第9話 たらい回しの行政窓口
ルミナス行政庁舎の1階ロビーは、不快な熱気と澱んだ空気で満ちていた。
朝の光が差し込む高い窓からは、舞い上がる土埃が白く照らされている。本来なら市民の願いを受け止めるべき広大なロビーは、今や絶望と怒号、そして諦めの溜息が澱む、巨大な停滞の沼と化していた。
俺はその喧騒の隅に立ち、一人の老農夫が窓口の役人に追い払われる様子を眺めていた。
老農夫は、ボロボロになった申請書を何度もカウンターに押し付けようとしている。その横に置かれた荷物袋には、昨日、一昨日もここに座り込んでいたことを物語る、干からびた携帯食の包みが数枚重なっていた。
「……だから、言ったじゃないか! 税収課には、先に農耕課の『完納証明』を持ってこいと言われたんだ! それを取ってこいって言うから、あっちの窓口に朝から並んだのに……。これで三日目だぞ、頼むよ、このままじゃ種が腐っちまう!」
老農夫の声は掠れ、必死な思いが漏れ出していた。彼が震える手で差し出しているのは、何箇所も折り目がつき、手垢で汚れた一枚の申請書だ。
対するカウンターの向こう側。涼しい顔で羊皮紙を整理している若い役人は、老人の訴えを耳に留める様子もなく、事務的に切り捨てた。
「規定ですので。税収課の証明書がない限り、農耕課としては許可を出す権限がありません。証明書が取れないのは、あなたの側の不備でしょう。……はい、次の方。そこのお爺さん、下がってください」
「待ってくれ! 昨日もそう言われて、税収課に走ったんだ! あっちの窓口では『許可証が先だ』って門前払いで……!」
「後の列が支えています。どいてください。衛兵を呼びますよ」
無機質な拒絶。そこには、目の前の人間が明日どう生きるかという視点は欠片も存在しない。
俺は、その光景に激しい既視感を覚えていた。
前職のシステム開発でも、似たような「部署間の壁」は山ほど見てきた。開発部門は運用部門の承認がなければリリースできないと言い、運用部門は開発部門の動作保証がなければ承認しない。
誰一人として「全体」を考えず、自分の責任範囲にだけ閉じこもり、結果としてシステムそのものが死んでいく。
(典型的なデッドロック……いや、責任転嫁の無限ループか。現場の役人が『仕様書』を盾にして思考を停止しているのが一番厄介だな)
俺は一歩踏み出し、老農夫と役人の間に割って入った。
「おい、そこ。並んでいないなら邪魔だぞ。用がないならどけ」
横から声をかけてきたのは、少し離れた位置から窓口を監視していた太った中年の役人だった。胸元には『窓口主任』と金文字で刻まれたバッジが誇らしげに輝いている。
主任は俺の簡素な服を見て、露骨に侮蔑の視線を向けた。
「いえ、用はあります。この方の手続き、なぜ通らないんですか?」
俺が老農夫を指差すと、主任は面倒そうに鼻を鳴らした。
「見て分からんのか。この男が、必要な書類を揃えていないからだ。農耕許可には納税証明が必要。納税証明には農地登録の許可が必要。どちらも欠けている。一から十まで説明せねば分からんのか、無学な素人は」
「書類が揃わないのは、あちらの税収課が『農耕許可証を持ってこい』と突っぱねているからでしょう? 鶏が先か卵が先かという話をしている間に、この人は三日もここに通い詰め、窓口を往復させられている。その『例外』を解消するのが、あんたたち管理職の仕事じゃないのか?」
俺が淡々と指摘すると、主任の顔が怒りで赤らんだ。
「何を生意気な……! 我々は王宮から下りてきた厳格な規定に従っているだけだ! 個別の事情でルールを捻じ曲げろとでも言うのか? そんなことをすれば、行政の公平性が失われるんだよ!」
「『公平性』という言葉を、無能の免罪符にするな。……あんたたちの言うその『規定』、実態はただの欠陥品ですよ」
俺は主任の制止を無視し、カウンターの上にある『統合魔導台帳』へと手を伸ばした。
「貴様、何をする! 衛兵! 不審者だ、直ちに連行しろ!」
主任が叫ぶ。背後の衛兵が剣の柄に手をかけ、ロビーに緊張が走る。
だが俺は、それよりも早く手首の腕輪を晒した。
袖の下から現れた、深紅の石が埋め込まれた腕輪。王家の紋章が魔法灯の光を反射し、凍りつくような輝きを放つ。
「……っ!? そ、それは……っ、特別監査官の……!?」
主任の喉が引き攣ったような音を立てた。衛兵の動きがピタリと止まり、ロビー中の役人たちが石像のように硬直する。
セルアスから預かったこの紋章は、代官の代理として「あらゆる業務の中断と監査」を命じることができる、現場の役人にとっては死神の鎌にも等しい権限だ。
俺は静まり返ったロビーで、台帳へと意識を集中させた。
『差分解析』
ふっと、視界が切り替わる。
現実の壁や天井が透け、その背後に流れる巨大な「行政フロー」の構造が、光り輝く配線となって浮かび上がる。
