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8>●第二幕 キズモノと傷神様>第二節:手相と、見えない苦難

第五幕最終節まで、あと22節。

8:手相と、見えない苦難


 住宅街の奥、少し坂を上った先に、年季の入った洋館がひっそりと建っていた。


 背の高い樹々が鬱蒼と茂る中、ひときわ重たげな影を落とすその建物は、まるで時間に取り残された記憶の箱庭のようだった。


 風に乗って運ばれてきた木の葉の擦れる音が、空気の奥に溶けていく。


 平屋や低層の住宅が並ぶ一帯にあって、洋館は明らかに異質だった。


 それでも、かつてはそこに笑い声があり、食卓の匂いがあった。


 元気だった頃の結美が、嬉しそうに「うちのおばあちゃんがね……」と話題に出していた笑顔が忘れられない。


 今では、「売物件」と書かれたアルミの合板が、その洋館の周囲に張り巡らされた玄関柵に無造作に打ち付けられている。


 懐かしさの余韻に、一抹の寂しさがそっと混ざり込んできた。


 門扉を通って十数メートル先にある重厚なドアをはじめて開けたのは僕が高校一年生の夏休みだった。迎え入れてくれた結美の祖母、長嶋静江さんの上品な佇まいを思い出す。


 日課の素振り――と称した、キズモノ探しの見回り――は僕の気分次第で、日ごとにコースが変わる。今日この洋館に来たのは、呟き型SNSのスクリーンショットを読み直しながら歩いていたら、たまたま足が向いたからだ。大した理由はない。


 結美の両親は放任主義というか、それぞれに起こした事業にのめり込んでいて、彼女が高校生になった頃には海外を飛び回るようになっていた。実質、ほぼ一人暮らしの状態だった結美は、国内で一番近い肉親である祖母の静江さんと一緒に住む、という選択はせず、長期の休みなどに互いの家を行き来するという形で良好な関係を築いていたようだ。


 僕や結美の実家は、都内の端にあり、大学がある神奈川県の藤浜市相南平までは電車を乗り継いで片道三時間以上の距離がある。結美がこの大学を第一志望にしたのは僕と違い、学びたいことがあるからだったが、祖母の家が近くにあったことが影響しなかったのかと言えば、そんなことはないだろう、とも思う。結美と祖母の静江さんは年こそ離れていたが、精神的には姉妹みたいに通じ合っているように見えた。


「手の平を見せて」


 静江さんが僕に両手を差し出すように言ったのは、結美が「手料理をご馳走したい」とキッチンで食材と格闘を始め、静江さんと僕を部屋で二人きりにさせたからだった。


 静江さん宅への訪問も、すでに十回は超えていた頃のことだったと思う。


「私たちは少しだけあっちの世界と仲が良くてね……ちょっとした占い、みたいなことができるのよ」


 そう言って微笑んだ静江さんが、僕の手の平をじっと見つめる。その眼差しは、あまりにも真剣で、どこか祈るようでもあった。軽口めいた前置きとは裏腹に、彼女の視線には冗談の入る余地がない。


 ちゃんと計っていたわけではないが、一分ほどの時間、そうしていたと思う。


 何かを感じ取ったのだろう。ぴくりと目尻を震わせたのち、「失礼」と言って、静江さんは僕から顔を背けた。鼻を啜り、目を拭うような仕草をしていたので、たぶん涙を流していたのではないか、と推測する。


 いったい何が……?


 その問いが頭をよぎり、心がざわついた。


 単なる世間話の延長で、退屈しのぎのようにはじまった「占いごっこ」のはずなのに、静江さんの後ろ姿が雄弁に不吉さを語っている。背筋に冷たい水を一滴、垂らされたような気持ちになった。


 僕の手の平に刻まれた線の向こうに、いったい何が見えたのだろう。


 膝の上に置いた手の平に、うっすらと汗が滲む。握りしめたくなる衝動を、必死にこらえていた。


 たまらなくなって、「教えてください」と言いかけたときだった。


 後ろを向いたまま、静江さんは自分の両頬を軽く叩いた。そして、静かに一度、深く呼吸を整える。


「……よし」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、背筋をピンと伸ばし、振り返った静江さんは、いつもの柔和な微笑みを湛えていた。


「ごめんなさいね。ちょっと……あなたたちが、これから迎える苦難が見えてしまって……でも、それを二人で協力しながら乗り越えていくイメージに、年甲斐もなく、感じ入ってしまったのよ……ダメね、歳を取ると、あちこちの蛇口が緩くなって」


