第5話 依頼が消えるギルド
怒号と熱気に包まれたギルドのロビーを横切り、俺はカウンターの端にある、関係者以外立ち入り禁止の重い木扉を叩いた。
返事はない。ただ、扉の向こうからも慌ただしく走り回る足音と、何かをぶちまけたような音が聞こえてくる。
俺は少し声を強めて言った。
「代官所から派遣された雑務係のシュウジです。セルアス様の紹介で参りました」
その言葉が届いたのか、数秒後に鍵が外れる音がして、扉が勢いよく開いた。
現れたのは、先ほど窓口の奥で必死に対応していた亜麻色の髪の女性――リゼットだった。間近で見ると、その疲弊具合はさらに凄まじい。制服の袖にはインクのシミが飛び、髪もあちこち跳ねている。
「代官所から……? ああ、話は聞いています! でも、今は説明している時間も、お茶を出す余裕もありません! とにかく中へ!」
彼女は俺の手を引くようにして中に招き入れると、すぐに扉を閉めてボルトをかけた。
扉一枚隔てただけで、外の怒号が少し遠くなる。だが、事務室の中は別の意味で戦場だった。
床には仕分けの間に合わない書類が散乱し、巨大な水晶の端末が唸りを上げている。数人の職員が顔を真っ赤にして、台帳と格闘していた。
「申し訳ありません、私が受付主任のリゼットです。見ての通り、壊滅的な状況でして……。あなたが何ができるかはおいおい伺います。今は、その、適当に床の書類を拾って棚に――」
「リゼットさん! またです! Dランクの『灰色狼の討伐』の達成報告が、記録から消えました!」
若い職員の悲鳴のような叫びに、リゼットが顔を強張らせた。
「またなの!? さっき照合をかけた時は確かにあったはずでしょう?」
「それが、承認印を押した瞬間にエラーを吐いて、履歴ごと真っ白に……! 外では冒険者のガルトスさんが『報酬を横領したんだろう』って今にも暴れそうで……っ!」
リゼットは目眩を堪えるように額を押さえた。
「消える」わけがない。データである以上、どこかに必ず「残骸」があるはずだ。
俺は静かに、リゼットの背後にある大きな魔導記録台帳――システムのコアへと歩み寄った。
「……ちょっと失礼」
「えっ、シュウジさん? 危ないですよ、その端末は今暴走気味で――」
構わず、俺は意識を集中させた。
『差分解析』
視界がモノクロームに染まり、魔力の流れが極彩色の線となって浮かび上がる。
問題の「消えた依頼」の残滓を探すと、それは一本の細い光の糸となって、台帳の深層へと伸びていた。
だが、その糸はゴールである「報酬確定」に届く前に、いくつもの奇妙なノイズに絡め取られていた。
【要求仕様】 討伐証明部位を確認し、規定の報酬を支払う。
【現仕様】 報告書を受領 → 条件分岐:『過去三ヶ月以内に同一冒険者の遅延履歴』を確認 → 有りの場合:『特別監査フラグ』を付与 → 再分岐:『現在、監査部署の未処理案件が百件を超えているか』を確認 → 超えている場合:『一時待機フォルダ』へ移動 → 循環参照エラー発生:『待機フォルダ』が満杯のため、データがバッファから溢れて消失(正確にはログの未整合による参照不能)。
(……ひどいな、こりゃ)
俺は思わず小さく苦笑した。
仕組み自体が「忙しすぎるから、少し後回しにしよう」という例外ルールを作り、その後回しにするための場所がパンクして、中身をゴミ捨て場に放り出しているのだ。
典型的な、設計外の負荷によるシステムの自壊。
「シュウジさん? 何を――」
「リゼットさん、落ち着いて聞いてください。データは消えていません。ただ、システムの『ゴミ箱の入り口』に引っかかっているだけです」
俺の言葉に、リゼットだけでなく、周囲の職員の手も止まった。
彼らの目は「何をデタラメを」と言いたげだったが、俺はリゼットの目をまっすぐに見つめた。
「冒険者のガルトスさん。彼はこの三ヶ月で何度か書類の出し忘れか何か、小さな失敗をしていませんか?」
「え……ええ、確かに、彼は少し粗忽なところがあって。でも、それが何か関係――」
「大ありです。ギルドのシステムには『失敗した冒険者の報告は念入りにチェックする』という古い例外ルールが残っている。それが、今の異常な忙しさのせいで『チェック待ち』の行列を作って、勝手にパンクしているんです」
リゼットの顔から血の気が引いていくのが分かった。
