鉄屑の空の下
焦土紀23年。"大崩落"から30年が過ぎた世界で、一人の少年が鉄屑を削っている。
摩耗した軸受けを、素手で削る。
鉄粉が指の間に食い込み、爪の下に錆が溜まる。灰域の人間の手は、みなこんな色をしている。
カイ・セヴァルは17歳。生まれてから一度も、この荒野の外を知らない。
右膝関節の軸受けは、20年前の量産型から引き抜いた中古品だった。内径が僅かに合わない。やすりを当てて削り、指先で回転を確かめる。引っかかる。もう一度削る。鉄粉が風に散った。
灰色の空の下、集落の外縁に転がる残殻の傍らで、カイは朝から同じ作業を繰り返していた。腰には使い込んだマルチツール、首からぶら下げたゴーグルが鎖骨にぶつかる。鉄錆と砂の匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。
ラストヘイムは、廃墟の上に建てられた集落だ。
旧世界の工業都市の残骸が土台になっている。崩れかけたコンクリートの壁、鉄骨がむき出しになった天井、罅割れたアスファルト。その隙間を埋めるように、住民が廃材で組んだ住居が並ぶ。200人。それがこの集落の全てだった。
空には鴉が旋回している。鉄殻の残骸に巣を作る、灰域の鴉。あいつらのほうがこの土地の先住民だと、誰かが言っていた。
軸受けをもう一度回す。今度は滑らかに回った。
カイは膝関節の枠に嵌め込み、固定ボルトを締めた。工具が手に馴染む。この残殻は寄せ集めだ。左腕は別の機体から移植し、胴体装甲は3枚のうち1枚が欠けている。関節のあちこちに錆苔がこびりつき、放っておけば装甲を食い破る。まともな鉄殻とは呼べない。それでも、灰域ではこれが命綱になる。
カイは操手ではない。戦ったこともない。ただの修理工だ。それでもガルドは「鉄殻に乗れるかどうかで生き死にが変わる」と繰り返し言った。父が、同じことを言っていたらしい。
「またこんなところにいる」
背後から声が降ってきた。振り返ると、タリア・ホリーがオーバーオール姿で廃材の山を越えてくるところだった。肩の長さで切り揃えた茶色がかった黒髪が、風に煽られている。腰にはいつもの自作の通信機がぶら下がっていた。
「部品探し?」
「通信機のコンデンサが焼けた。予備がないから、この辺で拾えないかと思って」
タリアは残殻の横にしゃがみ込み、足元の廃材の山を漁り始めた。手慣れた動きだった。幼い頃からずっと、二人でこうして鉄屑の中を這いずり回ってきた。
「あ、これ使えるかも」
タリアが引き抜いたのは、焼け焦げた基板の一部だった。目を細めて部品を検分し、満足げに頷く。
「カイ、膝は直った?」
「ああ。軸受けを削り直した」
「相変わらず器用だね。あたしは手が油まみれになるのは好きだけど、金属を削るのは苦手」
タリアは笑った。そばかすの浮いた鼻の頭に、鉄粉がついている。カイは黙ってそれを指で払った。
昼食は集落の外縁で済ませた。
灰域パン。粗挽きの小麦とどんぐり粉を混ぜた平パンを、焚き火の灰で焼いたものだ。硬くて、薄くて、味はほとんどない。それと干し肉の切れ端。カイは黙々と噛み、タリアは通信機の基板を膝の上に載せたまま齧っていた。
「行儀が悪い」
「あんたに言われたくない。食べながら工具握ってるくせに」
言われて、左手に握りっぱなしのやすりに気づいた。カイは無言でポケットに突っ込んだ。
風が吹くと、砂と鉄錆の粒が頬を叩く。空は今日も灰色だった。この土地では青空を見ることのほうが珍しい。大気に混じった微細な粉塵が、日光を鈍く拡散させている。
「そろそろ戻る」
カイは立ち上がり、修理した軸受けの部品を布に包んだ。ガルドの作業場に持っていかなければならない。
* * *
ガルド・ヴェッセンの作業場は、廃工場の一角を改装したものだった。
壁には旧世界の工具と自作の治具が所狭しと並んでいる。油と金属粉の匂いが染みついた空間に、赤葉の煙が漂っていた。ガルドが口元に咥えた灰域煙草の、独特の辛い香り。ラストヘイム産の赤葉は、この作業場の匂いの一部になっている。
カイが入ると、ガルドは残殻の脚部を分解した状態で棚に肘をつき、片手に遺灰酒の瓶を握っていた。44歳。白髪交じりの暗褐色の髪を無造作に流し、彫りの深い顔に皺が刻まれている。作業着の下の肩と腕は痩身ながら骨太で、長年の金属加工が体に染み込んだ男の体つきだった。
「持ってきた」
カイが布を広げると、ガルドは煙草を咥えたまま軸受けを手に取った。指先で回転させ、光にかざし、爪で表面を引っ掻く。沈黙が長い。
「溶接は悪くない」
ガルドが言った。カイは少し肩の力を抜いた。
