30>●第五幕 終わりの儀式――バンソーコーが剥がれるとき>第三節:ハナから存在しなかったもの
第五幕最終節。本編はここで一度かたちになります。
30:ハナから存在しなかったもの
走る車に、自転車で追いつけるわけがない。
理屈で考えればそれくらいわかる。だから僕は、自転車の唯一の利点である小回りの良さを最大限に活かす。裏路地を使ってショートカットし、赤信号に捕まっていたワンボックスカーの背面を捉える。ウィンカーが点滅していた。
ダメだ……そっちの方向へ行かせてはダメだ。
ネオンモールのある交差点へと出てしまう。
幸いここは下り坂だ。思い切りペダルを漕ぐ。最近見ていた大きな塊にぶつかる悪夢は、予知夢だったのかもしれない。今僕は、体当たりで車にぶつかろうとしている。交通事故を装ってでも、この先へ行かせてはダメだ。いや、僕が行けないからダメだ。……しかし、次の瞬間に信号機は青に変わり、絹倉たちの乗った車は走り去ってしまった。
僕は咄嗟にブレーキを握り、自転車を急停止させる。結美を取り戻さなくては……そう思うが、なぜかペダルに載せた足が動かない。
「やっぱり……キミはここから先へ進むことはできないんだね……」
悲しそうな顔をした絹倉が現れる。
どうやらさっきの停車タイミングで車から降りて、僕の様子を見ていたらしい。
「結美を返せ!」
僕は力の限りに叫ぶ。
「もう無理だよ。彼女は匿うべき場所へ送り届けてもらう。キミは一生辿り着けない」
絹倉は憐れむような瞳をやめない。
「いったい何が目的なんだ?」
「言ったろ。『ボクはキミのバンソーコーになりたい』って」
「人の恋人を攫っておいて、いい加減なことを言うな!」
僕は無意識のうちに拳を振るっていたが、絹倉はひらりとかわした。
すぐさま絹倉のほうへ反転し、もう一度振りかぶったとき、後ろから羽交い締めにされた。なんだ? と思って後ろを振り返る。僕を抑えていたのは夕方、出会ったフリーライターの男だった。名前はそう、有馬。
「車は指定の場所へ停めてくれたかな」
絹倉が僕の背後にいる有馬に問いかけると、「ああ、言われた通りにしてある」と答えた。
やはり、その声に聞き覚えがあった。だが、今日以外のどこで知り合ったのかが判然としない。
「放せ」ともがくが、有馬の力が想像以上に強く、振り解くことができない。
「悪いけど、しばらくそのまま抑え込んでいてくれるかな」
絹倉が乞うと、「わかった」と有馬が了承した。
「誰なんだ、この人は? 君の仲間か?」
「協力者、といったところかな」
「協力者まで用意して、結美を連れ出すとか、どういう神経してんだ?」
馬に蹴られて死んでしまえ、と思うが、今、有馬に押さえつけられているのは、僕のほうだった。
「違うよ。キミたちを引き離すためじゃない。真実を明るみ出すための協力者だ」
言葉の真意を図りかねる僕に対し、絹倉が続ける。
「彼の声に聞き覚えがあるだろ」
まるで僕の心を読み取ったかのように、絹倉は語り続ける。
「彼のハンドルネームは、UMA」
その名前に僕はハッとする。絹倉が、わかったようだね、とでもいうように付け足す。
「キミがよく視聴していた都市伝説系の動画配信者だよ」
ようやく違和感の正体に気づけた。僕はこの有馬……いや、UMAの声を何度も聞いていたのだ。だから、どこかで会ったことがあるような錯覚をしていた。
「ボクがSNSの発信者に連絡を取ろうとしていたのは知っているだろ。その中で唯一、彼だけがボクに返信をくれたんだ。『お友達大作戦』のときは、不要な情報だったからあえて言わなかったけど……でも嘘は言っていないよ。あのときボクは、『SNSにキズモノらしき者と遭遇した書き込みをしている人たち』からの返信はなかった、と言っただけで、『動画を配信している人』については何も言及してないからね」
迂闊だった。まさか動画の配信者にまで連絡を取ろうとするなんて考えもしなかった。
「UMA」
絹倉は有馬のハンドルネームを呼ぶ。
「これからボクが訊ねることに答えてくれ。嘘を言うのが無駄だって言うことはわかってるよね」
そう告げる声は涼しげだが、うっすらと恐怖を感じさせる圧がある。
「わかっているよ」
僕を抑えながら、UMAが一瞬大きく震えた感触が伝わってくる。
「UMA、君が発信した、この地域に出没する『キズモノ』という怪人物について教えてほしい。君はあの怪人物の情報をどこで仕入れたんだい? 情報ソースは何?」
「そんなものはない」
「どういう意味?」
「『キズモノ』は、俺の創作だ。都市伝説系の動画ネタが尽きかけていたから、子どもの頃によく聞かされた昔話から捻り出したんだよ」
「具体的にはどういうふうに創り出したの?」
「俺の地元だったこの地域で語られる、『傷神様』伝承に登場した『きずもの』を、現代の都市伝説風にアレンジしただけだ」
そのUMAの答えに、 絹倉は我が意を得たりという表情で問う。
「つまり……『キズモノ』はフィクションだったってことかい?」
UMAは「そうだよ。こっちだって、少ない視聴者の興味を惹くために必死なんだ。それくらいのこと、エンタメコンテンツとして許されるだろうが」と捲し立てる。
「別に責めているわけじゃない。君の動画配信者としてのスタンスや姿勢に非があると、ボクは微塵も思っていない。ただ、訊きたいことがひとつある」
UMAは「な、なんだよ」と声を震わせる。
「実際に、この地域に『キズモノ』という不審者が出没していたことは知っている?」
「そうなのか? どういうことだ? 俺も詳しく聞きたいくらいだ」