彼女はギルドの運営を誰よりも真面目に、正確に守ろうとしてきた人間だ。そんな彼女にとって、俺が口にした「システムが勝手にデータを捨てている」という事実は、信じがたい屈辱であり、恐怖だっただろう。
「……あり得ません。この魔導台帳は王宮の技師が構築した、聖なる制度の一部です。それが、そんな……そんな不具合で、冒険者の信頼を裏切るなんて……」
「聖なる制度だろうと、実態はただの処理の積み重ねです。リゼットさん、今すぐその端末の横にある魔力調整つまみを、三回短く叩いてください。魔力を断続させれば、溜まった一時データが強制リセットされ、再読み込みが始まります」
リゼットは息を呑み、一歩後退りした。
魔力供給の遮断。それは、ギルドの運用マニュアルにおいて「重大な禁忌」として記されている行為だ。正規の承認手順を飛ばし、一時的にせよ監査を無効化すること。もし失敗すれば、記録台帳そのものが破損する恐れすらある。
「……できません。それは、ギルドの規律を根本から破壊する行為です。もし間違っていたら、私は……」
彼女の視線が、震えながらロビーへと続く扉に向けられた。
扉の向こうでは、冒険者たちの怒声が地鳴りのように響いている。「泥棒ギルド」「報酬を返せ」――その一つ一つが、現場を愛し、誇りを持って働いてきたリゼットの心を切り刻んでいた。
規律を守って、このまま現場を崩壊させるか。
規律を破って、目の前の冒険者を救うか。
「おい! 責任者を出せ! 逃げる気か!」
壁を揺らすほどの強い衝撃。扉の向こうで何かが壊れる音がした。
限界だった。
リゼットは唇を噛み締め、涙を浮かべんばかりの瞳で俺を睨みつけた。
「シュウジさん……。あなたが言っていることが、単なるデタラメだったら……私はあなたを、一生許しません」
「ええ、構いません。……ですが、俺が見ているのは『建前』ではなく『現仕様』です。結果はすぐに出ます」
リゼットは震える指先を、冷たい金属のつまみへと伸ばした。
彼女は、自分が積み上げてきたキャリアと、この街のギルドの全責任を、この三回の打鍵に込めた。
――一回。
――二回。
――三回。
一瞬、端末の光が消え、心臓の鼓動すら聞こえそうなほどの静寂が事務室を支配した。
次の瞬間。
――キィィン、という澄んだ音と共に、端末から大量の羊皮紙が吐き出された。
その束の一番上には、ガルトスという名の冒険者の報酬確定書が、鮮やかな青色の「完了」印と共に刻まれていた。
「出た……。本当に、戻ってきた……!」
若い職員が震える手でそれを掴み、弾かれたように窓口へ走っていく。
静まり返った事務室の中で、リゼットだけが、腰を抜かすようにその場にへたり込んだ。
彼女の額からは大粒の汗が流れ、激しい葛藤の余韻で肩が小さく震えている。
「シュウジさん。あなた、一体何者なんですか……? 魔導技師でも、これほど正確に『中身の壊れ方』を言い当てることはできないはずです」
「ただの会社員……じゃなくて、雑務係ですよ。人より少し、フローの詰まりが見えやすいだけです」
リゼットは深い溜息をつき、それから今日初めて、自嘲気味に、けれど心底から安心したように笑った。
「……雑務係、ですか。代官所はとんでもない『爆弾』を寄越してくれたみたいですね。でも、助かりました。本当に」
「礼には及びません。仕事ですから。……でもリゼットさん、今のはただの再起動です。根本的な詰まり――この部屋の書類の山をどうにかしないと、一時間後にはまたパンクしますよ」
俺がそう言って、床に散らばった書類の山を指差すと、リゼットは「ううっ」と呻いて、ようやく立ち上がった。
その瞳からは先ほどの迷いは消え、現場を預かる指揮官の鋭い光が戻っていた。
「……そうですね。分かりました。シュウジさん、正式に業務補助をお願いします。いえ、私の『参謀』になってください。この地獄を、一緒に終わらせていただけますか?」
差し出された彼女の細い手。
その手はインクで汚れていたが、自らの手で規律を破ってでも現場を守り抜くと決めた、確かな強さがこもっていた。
俺はそれを取り、力強く握り返した。
「承知しました。まずは、その山を片付けるための『仕分け基準』から作り直しましょう」
外の喧騒はまだ続いていた。だが、この事務室の空気は、今、明確に変わり始めていた。
異世界のギルド。その腐りかけた現仕様を、俺たちはこれから一つずつ、正しく書き換えていく。