 静江さんは照れ笑いを浮かべるが、何も見えていない僕のほうは気が気ではない。


 だが、得てして僕はタイミングに恵まれないことが多い。


 僕が、「それってどういう……?」と訊こうとしたところで、ドアのノック音に割って入られた。


 年老いた家政婦が「シズちゃん」と顔を覗かせる。


「先生がお見えになったわよ」


「ああ、はいはい。今日は訪問診察の日だったわね。ありがとう、キヨちゃん」


 雇用関係の前に、二人には友人関係があった。


 静江さんは、老家政婦に「ちょっと待っててね」と断りを入れ、僕のほうを向く。


「結美の様子を見てきてくれないかしら」


 柔らかく、けれど確実に「人払い」の意味を孕んだ口調だった。


 察した僕は、「わかりました」と立ち上がりながら訊ねる。


「立ち入ったことでしたらすみません。どこか、お悪いんですか?」


「いいえ、ただの定期診療よ。この歳になるとね、体のあちこちにガタがきてしまうものなの……見ての通り、涙腺だってぜんぜん言うことを聞いてくれないし、いつポックリいくかなんてわからないんだから」


「そんなこと言ったら、結美が悲しみますよ……僕だって」


「大丈夫よ、そしたら死神に頼んで化けて出るから」


 静江さんは、少女のようにイタズラっぽく笑う。


 僕は、部屋を出る際に、その老家政婦と横に立つ長身の男性医師に頭を下げ、部屋を出ようとする。


「あ、ごめん。森也くん」


 静江さんが僕を呼び止めた。何かを言い忘れていたみたいな表情をしていた。


「結美のこと、頼むわね」


 頼む、という意味の広い言葉に、僕は曖昧に肯定の返事をしようとしたとき、向こうのほうから調理器具らしい物が床にぶちまけられたような金属音と、結美の金切り声が聞こえてきた。


「あの子、しっかりしているようで、そそっかしいところもあるから」


 静江さんが苦笑いしながら、キッチンのほうを指差す。


 僕も苦笑いを浮かべ、「はい、任せてください」と力強く答え、結美のいるキッチンへと向かった。その途中、なぜだかわからないが、握力が上がったような感じがして、何度も手の平を握ったり、開いたりしていたことを憶えている。


 思い返せば、結美は昔から静江さんに似ていた。見た目の話ではない。誰にでも礼儀正しく、気配りが利くところ。人の痛みに敏感なところ。そしてそれを、あえて口には出さないところ。静江さんの家に出入りさせてもらうようになって、そのことに気づいた。年の離れた二人が、まるで姉妹のように言い合いをしているのを見かけるたび、節々に滲む気遣いや信頼が、心地よい温度で僕の中に染み込んでいった。


 結美にとって、静江さんは「帰れる場所」だったのかもしれない。放任主義の両親のもとで育った彼女にとって、静江さんの存在は、幼い頃に感じるはずだった安心や肯定を、思春期になってから受け取れるような、そんな意味合いがあったのではないかと思う。


 結局、静江さんがあのとき言った「これから迎える苦難」というのを、直接聞くことはできなかった。


 はじめにこれか、と思ったのは高校三年生の秋。すでに推薦を決めていた結美と、同じ大学に入ろうという無謀な目標を立ててしまった。そのために僕は、結美から、「なんでこの程度の英語構文が憶えられないの? 高校の校歌なんて意味不明な歌は暗唱できるんだから、構文の暗記ができないわけないって」などといった嫌味のこもったーーもとい、愛ある罵倒をさんざん受けながら、部活にかまけて遅れに遅れた自分の学力と向き合う受験生活を送ることになる。その過程は、まさしく苦行という他なかったが、結果的に勝ち得た「合格」という奇跡に、静江さんの流した涙はこのときの感動を先取りしていたのか、と思ったものだ。


 だが、今思えば、そんな生優しいものではなかった。


 現在の結美が置かれた状況こそが、静江さんが予見していたことなのだろう。


 ここに立っている今の僕ならわかる。そしてきっと、あのときの静江さんが、見えたビジョンをどう伝えればいいかわからず、顔を背けて涙を見せないようにすることしかできなかったのだろう、ということも。


