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第三章 探険士のお仕事

 黒尾は外が真っ暗になっていることに気づいた。もう夕方だった。いつの間にか四時間以上も過ぎていた。集中して何かをすると時間が過ぎるのが速い。

 時刻は午後五時半過ぎ。そろそろ支度を始めないとまずい。超能力戦士(PW)の鍛練についての章を読み終えたところで、黒尾は『PW概論』を閉じた。

 武器類や貴重品が入った小背嚢を背負い、携帯電話や免許証、財布等を確認して身支度を済ませ、黒尾は宿泊所の門に向かう。

 門に到着したのは五時三十六分だったが、通り過ぎる探険士達の中に混じって、岩井は既にそこに佇んでいた

「すみません、遅れました」

 黒尾は頭を下げた。余裕を持っての到着であっても、目上の相手よりも遅い到着では意味がなかった。

「ああ、気にしないでいい。俺だってさっき来たばかりだ。五分前行動を心掛けてるもんでね。うちの会社じゃこれが普通だから、うまくこいつを乗り切った時に備えて、君も今の内から慣れとくといい」

 黒尾は「心掛けます」と答えた。

 二人は、工藤とその「相乗り」仲間達が指定した場所に向かった。待ち合わせ場所は「焼肉屋あらし」。私営の焼肉屋だ。夕食がてら最終的な「相乗り」の可否を判断したいと主張した工藤が指定したのがその店だった。


 モノリス街はいつも賑やかだが、その中でも食事の時間帯は格別だ。朝昼夕の食事時になると街は腹を空かせた人々で一気に賑わう。

 黒尾と岩井はそうした人々の列に混じって街路を抜けていき、十数分後、お目当ての「あらし」に辿り着いた。

 初めて訪れたその店は、焼肉屋という言葉からの勝手な想像に反し、割合小奇麗な雰囲気の店だった。そういう店にありがちな汚らしさがほとんど見受けられなかった。それでいて、鼻持ちならない気取った雰囲気もなかった。安っぽく輝く電飾看板、周囲に漂う、煙たくも香ばしい、炭火で肉を焼く時に特有な食欲をそそる匂いなどは、まさに大衆向けの焼肉屋そのものだ。経済的に余裕ができたら通ってみるのもいいかもしれない、と黒尾は一目でこの店が気に入った。

 岩井と共に店内に入り、近くにいた店員を捕まえた。工藤の名前で団体席を予約してある旨を告げて案内を頼むと、店員は工藤の席は二階だと答え、二人を二階へと連れていった。

 案内に従って二階に上がると、多くの団体客に混じって、見覚えのある髭面が見えた。顔の下半分が濃い髭に覆われた厳つい顔。頭とほぼ直径の変わらない太い頸。Tシャツ一枚を纏っただけの筋骨逞しい胴体。むさ苦しいという言葉がこの上なく似合う毛深い肌。熊を人間に作り替えたような風貌。まさしく工藤だ。

 向こうもこちらに気づいたようだった。「おーい、こっちだ、こっち!」と濁声を張り上げながら、救助隊に呼びかける遭難者のように大仰な身振りで手を振ってきた。

「お久しぶりです、工藤さん」

 席に近づいて挨拶すると、工藤の「相乗り」仲間と思しき二十人近い同席者が値踏みするような視線を向けてきた。その中の半分程度は元から工藤の仲間であり、黒尾も見覚えがあるが、残りは知らない連中だ。

