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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
折れた天秤

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お前が守りたいのは

港湾区画の暗がりは、潮と錆の匂いがした。


 リオンはコンテナの影に体を押し込み、周囲を確認した。ポートガードの港は旧ニューヨーク近郊の沿岸部を再開発した場所で、クレスタとの物流の窓口として機能している。管区内で最も統制が緩い区画だとルイは言っていた。雑多な人間が出入りし、軍の検問も形式的なものが多い。密輸が横行し、それを軍が黙認している。物流を止めれば管区経済が止まる。だから目を瞑る。


 コンテナは錆びた鉄の箱だ。かつては貨物を運んでいたが、今は積み上げられて防壁のようになっている。コンテナの間を縫うように、狭い路地が走っている。路地には水たまりがあり、どこからか排水が流れ込んでいた。空気は湿っていて、冬でも潮気を含んでいる。灰域(アッシュランド)の乾いた空気とは、何もかもが違う。


 リオンは暗色の戦闘服を着て、髪を帽子の中に押し込んでいた。灰域(アッシュランド)の住民に見えるように振る舞っている。姿勢を少し崩し、歩幅を小さくし、地面を見ながら歩く。ルイに教わった灰域(アッシュランド)の歩き方。ブーツだけがセルヴィス支給品のまま。履き慣れた靴を換える余裕はなかった。足元を見られなければ大丈夫だとルイは言った。


 アイリスから受け取った内部文書は、防水布に包んで胸の内ポケットに入れてある。冴覚(さいかく)児童回収計画の更なる証拠。施設の配置図、検査スケジュール、過去3年間の回収児童リスト。これを持ってストーンクロスに戻る。明日の朝、ルイが手配した物流船に乗る。


 腰の通信機が振動した。


 リオンの体が硬くなった。この通信機を知っている人間は限られている。暗号化された私的回線。周波数を確認して、リオンの背中に冷たいものが走った。


 士官学校時代の通信回線。同期生間で共有する暗号鍵を使った、軍の正規通信網を経由しない回線。士官学校を卒業した後も、この回線は残されていた。使う者は殆どいない。だが、暗号鍵は生きている。


 リーヴからだった。


 リオンは数秒間、通信機を見つめた。応答するべきかどうか。罠の可能性。だが、この回線を使うということは、軍の記録に残らない形での接触を選んだということだ。リーヴが公式に動くなら、追跡部隊を送ればいい。コルヴァスの銘殻(めいかく)を差し向ければ、リオンに逃げる術はない。わざわざ私的回線を使う理由がない。


 つまり、これは個人的な接触だ。リーヴ・シェイドという個人が、リオン・アスフォードという個人に話しかけようとしている。


 応答した。


「リオン・アスフォード」


「久しぶりだな」


 リーヴの声は穏やかだった。士官学校の頃と変わらない、柔らかい声。あの頃のリーヴは成績優秀で、礼儀正しく、教官にも同期にも好かれていた。リオンより2歳年上。12歳で冴覚(さいかく)の発現が確認され、14歳で鋳脈(ちゅうみゃく)を受けた。リオンが士官学校に入学した時、リーヴは既に学校の伝説だった。


 しかしリオンは知っている。あの穏やかさの内側にあるものを。穏やかな声の奥にある飢餓を。もう奪われたくないという、14歳の子供の渇望が、20歳の青年の中にまだ生きていることを。


「この回線を使うということは、正式な通達ではないのですね」


「敬語はやめろ。同期だろう」


 短い沈黙。コンテナの向こうで、貨物船の汽笛が鳴った。低い、長い音。夜の港に響いて消える。


「お前が守りたいのは灰域(アッシュランド)の連中か、それとも、あの操手(そうしゅ)か」


 リオンの息が止まった。


 あの操手(そうしゅ)。カイ・セヴァルのことだ。リーヴがカイの存在を把握していることは、驚きではない。コルヴァスの隊長として、灰域(アッシュランド)の戦力は当然調査しているだろう。だが、その問いの裏にあるものは何だ。


カイの顔が浮かんだ。格納庫の前で「帰って来い」と言ったカイの顔。暗い灰色の目。不器用で、寡黙で、手が荒れていて、修理工の匂いがする少年。言葉が足りない。感情を表に出さない。だが、理不尽に対しては決して折れない。


 灰域(アッシュランド)の人々の顔が浮かんだ。ゲオルグの皺だらけの手。タリアの明るい茶色の目。ロイドの険しい顔。クレアの曲がった左手の指。マーサの穏やかな微笑み。


「両方だ」と答えるのは簡単だった。だがリーヴはそんな答えを求めていない。リーヴの問いは、いつもそうだ。穏やかな声で、相手の核心を抉り出す。「両方」という答えは逃げだ。リーヴはそれを見抜く。


「あなたは何を守っている、リーヴ」


 リオンは質問を返した。声が震えないように注意した。唇を噛み、呼吸を整え、通信機に向かって言った。


 通信の向こうで、沈黙が続いた。ポートガードの風が通信機のマイクに当たり、微かなノイズが走る。コンテナの隙間から見える海は黒く、波の音が低く響いている。


「俺はセルヴィスだ。セルヴィスが居場所をくれた」


 リーヴの声には、初めて聞く種類の重さがあった。普段の穏やかさではなく、何かを必死に掴んでいる人間の声。溺れかけている人間が、浮き輪にしがみつくような声。


「その居場所は、あなたの体を壊している」


 リオンは言った。声が震えた。抑えきれなかった。


 リーヴの左手の指先が白くなっていることを、リオンは知っている。士官学校の頃、リーヴの手は温かかった。握手をした時の感触を覚えている。今は違う。触覚を失い始めている手。食事の時に箸を落とす手。それを「癖だ」と言い繕う手。鋳脈(ちゅうみゃく)の代償が、20歳の青年の体を蝕んでいる。


鋳脈(ちゅうみゃく)の代償は俺が選んだことだ」


「選んだ。本当にそう思っているの」


「リオン」


「14歳の子供に、選ぶ力があったの。灰域(アッシュランド)の孤児で、身寄りがなくて、セルヴィスだけが居場所だった子供に。あなたは選んだんじゃない。それしかなかったの」


 通信が切れた。


 リーヴが切ったのか。電波状態が悪かったのか。分からない。通信の途切れ方が唐突で、ノイズの変化もなかった。リーヴが自分で切ったのだろう。リオンの言葉が、リーヴの中の何かに触れたのだ。


 リオンは通信機を握りしめたまま、コンテナの壁に背中を預けた。冷たい鉄の感触が、戦闘服を通じて背中に伝わる。


 夜の港湾区画に、貨物船の汽笛が再び響いた。遠い音。海風が潮の匂いを運んでくる。コンテナの間を猫が一匹走り抜けた。


 リオンは額に手を当てた。


 リーヴの声が頭から離れない。「俺はセルヴィスだ」という言葉の奥に、何かが震えていた。あれは確信ではなかった。自分に言い聞かせている声だった。毎日、毎朝、目が覚めるたびに繰り返しているような声。俺はセルヴィスだ。俺の居場所はここだ。俺の選択は正しかった。


 その声が震えていたということは、リーヴ自身がそれを信じ切れていないということだ。


 リオンは立ち上がった。明日の朝にはこの港を発ち、ストーンクロスに戻る。冴覚(さいかく)児童回収計画の証拠を持って。やるべきことがある。立ち止まっている余裕はない。


 だがリーヴの声は、しばらく消えそうになかった。

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