「だが遊びが甘い」
軸受けをカイの手に押し戻す。遊び。軸受けの内輪と外輪の間に設ける僅かな隙間のことだ。熱膨張を見越した余裕。これが足りないと、高負荷で焼きつく。
「公差ゼロじゃ鉄殻は動かん。完璧な嵌め合いは紙の上だけだ。実戦では砂が噛む、温度が上がる、衝撃で歪む。その全部を織り込んで初めて、部品になる」
ガルドの目は飄々としていたが、鉄殻の話になると奥底が研がれる。技匠の目だった。
「もう一度削れ。0.05ミリ広げろ」
「分かってる」
カイはやすりを取り出した。ガルドは酒瓶を棚に戻し、赤葉の煙を吐いた。
削り直す間、ガルドは黙って見ていた。カイの手つきを観察し、時折「力を抜け」「やすりを寝かせるな」と短い指示を飛ばす。それだけだ。手本は見せない。見て盗め、ではなく、失敗して覚えろ。それがガルドの教え方だった。
カイがこの男から学んだことは多い。工具の使い方、鉄殻の構造、軸受けの選び方。父がいなくなった後、ガルドがそれとなく教えてくれた。師匠と呼んだことはない。ガルドもそう呼ばれることを嫌がる。だがカイの手に刻まれた技術の大半は、この作業場で身についたものだった。
削り終えた軸受けを差し出すと、ガルドは今度は無言で頷いた。遊びが0.05ミリ広がっただけで、指の感触が変わる。こういう差が、砂漠の真ん中で関節が焼きつくか否かを分ける。
「帰れ。飯の時間だ」
ガルドは赤葉に火をつけ直しながら、棚の奥に手を伸ばした。遺灰酒の瓶。芋から作ったラストヘイムの蒸留酒は、灰域の中では比較的マシな味だと言われている。カイは飲んだことがない。
* * *
作業場を出ると、夕暮れが近づいていた。
集落の中心では、ゲオルグが子供たちと屋根の補修をしている。白髪を短く刈り上げた68歳の大男が、丸太のような腕で廃材を持ち上げ、子供たちに釘の打ち方を教えていた。右頬の火傷痕が夕陽に照らされている。
「カイ、ちょうどいい。こっち持ってくれ」
ゲオルグに呼ばれ、カイは梁を支える役に回った。子供たちが釘を打つたびに、木材が振動する。一人が釘を曲げて泣きそうな顔をすると、ゲオルグは「まあ、座れ」と言って、自分の手で曲がった釘を引き抜き、新しいのを渡した。
ゲオルグの隣で梁を押さえながら、カイは集落を見渡した。廃材の壁に囲まれた広場では、女たちが夕食の支度を始めている。大鍋に乾燥豆と干し肉と根菜を放り込み、薪をくべる。ラストヘイムの夕食はいつもこれだ。集落の全員が鍋を囲む。灰域には通貨がない。あるのは物々交換と、分け合う習慣だけだ。
錆鉄キノコの苦い匂いが風に乗ってきた。鉄殻の残骸に繁殖する茶色いキノコを乾燥させ、粉にしてスープに混ぜる。錆を食う、と灰域では言う。文字通りの話だ。
屋根の補修が終わる頃には、空が赤紫に染まっていた。
子供たちが散っていく。ゲオルグは懐中時計を取り出し、一瞬だけ目を閉じた。亡き妻の形見だ。誰もそのことに触れない。
カイは集落の高台に足を向けた。ラストヘイムを一望できる場所だ。崩れかけた建物の屋上に腰を下ろすと、灰原草の白くなりかけた穂が、荒野の果てまで続いているのが見えた。秋が近い。
鉄錆色の大地と、灰色の空。その境界線がぼやけて溶け合うところに、太陽が沈もうとしていた。
そのとき、足が止まった。
胸の奥に、何かが灯った。言葉にできない。不安とも違う。体の内側から、小さな警鐘が鳴っているような感覚。理由が分からない。空を見上げても灰色の雲があるだけだ。風の音も変わらない。鴉も静かにしている。
なのに、何かがおかしいと、体が告げている。
カイは首を振った。疲れだ。朝から残殻を弄っていた。そのせいだろう。
立ち上がり、高台を下りる。振り返ると、南の空が微かに赤い気がした。夕焼けの残り火か。それとも別の何かか。
答えは出なかった。カイは集落に戻った。
* * *
寝床に入ると、毛布の下で体が強張っているのに気づいた。
理由のない緊張が、まだ消えていない。目を閉じても、胸の奥の小さな灯火が揺れている。
馬鹿げている。何もない。いつもと同じ一日だ。残殻を直して、灰域パンを食べて、ガルドに怒られて、ゲオルグと屋根を直した。それだけの一日だ。
カイは寝返りを打ち、窓の外を見た。灰色の闇の中に、鉄殻の残骸のシルエットが浮かんでいる。
眠りに落ちかけたとき、窓の外の空がもう一度、赤く光った。
今度は一瞬ではなかった。
地平線の向こうで、何かが燃えている。
灰域――統治機構体のいずれにも属さない荒廃地帯。そこに暮らす人々は、旧世界の残骸を拾い集めて生きている。