 その注目を掻き消すように、工藤が自分のすぐ横の空席を手荒く叩いた。

「おう、よく来たな。先にやらせて貰ってるぞ。腹減ってるだろ、さあ、座れ座れ。遠慮せず腹一杯食ってくれ!」

「は、はあ、じゃあ、ありがたく……」

 工藤の豪快な態度に圧されつつ、黒尾は腰を下ろした。

「好きなの頼みな。今日は俺の奢りだ」と工藤は親しみの籠もった態度でメニューを手渡してきた。

 岩井も「ご馳走になります」と工藤に会釈して黒尾の横に腰を下ろした。

 黒尾と岩井は一緒にメニュー表を覗き込み、工藤の顔を潰さない程度に高く、それでいて彼の財布に痛手を与えないであろう程度に安い、程々の質と量の肉や飲み物を注文した。

 工藤は大ジョッキを満たすビールを一息に飲み干すと拍子抜けした風な顔をした。

「なんだ、それっぽっちでいいのか。もっと頼みゃいいのに、相変わらず食の細い奴だ。それに岩井、お前さんもいい体してる割に食わねえな、相変わらず」

 黒尾は苦笑した。

「そりゃ工藤さんに比べたら小食ですけど、これでも普通に比べれば食べてる方ですよ」

「そうですよ、工藤さん」と岩井も同意して笑った。

 比喩ではなく山盛りの肉に挑んでいる工藤と比べるからいけないのだ。黒尾も体が資本の探険士には違いない。当然相応の量を食べる。黒尾も体が資本の探険士だから、世間の基準で換算すれば一・五人前くらいは頼んでいた。岩井も世間の基準で言うところの二人前以上を頼んでいた。

「まあ、大の男がそんな細けえことを気にするんじゃねえよ。しっかし、お前が会社勤めか。時代とは言え、寂しいもんだなあ」

 工藤は残念そうに唸った。彼は探険歴十三年の古参だ。鬼鉄悟郎や三摩地総一郎などと共に、冒険と名誉に溢れていた黄金期を担った世代であり、モノリス到達を目指す伝統的な探険士だ。

 工藤の表情を見た黒尾は、そんな古き良き独立独歩の探険士に採用試験の手助けめいたことを頼んだことを内心で後悔した。こういう時、他者の感情の機微に疎い己の無神経さと、相手の感情の動きを敏感に嗅ぎ取ってしまう己の精神感応能力との不釣り合いが嫌になる。

 黒尾の心境を知ってか知らずか、工藤はそのまましんみりと続ける。

「まあ、今じゃ探協が流す個人向け依頼も寂しいもんだからな。大概会社向けだし、探協通さねえ契約も増えた。会社が仕事を一人占めしてやがる。それに会社で固まってるせいで、『相乗り』しようって奴もめっきり減った。探さなくたって、会社の連中集めりゃ済むんだからな。こんな状況で新しく個人でやろうなんて考える方がおかしいんだろうよ――と、すまんな、岩井。別にお前に当てつけてるわけじゃねえんだ。嫌な気分にさせちまったなら謝るよ」

「いえ、私も以前は個人で仕事をしていたので、そちらの事情もよくわかります」

「悪いな、気ィ遣わせちまって。その詫びも兼ねて、今日はじゃんじゃん飲み食いしてってくれ」工藤は黒尾に視線を戻した。「そういえば、武智の奴は一緒じゃねえのか」と言ってから、何かに気づいたような顔をする。「……あ、ひょっとしてあれか、その……」

「ええ、武智は……あいつは独り立ちを目指すそうです。だから、試験に通ったらパーティからは抜けます。ああ、もう僕の代わりは手配済みですよ。筋は通したんで、心配しないでください」

「そうか、そいつはなんて言うかだな……」

「まあ、今生の別れってわけでもありませんし……友達やめたわけじゃないんですから、付き合いはなくなりませんよ。それに、縁があればまた一緒に『中』に入ることだってあるでしょうし」

 柄にもなく言い淀む工藤に対し、黒尾は静かに笑いかけた。もう踏ん切りはついている――つけたつもりだ。

「ああ、そうだな。いけねえな、俺としたことが、さっきからつまんねえことばかり言っちまってよ」

 工藤は頭をがりがりと掻いた。

 そこにタイミング良く店員がやってきた。

「失礼します。先にお飲み物の方をお持ち致しました。こちらご注文の烏龍茶とビール中ジョッキになります。お肉の方は、申し訳ございませんが、もう少々お待ち下さいませ」

 店員が来たことにより、会話は仕切り直しとなった。今度は互いに学習したため、地雷を上手く避けながら歓談した。

 しばらく喋っていると、工藤が階段の方に視線を向けた。その視線を追いかけてみると、肉が溢れんばかりに盛られた皿を抱えて店員がこちらに近寄ってきているのが見えた。

「ほら、お前らのが来たぞ。飯の時間だ。美味い飯食って、美味い酒飲んで、楽しく過ごそうじゃねえか。何、酒が回って良い気分になってたって、誰か超能力使える奴が『酔い醒まし』の一つもしてくれりゃ、なんの問題もねえよ」