農耕課の青いライン。税収課の赤いライン。そして、この窓口でそれらが結節するはずのポイント。
俺の目には、その結節点が、まるで固く結ばれた結び目のように真っ赤に点滅しているのが見えた。
【要求仕様】
不正な農地拡大を防止し、かつ全耕作地からの確実な徴税を両立させる。
【現仕様】
・農耕課:入力値に「有効な納税ID」が必須
・税収課:入力値に「有効な農地登録番号」が必須
【バグの正体】
新規開拓者の場合、どちらのIDもまだ発行されていない(Null)
しかし、システム内には「初期登録時の例外処理(一括発行)」というフローが存在しているにもかかわらず、窓口用の簡易マニュアルからはその項目が『処理時間の短縮』を理由に抹消されている。
(……現場が勝手に仕様を削ったな。面倒な新規手続きを切り捨てて、『効率化しました』とでも報告したのか)
俺は視界を現実に引き戻し、青ざめている主任を冷ややかに見据えた。
「主任。あんたたちが使っているその窓口マニュアル。第12巻の第4項……『新規申請時における暫定IDの発行手順』が抜け落ちている。故意に削ったのか、それとも無能ゆえに忘れたのか、どっちだ?」
「そ、そんな……それは、今はもう使われていない古い書式で……! 今は既存のIDを参照するのが『標準』なんです!」
「『標準』を優先して『例外』を切り捨てた結果、この街の農業生産高がどれだけ停滞しているか、計算したことはあるか? 農民が土地を耕せなければ、あんたたちの給料になる税金も一生入ってこないんだぞ」
俺は、呆然としている窓口の若手役人に命じた。
「今すぐ、農耕課の奥から『暫定承認印』を持ってこい。それから、税収課の帳簿係をここに呼べ。この場で二つの部署の台帳を同期させ、仮の土地番号を発行する。……これは監査官としての命令だ。従わないなら、管理責任の不備として、この窓口主任共々、直ちに罷免の手続きに入るが、どうする?」
「ひ、ひぃっ……! わ、分かりました! すぐに行きます!」
若手役人が弾かれたように走り出す。
主任はもはや、言い返す言葉も持たなかった。
自分の保身のために簡略化した「マニュアルの改ざん」が、最悪の形で露見したのだ。彼はガタガタと震えながら、崩れるように膝をつき、カウンターに額をこすりつけた。
「も、申し訳ございません……! ただ、少しでも窓口の回転を速くせよとの上からの通達が……」
「その結果が三日の足止めか。笑えない冗談だな」
そこからの動きは、驚くほど迅速だった。
「特別監査官」という絶対的な権限が投入されたことで、これまで沈黙していた行政の歯車が、強制的に噛み合わされた。
1時間後。老農夫の手には、インクの匂いも新しい、真っ白な『農耕許可証』と『暫定納税者証』が握られていた。
「ああ……ああ、ありがとうございます……! これで、これで家族が助かります……!」
老農夫は、震える手でその羊皮紙を抱きしめ、何度も地面に額がつくほど頭を下げて去っていった。
ロビーにいた他の人々からも、どよめきが上がる。諦めきっていた顔に、微かな希望の光が宿る。
だが、俺の心は晴れなかった。
この窓口一つを正したところで、この街の「設計図」そのものが壊れている事実に変わりはない。
「……シュウジ殿。お見事でした。相変わらず、あなたの『デバッグ』は容赦がない」
柱の陰で一部始終を見ていたセルアスが、静かに歩み寄ってきた。
彼は以前、俺が言った言葉を噛みしめるように呟いた。
「窓口のデッドロック、一時的には解消しました。ですがセルアスさん、前にも言った通り、この街の行政は完全に『スパゲティコード』だ。一本の糸を引けば、別の場所がさらに強く結ばれる。部署ごとに自分たちに都合のいいルールを継ぎ足した結果が、これですよ」
「ええ。あなたの言う通りです。ですが、だからこそ、あなたに全てを委ねたい」
セルアスは、窓の外を流れる都市運河の方向を指差した。
「次は、情報の流れではなく、物理的な『流れ』の異常です。ルミナスの水道設備……。水源からの水量は十分だというのに、特定の居住区でだけ、水が突然止まったり、逆流したりするという苦情が相次いでいます。物理的な詰まりを疑って何度も清掃しましたが、一向に改善しない」
俺は、行政庁舎の窓から見える運河の水を眺めた。
『差分解析』を軽く働かせると、水面に走る、バルブ制御用の微弱な魔力信号が、不自然な脈動を繰り返しているのが見えた。
「逆流、ですか。ただの故障ならいいんですが……嫌な予感がしますね」
行政という「ルールの歪み」を正した次は、都市の生命線である「物理インフラのデバッグ」。
俺は、腕輪を制服の袖でそっと隠し直した。
この街の「現仕様」は、めくればめくるほど、ろくでもないバグばかりが隠されているらしい。
「行きましょう。水の流れが止まる前に」
俺は、ようやく活気を取り戻し始めた窓口を背に、次の「戦場」へと向かった。




