不時着
瓦礫の中に眠る銘殻。そのコックピットに、一人の軍人がいた。
コックピットのハッチは、損傷で半分開いていた。
カイは銘殻の胴体をよじ登り、ハッチの隙間に手を差し込んだ。引く。動かない。装甲板が歪んで噛み合っている。マルチツールを腰から抜き、歪んだ金属の端にこじ入れた。体重をかけてテコの原理で押す。ギ、と金属が軋み、ハッチが30センチほど開いた。
中を覗き込んだ。
コックピット内部は、残殻のそれとは別世界だった。計器パネルが整然と並び、操縦桿は人間工学に基づいた曲線を描いている。シートは衝撃吸収素材で覆われ、フットペダルの表面に滑り止めの溝が彫られている。これだけの精度で仕上げられたコックピットを、カイは見たことがなかった。
だが今は、計器に目を奪われている場合ではない。
シートに人がいた。
女性だった。
意識がない。シートベルトに体が支えられ、頭が左に傾いている。額の右側から血が流れ、乾いて黒くこびりついていた。灰青色の軍服。肩章に紋章が刻まれている。カイはその紋章に見覚えがなかったが、軍服であることは分かった。
脱水している。唇が乾き、白く割れている。呼吸は浅いが、胸が動いている。生きている。
カイはハッチをさらにこじ開けた。肩幅が通るだけの隙間を確保し、コックピットの中に上半身を滑り込ませた。
複合装甲の破片がコックピット内に散乱していた。計器パネルの一部が割れ、ガラスの欠片がシートの上に散っている。左腕が不自然な角度に曲がっている。骨折だ。肋骨にも損傷がありそうだ。呼吸のたびに、微かに顔が歪む。
シートベルトを外し、女性の体を慎重に引き出した。銘殻の装甲は滑らかで、残殻のように錆や突起に引っかかることがない。それだけが救いだった。
担ぎ上げた。
軽い。身長はカイより高いが、脱水と衝撃で体が消耗している。黒髪が解けて、カイの腕にかかった。
集落まで500メートル。瓦礫の上を、カイは走った。
* * *
クレアの診療所は、戦闘の余波で壁にひびが入っていた。
だが中の医療器具は無事だった。クレアが負傷した女性をベッドに寝かせ、軍服を脱がせようとした瞬間、手が止まった。
一瞬だけだった。
軍服の肩章。紋章。セルヴィス防衛機構の所属を示す記章。
クレアの首筋にある刺青が、蛍光灯の代わりの獣脂の灯りの下で浮き上がった。セルヴィスの軍医識別番号。消そうとして消しきれなかった過去の痕。
目の前の女性の軍服と、自分の首筋の刺青。同じ組織の記号だ。
クレアは一つ息を吸い、治療に取りかかった。
「左前腕の橈骨骨折。額の裂傷は縫合が必要。肋骨にひびが入ってる可能性がある。脱水が進んでるから、まず水分を補給する」
クレアの声は事務的だった。感情を消した、医師の声。
カイは傍らに立って、クレアが包帯を巻き、傷を洗い、添え木で腕を固定するのを見ていた。灰域衛生団の救急箱。中身は最低限だが、クレアの手が足りない部分を補っている。
「箱だけは立派なのよ」
クレアが独り言のように呟いた。救急箱は旧世界の規格品で、しっかりした金属製だ。だが中身の包帯や消毒液は何年も前から補充されていない。
ガルドが診療所に来た。
入口に立ち、ベッドの上の女性を一瞥した。軍服を見て、表情が変わった。
「セルヴィスの人間か」
「ああ」
「厄介なことになるぞ」
ガルドの声は低かった。煙草を咥えたまま、腕を組んでいる。
「セルヴィスの軍人を匿えば、クレスタが嗅ぎつけた時に報復される。セルヴィスが回収に来れば、集落の位置が軍に知られる。どっちに転んでも、いい結果にはならん」
カイは黙って聞いていた。ガルドの言葉は正しい。だが。
「目の前で死にかけてる人間を、見捨てる気にはなれない」
ガルドはカイの顔を見た。長い沈黙の後、何も言わずに背を向けた。作業場に戻っていく背中から、赤葉の残り香が漂っていた。
* * *
治療が一段落した後、カイは銘殻の元に戻った。
砂と瓦礫に半ば埋もれた機体。午後の薄い光の下で、損傷した装甲が鈍く光っている。
外装を調べた。技匠の目で見る。
左肩装甲板の歪み。修正可能だが、専用工具がいる。右脚の膝関節の損壊。軸受けが破損している。交換部品が必要だ。コックピット周辺のフレームに走った亀裂。溶接で補修できるが、強度は落ちる。
だがフレームの骨格は生きている。動力炉も損傷はあるが、致命的ではない。
カイの手が、無意識に機体の表面を撫でた。装甲の質が違う。残殻の荒い鋳造品とは比較にならない、均一で緻密な金属の肌触り。関節部の仕上げは手作業の痕跡があり、精密機械の滑らかさがある。
機体の胴体に、文字が刻まれていた。
POLARIS。
「ポラリス」
カイは呟いた。北極星の名前だ。
残殻との差は歴然としていた。同じ鉄殻という分類でも、ポラリスとカイの残殻は別の生き物だ。灰域の技術と、管区の技術の間にある溝が、ここに凝縮されている。
* * *
診療所に戻ると、クレアが軍服を畳んでいた。
「気づいた?」
クレアが軍服の襟を広げた。内側に、刺繍で個人名が縫い込まれている。几帳面な細い文字。
R. Ashford.
「アスフォード」
カイは名前を読み上げた。聞いたことのない名だ。だが軍服に名前が縫い込まれているということは、正規の軍人だ。階級章を見ると、少尉。若い将校。
「セルヴィスの少尉が、なぜ灰域で一人で銘殻に乗って落ちてるのかしらね」
クレアの声は冷静だったが、その目は考え込んでいた。
カイはベッドの上の女性を見た。長い黒髪がベッドに広がり、額の傷が白い包帯で覆われている。顔は整っているが、目を閉じた表情は苦しげだ。眉の間に微かな皺が寄っている。眠りの中でも、痛みから逃れられないのだろう。
この女は、灰域を「見捨てた側」の人間だ。
ゲオルグが語った無籍民の話。焦土条約。灰域は法の外。その法を作り、灰域を無主地と宣言した組織の軍人が、今カイの目の前で眠っている。
カイは窓の外を見た。瓦礫の片付けを始めた住民たちの姿がある。崩れた壁を積み直し、割れた窓に板を打ちつけている。流れ弾で壊された住居の持ち主が、黙々と廃材を運んでいる。
誰も文句を言わない。文句を言う相手がいないことを、全員が知っている。
クレアが軍服をカイの手に渡した。
「洗って干しておいて。血は冷水で先に落とすこと」
「分かった」
カイは軍服を受け取り、診療所を出た。
手の中にある灰青色の布。セルヴィス防衛機構の紋章。R. Ashford。
見捨てた側の人間を、見捨てられた側の人間が助けた。
それが正しいのかどうか、カイには分からなかった。ただ、目の前で死にかけている人間を放っておけなかっただけだ。それ以上の理由はない。
軍服を抱えて水場に向かいながら、カイは南の空を見上げた。煙はもう見えなかった。だが戦闘が終わったわけではない。遠ざかっただけだ。
そしてあの女が目を覚ました時、何が起きるのか。
カイにはまだ、想像がつかなかった。
ポラリス――北極星の名を冠するセルヴィスの銘殻。中距離射撃と高機動回避に特化した設計で、操手の冴覚による回避能力を最大限に引き出す機体として設計された。