 出口が見えないのは苦しい。


 だが、救いは残されている。


 静江さんはちゃんと言っていた、「二人で協力しながら乗り越えていく」と。


 僕は、その言葉を信じている。


 今は闇雲に町内を徘徊するという、ありふれた行動しかできなくとも、それがいつかキズモノに辿り着く過程なのだ、と。


 きっとそれが、かつての結美が放っていた、眩しい笑顔を取り戻すために必要なことだと、僕は信じているのだ。


 僕の思考が迷路に入り込んでいると、不意に鉄の軋む音がした。


 見ると、洋館の門扉が開き、一人の年配の女性が出てきた。


 その手には大きな紙袋があり、箒の柄が突き出している。おそらく管理会社から屋敷の掃除などを任されているのだろう。こんな遅い時間になっているのは、加齢により動作が遅いからなのか、それとも愛着を込めて掃除をしているからなのか、あるいはその両方かもしれない。暗がりにいる僕の存在に気づくことなく、年配の女性はその場を後にした。


「やあ」


 洋館からアパートへ引き返していた道の途中、声をかけられた。顔を見なくてもわかる。この夜に似つかわしくない爽やかな声の主は、自称、僕のバンソーコーだ。


 相南平は大都市ではないが、村でもない。れっきとした町なのだ。狙い済ましたようにエンカウントするのは、ゲームだとしてもいささか確率操作を疑うレベルだ。


「君は僕にGPSでも仕掛けているのか」


 いささかの嫌味を込めると、「そうかもね」と絹倉は涼しげに僕の隣を歩く。


「僕は粘着質なんだ」


「は?」


「なぜならバンソーコーだからね」


「ごめん。もしかして今のは笑うところだった?」


「純粋な心を持つ人ならそうかな」


「悪かったな。やさぐれてて」


「冗談だよ、ちょっと心にささくれができているだけだろ」


 絹倉は小さく笑う。


「ところで、現在の進捗はどうだい? 目的への手掛かりになりそうなものが、少しは見つかった?」


「このやさぐれた感じで伝わらない?」


「なるほど。じゃあ、手始めにQAキャッチボールでもしてみようか」


「QA?」


 耳馴染みのあるアクティビティに「QA」という言葉がつくだけで耳新しくなる。


「ボクがこれから、どんどん質問を投げていくから、キミはわかっている範囲で答えを投げ返す。ボクはその答えにさらに問いを投げ返す。そうやってわかっていることは整理され、新たな気づきが得られるかもしれない」


 要は僕が持っている情報の洗い出し、ということか。物は言いようだと思うが、特に取り合わない理由もない。


 僕は「じゃあ、第一球をどうぞ」と促す。


「OK。ではイッキューめ。あ、この『キュー』には『ボールの球』って意味と『クエスチョンのQ』がかかってるから」


「わかったから、早く投げてくれ」


「キミはキズモノかい?」


 初球からあまりにも暴投すぎて、僕はそれを処理しきれなかった。


「ふざけてんの?」


「真面目だよ。まず当たり前を疑ってみただけさ」


「違うよ」


「OK。じゃあ、第二Q。キミがキズモノを探すために持っている情報源は?」


「前に見ただろ、都市伝説系配信者の情報……それから、呟きやブログなんかのSNS」


「SNSにキズモノ情報が出ているの?」


「『キズモノ』ってはっきり書いてあるものは少ない。でも、それっぽい特徴で検索していくと、引っかかるものがあったりする」


「それって今でも見られるのかい?」


「傷口……とか、不審者とか、いくつかワードを組み合わせて検索すれば出てくるよ」


「まどろっこしいな。君は当然、その呟きを保存かスクショしているんだろ」


 それはそうだが……と僕が逡巡していると、絹倉が「大丈夫だよ」と先読みする。


「指定されたところ以外は絶対見ないし、仮にキミの異常性壁を知ってしまっても墓場まで持ってくから」


「そんなものあるか!」


「なら、なんの問題もないね」


 僕は溜め息をつき、「ちょっと待って、専用アカウントに切り替えるから」とスマートフォンを操作する。


「アカウント?」


「キズモノの調査専用アカウントを作っているんだよ。まかり間違って、普段使いのアプリの誤操作で誰かに見られたりしないように」


「なるほど」


「言っておくけど、今回だけだからな。もう二度と見せないし、今から指定したフォルダ以外は絶対に見るなよ」


 絹倉の了承を受け、僕は渋々、キズモノ関連だと思われる呟きやブログ記事を画像で保存してあるフォルダを開き、スマートフォンを絹倉に渡した。絹倉は、どうも、と受け取ると歩きながらスマートフォンの画面を覗き込む。絹倉の文章を読むスピードはかなり速いようで、どんどんスワイプして画面に表示されたページをめくっていく仕草をする。


