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第6話 建前では回る、でも現場では回らない

「さて、リゼットさん。まずはこの部屋の『仕様書』……こちらで言うところの、正式な業務マニュアルを見せてもらえますか?」


端末の再起動でひと息ついたのも束の間、俺は散乱する書類の山を眺めながら切り出した。

 リゼットは不思議そうな顔をしながらも、棚の奥から分厚い革綴じの台帳を取り出してきた。


「マニュアル、ですか? これは王宮ギルド総本部から通達されている『冒険者依頼処理基本綱領』ですが……。でも、これを読んでも今の状況は解決しないと思います。私たち職員は、この内容はすべて暗記していますから」

「それでいいんです。比較対象が必要なだけですから」


俺は台帳をパラパラとめくりながら、再び『差分解析』を発動させた。

 左目には「建前(綱領)」のクリーンなフローチャートが。

 右目には「実態(現仕様)」の、どろどろに溶けたスパゲティのような光の線が映し出される。


(……ああ、やっぱりな。不一致箇所が多すぎる)


「リゼットさん、今から俺が言うことをメモしてもらえますか。この現場で起きていることを整理します」

「は、はい! お願いします」


彼女は慌てて羽ペンと羊皮紙を構えた。俺は、空中に浮かぶ光の線を指差しながら――彼女には見えていないはずだが、まるで見えているかのように断言していく。


「まず、ギルドが定めている【建前の手順】はこうです。

 1.冒険者から達成報告を受領する

 2.魔導台帳で依頼内容と照合する

 3.不備がなければ報酬を支払う

 シンプルですね。これなら一人あたり三分もあれば終わるはずだ」


リゼットが悲しげに頷く。

「ええ。本来は、そうです。でも今は……」

「対して、今この部屋で実際に行われている【現仕様の手順】はこれです。

 1.報告書を受領する

 2.『過去に不備があったか』を別台帳で確認する(※綱領にはない追加工程)

 3.不備がなくても『最近の素材相場』と照らし合わせ、報酬額にズレがないか手計算で再検算する(※五年前の改訂で追加)

 4.さらに『本日の予算上限』を超えていないか、隣の窓口の承認を得る(※三年前の予算削減以来の慣習)

 5.そのすべての記録を、原本とは別の『控え台帳』にも転記する」


俺が一つ一つ読み上げるたび、リゼットの表情が強張っていく。

 自分たちが無意識に、あるいは「良かれと思って」積み重ねてきた二重、三重の確認作業。それが、白日の下に晒されている。


「……そうです。その通りです。相場が変わって冒険者から不満が出ないように、予算を超えて代官所に怒られないように……。そうやって一つずつ追加していった結果、今の私たちは、一通の報告書を処理するのに十以上の工程を踏んでいます」


「それが【詰まりの原因】です」

 俺は断言した。

「安全装置を付けすぎて、機械が動かなくなっている。特にこの『他部署への承認』と『二重転記』。これは完全に無駄です。魔導台帳そのものに記録されているなら、控えを作る必要はない。何かあった時の責任逃れのための作業に、現場の人間が一人潰されている」


「……でも!」

 リゼットが、絞り出すような声で反論した。羽ペンを握る指先が白く震えている。

「それをやめると、もし記録が消えた時に誰も責任が取れません。現場の私たちが、独断で工程を省いたと責められる。冒険者への支払いにミスがあれば、ギルドの信用は失墜する。……そんなこと、怖くてできません!」


リゼットの言い分は、組織人として極めて正しい。

 彼女は真面目だ。だからこそ、失敗した時の「もしも」をすべて自分の肩に背負おうとして、動けなくなっている。


「リゼットさん、責任の取り方は一つじゃありません」

 俺は静かに、けれど逃げ場を塞ぐように言った。

「消えないための再起動手順は、俺が教えました。それでもなお、この『無駄な保険』を維持するために現場を壊滅させるのが、主任としての責任ですか? ミスを恐れるあまりに処理を止め、外の冒険者たちに暴動寸前の怒りを溜め込ませることが、ギルドの信用を守ることになるんですか?」


「それは……」

 リゼットの視線が彷徨う。

 背後の事務室では、一人の職員が机に突っ伏し、荒い息を吐きながら書類の山を凝視している。窓口の向こうからは、絶え間なく罵声が響いてくる。

 ルールを守って自滅するか。ルールを捨てて活路を開くか。

 彼女にとって、それは「正しい手順」という名の防壁を自ら取り壊す、身を切るような決断だった。


「……もし、失敗したら。差し戻されたデータが二度と復旧しなかったら……」

「その時は、俺も一緒にセルアス様に謝りに行きますよ。俺を雑務係に送り込んだ責任を取れ、とね」


少しだけ冗談めかして言うと、リゼットは驚いたように目を見開き、それから小さく、吹き出すように笑った。

 張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


「……ずるい人ですね。そんな風に言われたら、私が怯えているのが馬鹿みたいじゃないですか」

 彼女は大きく深呼吸をし、羽ペンを机に置いた。

 迷いの消えた、鋭い主任の顔が戻っていた。


「……全職員に伝達します! 今からの三時間は、本部綱領にある基本手順以外のすべての作業を『凍結』します! 二重転記も、他部署への確認も不要! 私が全責任を取ります。とにかく目の前の山を崩しなさい!」


リゼットの凛とした号令が事務室に響き渡った。

 最初は戸惑っていた職員たちも、彼女の覚悟を、そして何より「余計なことをしなくていい」という解放感を受け入れ、猛然と書類に食らいつき始めた。


効果は、劇的だった。


一時間後。

 事務室に積み上がっていた書類の山が、目に見えて低くなっていった。

 「確認待ち」で止まっていた処理が次々と流れ出し、窓口から響く怒号が、次第に驚きと、それから「やっとか」という安堵の声に変わっていく。


「……信じられない。こんなに早く、列が引いていくなんて」

 リゼットが、窓口の隙間からロビーを覗き見て呟いた。あんなに殺気立っていた冒険者たちが、報酬袋を手に、満足げにギルドを後にしている。


「特別なことはしていません。本来の仕様に戻しただけです」

 俺は床に落ちていた最後の一枚の書類を拾い、リゼットに手渡した。

「建前は、現場を縛るための鎖じゃない。本来は、現場を円滑に回すための最短ルートなんです。それを忘れて継ぎ足しすぎたのが、今回の不具合の正体ですよ」


「シュウジさん……」

 リゼットの瞳に、深い信頼の色が宿るのがわかった。

 もはや彼女の中に、俺を「代官所から来た雑用係」として見る色は微塵もなかった。


夕暮れ時。

 ルミナス支部の冒険者ギルドは、数ヶ月ぶりに「本日分の処理完了」という奇跡的な状態を迎えた。

 疲れ果てながらも、どこか清々しい顔をした職員たちが、俺の横を通るたびに「ありがとうございました」「助かりました」と声をかけていく。


だが、俺は一人、空になった事務室で魔導台帳を見つめていた。

 『現仕様閲覧』を解く直前、台帳の奥深くに、もう一つの「奇妙なノイズ」が見えた気がしたからだ。


それは現場の工夫による継ぎ足しではない。

 もっと意図的で、組織の根幹に根ざした、冷たい悪意のような書き換えの跡。


(……一筋縄じゃいかないな。この街の『仕様』は)


一つの詰まりを解消したことで、より巨大な歪みが、その輪郭を現し始めていた。

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