「少なくとも今年の三月から、今に至るまでに、数件のキズモノ被害が呟き系などのSNSで散見しているんだよ。そのことは……?」
「知らなかった。初耳だ」
「夜な夜な町に現れるキズモノという怪人物という設定は、君の創作……つまりオリジナルは君だ。だが、実際には君の知らないところで、その被害が複数件報告されている。だとしたら、考えられるのはどんなことだろう?」
「俺の配信が神のお告げだったかもしれない、とか?」
「真面目に言っている? 冗談も嘘と見做すけど」
「す、すまない。俺の配信を見た奴が、便乗してそれっぽい行動を起こしたんだろう」
「そう便乗犯……ただのフィクションだった『キズモノ』を、あたかも実際に起こっているように見せかけてまで、その便乗犯は何がしたかったんだろうね?」
絹倉はそう言って、僕を正視する。
「ボクはね、こう考えたんだ。因果が逆だったんじゃないかって……『キズモノ』があったから、外に出られなかったんじゃない。外に出られない……いや、出したくないから、理由が必要だった。自分さえも納得させるような理由が……それが、たまたまネットで見つけた『キズモノ』だった。SNSの発信も、偽のアカウントを数百も作れば、それなりのローカルな噂を作るくらいは可能になるだろう。そっちは抜け落ちた記憶のほうでやっているのかもしれないけど……」
絹倉は、そこで語りを止め、「まあ、つまりは……」と結論めいた口調で言い切る。
「『キズモノ』なんてものはハナから存在しなかったんだ」
僕はなんの反応もしなかった。絹倉はそれも想定内といった表情で続ける。
「だから実際に、『キズモノ』を名乗る怪人物が現れたとき、その便乗犯はどう思っただろうね? ボクとしては、報復する相手がちゃんと現れて、気持ちが成仏するほうへ向いてくれることを期待してたんだけど……そうはならなかったらしい。逆に慌てたみたいだ。実物が出てしまったら、捕まえられない幻影として追いかけるフリができない……あのとき、キズモノを捕獲しようとして振り下ろしたかに見えたバットは、はじめからキズモノではなく、ボクを狙っていたんだ。キズモノをその場から逃すために……まさか、そこまでされるとは思っていなかったけどね」
絹倉は苦笑いしながら、自身の左肩を軽く回す。
「まったく。そっちの設定にちゃんと乗っかって、綺麗な大団円を迎えようとしたのに、肝心の、一番欲しい結果が得られなかったんだからね……残花さんに損な役回りを押し付けたこちらとしては、申し訳が立たないよ。本当に困ったものだ」
絹倉はさらに言葉をつなげる。
「残花さんがキズモノだった……という『儀式的な決着をつける』ことよって、キミが『終わり』を意識してくれれば、ボクもこんな手荒な真似はしなくて済んだんだよ。だけど、キミは……それでも彼女を、キミの作った檻から解放しなかった。現実を直視しようとしなかった」
ダメだ、このまま絹倉のペースで会話を進められてはいけない。そう考えた僕は背後にいるUMAに話しかける。
「頼むよ……何でもする! お金で雇われているなら、その倍の額を用意する。だから、頼む。結美の居場所を教えてくれ」
「ムスビ? 誰だ、それは?」とUMAが答える。
「さっき、あいつが抱えていっしょに車に乗せたはずだ! それを運転していたのが、あなたなんだろ?」
「なんの話だ? 俺はたしかに、あいつの言う通りに車を運転したが、乗せたのは、はじめからあいつ一人だ」
UMAの声には純粋な困惑が滲んでいた。嘘をついているようには聞こえない。それどころか、僕の話を理解できずに当惑している様子だった。まるで僕が見えないものについて語っているかのように。
金属バットで頭を殴られたような衝撃が、僕を襲う。
「無理だよ、森也……彼にはキミの言っていることが絶対に理解できない。というより、キミとボク以外……ああ、あと一人の例外を除いて、この世界の誰も理解することはできないよ」
絹倉はゆっくりと歩みを進めて、僕の額に人差し指の先を置いた。
「キミだって心の底では気づいているんだろ?」
絹倉の瞳には、慈愛と悲しみが混在しているように見えた。まるで愛する人を救うために、その人を最も傷つけなければならない苦痛に耐えているかのように。彼の声は優しかったが、その優しさがかえって残酷に響く。
やめろ。言わないでくれ。僕の声にならない願いは届かない。
これまで僕が築き上げてきた世界が、絹倉の言葉によって崩壊しようとしていた。必死に耳を塞ごうとしたが、体を押さえつけられている僕には、それもできない。頭の中で何かが軋む音がした。現実を拒絶する最後の防壁が、今にも破壊されそうになっていた。
絹倉は涼しい声でこう告げる。
「本当はもう……××××××××××××××××××××××××」
絹倉の口から発された言葉は、音声として僕の鼓膜に届いたはずだ。
だが、それを理解することを僕の脳が拒んだ。
「うわあああああ――!」
肺の空気、すべてを使って叫んだ。
叫び声が夜の闇に吸い込まれていく。僕の声は誰にも届かない。そんな絶望的な理解が、僕の心を完全に支配した。息ができない。手足が痺れ、感覚がなくなり、立っていることさえできなくなる。現実というものの重さが、僕の体を地面に押し付けていた。
僕の視界が緞帳を下ろすように暗転していく。憶えているのはそこまでだった。
ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
物語の本編は、ここで一度かたちになります。
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