「アカウント……噂……なるほど、そういうことか」


 絹倉がポロッとこぼした。


「何か気づいたの?」


 新しい目で見ることで何かしらの発見があったのかもしれない。


 僕の語気が荒かったのか、絹倉が「ああ、ごめん」と苦笑いする。


「大したことじゃないよ。キズモノっていうのは、たしかに怪しい不審者だけど、自分の身体の一部を見せて、訳のわからない言葉を吐くだけじゃ、警察からすると捜査対象にもならない、迷惑な人扱いなんだな…って。だから、被害に遭った人が、ネットのアカウント使って、ローカルな噂を作るくらいにしかならないのかって思ってさ」


 絹倉の説明は理解できる。だが、キズモノ探しを進展させるような気づきではない。


「ところでさ……」絹倉はスマートフォンの画面を見ながら今日の天気でも訊くような口調で言う。「キミがここまで、キズモノに執着している理由はなぜ?」


「恋人が被害に遭ったんだ」


 絹倉の問いにまったく力みがないせいか、僕は自分でもびっくりするくらい端的に真実を答えていた。


 次の瞬間、絹倉の手からするりとスマートフォンが落ちて、地面に転がった。僕のスマートフォンが。


「おーい!」


 慌ててスマートフォンを拾う僕に、絹倉はまるで幽霊でも見るような表情をして「ホントに?」と訊いてきた。絹倉なりに気の毒に思ってくれているのかもしれない。


「ああ、残念ながら。だから僕はキズモノを絶対に見つけ出さなきゃいけないんだ」


 僕が力を込めて言うと、「いやいや、そうじゃなくて」と絹倉は言葉を返してくる。


「キミ、ホントに恋人がいるのかい?」


 今度はこっちがスマートフォンを落としそうになった。心の中で「そっちかよ!」と突っ込んでいた。


「大事な話なんだ」


「何がだよ?」


「いいかい。大事な話だから真面目に答えてくれ」


「僕はさっきから、ひとつもふざけてないよ」


「アナタにはホントに、カノジョがイルンデスカ?」


 なぜか外国人のようなイントネーションで訊いてきた。言ってしまったことを後悔したが、今さらごまかすと余計に面倒くさそうなので「お陰様で。こんな僕でも付き合ってくれる殊勝なコだよ」と答えた。


「そうか、それは何よりだ。でも、その話、リベリアンドではあんまりしないほうがいいかもしれないね」


「なぜ?」


「杉山たちが今、彼女を作ろうとして必死になっているからさ。合コンやら何やら頑張っているんだよね。キミに彼女がいるなんて知ったら、妬みの対象になってしまうよ」


「逆に言ったほうがいいだろ。頭数で合コンとか誘われても困るし」


「そっちはボクのほうでうまく言っておく」


「そんな大事な話か、これ?」


「人間関係を円滑にするためには、言わないほうがいいこともあるんだよ」


 僕の貧困な想像力では、一般的な大学生活なんて友達やら恋人やらのことでうだうだ悩み、喋り込んで時間を費やすくらいのものだろう、という偏見があった。だから、この程度のことを話したところで、どうということもないのでは、と思ったが、「杉山たちもいずれいいコを見つけると思うから、そのときはあけすけに話せばいい」 と言われ、そんなものか、と流すことにする。


 不思議なもので、絹倉と話しながら歩いていると自分でも無意識のうちに結構な距離を移動していることに気づいた。僕はある小路で歩みを止める。


「どうしたの?」と絹倉が訊いてきた。


「そっから先は行かない」


 僕が示す先には大きな交差点に至る曲がり角があった。まだ距離はあるはずだが、それでもこれまでのせせこましい光量とは比べものにならないほどの電灯の光が瞬いている。


「君もここに住んでいるなら知っているだろ。その先には大きな交差点があって、その向こうにはショッピングモールがある。あんな人通りの多い場所にキズモノが出るわけがない。行くだけ無駄だよ」


 実際、SNSの目撃証言でも、キズモノらしき不審者と遭遇した場所は皆、人通りの少ない小路だ。絹倉の答えを聞き返す前に、僕は踵を返して歩き出していた。今日の見回りは終わろう。そんなことを考えていると、絹倉が隣にやってきた。


「ところでさ、さっきの話なんだけど、キミの彼女って……」 と切り出してくる。


 ホントに粘着質だな! 僕はそう心で突っ込み、絹倉の話を聞き流した。

読んでくださってありがとうございました。


ブクマ・ポイント・ご感想、すべてが力になります。

どうか、最後の風景まで見届けていただけますと嬉しいです。


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次節:第二幕 第三節「『傷神様』という名前」

5/29(金) 20:00 公開予定

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