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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: ret_riever
鉄錆の邂逅

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10/10

不時着

瓦礫の中に眠る銘殻(めいかく)。そのコックピットに、一人の軍人がいた。

コックピットのハッチは、損傷で半分開いていた。

 カイは銘殻(めいかく)の胴体をよじ登り、ハッチの隙間に手を差し込んだ。引く。動かない。装甲板が歪んで噛み合っている。マルチツールを腰から抜き、歪んだ金属の端にこじ入れた。体重をかけてテコの原理で押す。ギ、と金属が軋み、ハッチが30センチほど開いた。


 中を覗き込んだ。

 コックピット内部は、残殻(ざんかく)のそれとは別世界だった。計器パネルが整然と並び、操縦桿は人間工学に基づいた曲線を描いている。シートは衝撃吸収素材で覆われ、フットペダルの表面に滑り止めの溝が彫られている。これだけの精度で仕上げられたコックピットを、カイは見たことがなかった。

 だが今は、計器に目を奪われている場合ではない。

 シートに人がいた。


 女性だった。

 意識がない。シートベルトに体が支えられ、頭が左に傾いている。額の右側から血が流れ、乾いて黒くこびりついていた。灰青色の軍服。肩章に紋章が刻まれている。カイはその紋章に見覚えがなかったが、軍服であることは分かった。

 脱水している。唇が乾き、白く割れている。呼吸は浅いが、胸が動いている。生きている。


 カイはハッチをさらにこじ開けた。肩幅が通るだけの隙間を確保し、コックピットの中に上半身を滑り込ませた。

 複合装甲の破片がコックピット内に散乱していた。計器パネルの一部が割れ、ガラスの欠片がシートの上に散っている。左腕が不自然な角度に曲がっている。骨折だ。肋骨にも損傷がありそうだ。呼吸のたびに、微かに顔が歪む。

 シートベルトを外し、女性の体を慎重に引き出した。銘殻(めいかく)の装甲は滑らかで、残殻(ざんかく)のように錆や突起に引っかかることがない。それだけが救いだった。


 担ぎ上げた。

 軽い。身長はカイより高いが、脱水と衝撃で体が消耗している。黒髪が解けて、カイの腕にかかった。

 集落まで500メートル。瓦礫の上を、カイは走った。



 * * *



 クレアの診療所は、戦闘の余波で壁にひびが入っていた。

 だが中の医療器具は無事だった。クレアが負傷した女性をベッドに寝かせ、軍服を脱がせようとした瞬間、手が止まった。

 一瞬だけだった。

 軍服の肩章。紋章。セルヴィス防衛機構の所属を示す記章。

 クレアの首筋にある刺青が、蛍光灯の代わりの獣脂の灯りの下で浮き上がった。セルヴィスの軍医識別番号。消そうとして消しきれなかった過去の痕。

 目の前の女性の軍服と、自分の首筋の刺青。同じ組織の記号だ。

 クレアは一つ息を吸い、治療に取りかかった。


「左前腕の橈骨骨折。額の裂傷は縫合が必要。肋骨にひびが入ってる可能性がある。脱水が進んでるから、まず水分を補給する」

 クレアの声は事務的だった。感情を消した、医師の声。

 カイは傍らに立って、クレアが包帯を巻き、傷を洗い、添え木で腕を固定するのを見ていた。灰域(アッシュランド)衛生団の救急箱。中身は最低限だが、クレアの手が足りない部分を補っている。

