回を止め、空中で浮遊したまま、射撃姿勢を解いている。推進ノズルの炎だけが、灰色の空にちらちらと揺れていた。リーヴの集中が途切れたのではない。リーヴが、止めたのだ。
「お前に何が分かる」
リーヴが繰り返した。同じ言葉。だが声が震えていた。
「鋳脈を拒んで、高官の娘として安全な場所にいたお前に。俺が何を捨てたか、お前に分かるのか」
「分からない」
リオンは言った。その声は真っ直ぐだった。虚勢も同情もない声。
「分からないから、ここにいる。セルヴィスを捨てて、ポラリスを置いて、残殻で灰域にいる。分からないことから逃げたくなかったから」
長い沈黙が落ちた。
灰域の風が、3機の鉄殻の間を吹き抜けた。雪がちらつき始めている。灰色の空から白い欠片が降り、漆黒のソルスティスの肩に積もっていく。
リーヴは銃口を下ろした。
4基の遊肢が、背部の懸架アームに静かに収容されていく。花弁が閉じるように。一基ずつ、アームに吸い込まれ、ロックの音が通信越しに聞こえた。
「次は、答えを聞く」
リーヴの声は低く、掠れていた。
「お前の答えが本物かどうか。鋳脈なしで俺に勝ってみせろ、カイ・セヴァル。言葉ではなく、戦場で」
ソルスティスが後退した。背を向けることなく、正面をカイに向けたまま、雪原の彼方へ退いていく。漆黒の機影が灰色の雪景色に溶けていく。コルヴァスの汎殻部隊もまた、リーヴに続いて後退を始めた。ボルトの部隊との交戦を打ち切り、整然と撤退していく。コルヴァスの統率は、撤退時にも乱れなかった。
勝ったのではない。リーヴが退いたのだ。カイの言葉と、リオンの声が、リーヴの中の何かに触れた。それだけだ。次に会った時、リーヴは退かないだろう。
* * *
リーヴの銘殻が雪原の向こうに消えた。
カイは損傷したケストレルの中で、静かに息をついた。操縦桿を握る手が震えていた。戦闘の緊張が溶けて、体が勝手に震え始めている。こめかみの奥で鈍い痛みが脈打っていた。冴覚の代償。鼻の奥にかすかな鉄の味がする。
リオンの残殻が横に立った。彼女の機体もボロボロだった。右腕の装甲が半分剥がれ、左脚の関節から黒い油が滴っている。センサーブロックにひびが入り、片目のカメラが死んでいた。だが、立っている。
カイは通信を開いた。
「……助かった」
「お互い様」
リオンの声は短かった。だがその短さの中に、軍人の簡潔さとは違う温度があった。
遠くで、ボルトの怒号が聞こえた。コルヴァスの撤退を確認したボルトが、残殻部隊に集結を命じている。トワの残殻が丘の上に姿を現した。無傷ではない。左肩の装甲が剥がれている。だが動いている。リントの通信が入った。
「カイ、生きてるか」
「生きてる」
「よし。こっちも全員生きてる。リオンさんのおかげで偵察遊肢を2基落とせた」
カイはヘルメットの中で、目を閉じた。
鋳脈なしで守れるようになる。自分で言った言葉が、頭の中で反響していた。大きな言葉だった。今の自分には、まだその力がない。リーヴに勝てなかった。言葉で退かせただけだ。
だが言った以上は、やるしかない。
雪が降り始めた。灰色の空から、白い欠片が静かに落ちてくる。ケストレルの傷だらけの装甲の上に、雪が積もっていく。赤く点滅する警告灯の光が、白い雪の上で滲んでいた。