「箱だけは立派なのよ」

 クレアが独り言のように呟いた。救急箱は旧世界の規格品で、しっかりした金属製だ。だが中身の包帯や消毒液は何年も前から補充されていない。


 ガルドが診療所に来た。

 入口に立ち、ベッドの上の女性を一瞥した。軍服を見て、表情が変わった。

「セルヴィスの人間か」

「ああ」

「厄介なことになるぞ」

 ガルドの声は低かった。煙草を咥えたまま、腕を組んでいる。

「セルヴィスの軍人を匿えば、クレスタが嗅ぎつけた時に報復される。セルヴィスが回収に来れば、集落の位置が軍に知られる。どっちに転んでも、いい結果にはならん」

 カイは黙って聞いていた。ガルドの言葉は正しい。だが。

「目の前で死にかけてる人間を、見捨てる気にはなれない」

 ガルドはカイの顔を見た。長い沈黙の後、何も言わずに背を向けた。作業場に戻っていく背中から、赤葉(レッドリーフ)の残り香が漂っていた。



 * * *



 治療が一段落した後、カイは銘殻(めいかく)の元に戻った。

 砂と瓦礫に半ば埋もれた機体。午後の薄い光の下で、損傷した装甲が鈍く光っている。

 外装を調べた。技匠(ぎしょう)の目で見る。

 左肩装甲板の歪み。修正可能だが、専用工具がいる。右脚の膝関節の損壊。軸受けが破損している。交換部品が必要だ。コックピット周辺のフレームに走った亀裂。溶接で補修できるが、強度は落ちる。

 だがフレームの骨格は生きている。動力炉も損傷はあるが、致命的ではない。

 カイの手が、無意識に機体の表面を撫でた。装甲の質が違う。残殻(ざんかく)の荒い鋳造品とは比較にならない、均一で緻密な金属の肌触り。関節部の仕上げは手作業の痕跡があり、精密機械の滑らかさがある。

 機体の胴体に、文字が刻まれていた。

 POLARIS。

「ポラリス」

 カイは呟いた。北極星の名前だ。

 残殻(ざんかく)との差は歴然としていた。同じ鉄殻(てっかく)という分類でも、ポラリスとカイの残殻(ざんかく)は別の生き物だ。灰域(アッシュランド)の技術と、管区の技術の間にある溝が、ここに凝縮されている。



 * * *



 診療所に戻ると、クレアが軍服を畳んでいた。

「気づいた?」

 クレアが軍服の襟を広げた。内側に、刺繍で個人名が縫い込まれている。几帳面な細い文字。

 R. Ashford.

「アスフォード」

 カイは名前を読み上げた。聞いたことのない名だ。だが軍服に名前が縫い込まれているということは、正規の軍人だ。階級章を見ると、少尉。若い将校。

「セルヴィスの少尉が、なぜ灰域(アッシュランド)で一人で銘殻(めいかく)に乗って落ちてるのかしらね」

 クレアの声は冷静だったが、その目は考え込んでいた。

 カイはベッドの上の女性を見た。長い黒髪がベッドに広がり、額の傷が白い包帯で覆われている。顔は整っているが、目を閉じた表情は苦しげだ。眉の間に微かな皺が寄っている。眠りの中でも、痛みから逃れられないのだろう。


 この女は、灰域(アッシュランド)を「見捨てた側」の人間だ。

 ゲオルグが語った無籍民の話。焦土条約。灰域(アッシュランド)は法の外。その法を作り、灰域(アッシュランド)を無主地と宣言した組織の軍人が、今カイの目の前で眠っている。

 カイは窓の外を見た。瓦礫の片付けを始めた住民たちの姿がある。崩れた壁を積み直し、割れた窓に板を打ちつけている。流れ弾で壊された住居の持ち主が、黙々と廃材を運んでいる。

 誰も文句を言わない。文句を言う相手がいないことを、全員が知っている。


 クレアが軍服をカイの手に渡した。

「洗って干しておいて。血は冷水で先に落とすこと」

「分かった」

 カイは軍服を受け取り、診療所を出た。


 手の中にある灰青色の布。セルヴィス防衛機構の紋章。R. Ashford。

 見捨てた側の人間を、見捨てられた側の人間が助けた。

 それが正しいのかどうか、カイには分からなかった。ただ、目の前で死にかけている人間を放っておけなかっただけだ。それ以上の理由はない。

 軍服を抱えて水場に向かいながら、カイは南の空を見上げた。煙はもう見えなかった。だが戦闘が終わったわけではない。遠ざかっただけだ。

 そしてあの女が目を覚ました時、何が起きるのか。

 カイにはまだ、想像がつかなかった。

ポラリス――北極星の名を冠するセルヴィスの銘殻。中距離射撃と高機動回避に特化した設計で、操手の冴覚(さいかく)による回避能力を最大限に引き出す機体として設計された。

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