 工藤が大ジョッキに注ぎ直されたビールを持ち上げて笑った。


 いつ死ぬかわからない。今日会った人間と明日会えるかわからない。同じ面子が次も揃うとは限らない。そういう世界を生きる探険士達ほど一期一会の精神を理解している者は、この平和な日本にいないだろう。

 工藤の宣言通り、食事はうまくて楽しいものとなった。彼らは仲間との付き合いが生死に直結する探険士らしくすぐに打ち解け合い、武勇伝や失敗談、世間話や近況報告、趣味の話などをしながら、アルコールを喉奥に流し込み、肉を胃の中に放り込んだ。

 しかし、楽しい時間が永遠に続くことはない。楽しい非日常はつまらない日常の隙間にある。テーブルの上の肉や野菜が粗方片付いた頃には、場の雰囲気は、楽しい宴会から厳しい交渉へと切り替わっていた。

 仲間の超能力者の「酔い醒まし」を受けて頭をすっきりさせた工藤が、一転、真剣な顔になって黒尾を見据えた。

「さて、腹もくちくなったことだし、ここらでちゃちゃっとお互いの要求って奴を話し合おうじゃねえか」

 黒尾も負けじと真っ向から視線を返した。

「わかりました。一応、僕達の希望は前にお伝えした通りですが……」

 交渉の類は原則、黒尾がすることになっているので、上級者であることが明らかな岩井を差し置いて黒尾が答えた。これも試験の内なのだ。

 事前に伝えておいたから工藤もその辺りの事情はわかってくれており、特に変な顔をすることもなく自然に応じてきた。

薬師(くすし)通りを黒沢まで上って、そこから田無に行きたいんだったな」

 黒尾達が向かう先は深沼区の田無だ。モノリスの真南に位置する開口部から見て北東の方角、直線距離にして三キロ程度の地点にある。寄り道せずに休憩なしで直進していけば三、四時間ほどで到着する「近場」だ。

 ただし、それはあくまでも「直進できれば」の話だ。そう上手い具合に話が進まないからこその「影響圏」であり「難所」だ。

 田無と開口部の間には、モノリス出現に伴う地形変化によって生まれた深沼湿原が広がっている。モノリス水で泥濘み、時にはモノリス霧さえ発生する有害な湿原を抜けていくのは自殺行為だから、当然、湿原を大きく迂回していかなければならない。

 迂回路は幾通りか考えられるが、黒尾が立てた計画では、開口部に隣接して北へと伸びる薬師通りに入り、そのまま道なりに黒沢に進んだところで右折し、田無に向かうことになる。北に進み、然る後北東に進路を転じ、その後、南東へと向かい、時計回りに大きく迂回する。やや大回りで遠回り気味だが、安全と距離とを勘案した結果、最も釣り合いが取れているのがこの経路なのだ。

「そうです。皆さんの目的地は中央区や干沼(ひぬま)で、薬師通りを使うんですよね」

「そうだ。だから、お前達とは黒沢までなんだが……」

「……何か問題でも」

「まあ、そうだな……いや、こっちとしてはお前らみたいな腕利きが参加してくれるってんなら大歓迎なんだがな……何度か仕事したから黒尾や岩井の腕前は知ってるしな。ただな、問題はルートなんだよ。流石に黒沢までじゃな。もうちょっと行けねえか。できれば川端まで、それが無理でも、せめて水無(みずなし)までよ」

「でも、僕らとしてもあんまり遠回りするわけには……」

「こっちとしちゃ、流石に黒沢止まりじゃ困るんだよ、黒尾。そこまでの戦力は足りてるんだ。なのにそこで抜けられるんじゃ、お前らを入れる意味がねえ。俺達はお前らのために『相乗り』やるんじゃねえんだ」

「でもですよ、工藤さん。僕達だって、あんまり遠出をするんじゃいろいろと予定が狂っちゃうんですよ」

「だからよ、できる限りでいいから融通利かせてくれって言ってるんだよ俺は」

「相乗り」は利害と都合のぶつかり合いであると同時に譲り合いでもある。各自が各自の目的を最優先にするのは当然のことだが、他者の目的に全く配慮しないのでは集団を作ることなどできない。一方、各自が他者の目的に配慮するのは当然のことだが、各自が己の目的を殺すようでは集団を作る意味がない。どれだけ求め、どれだけ譲るか。その調整が肝心だ。

 交渉の争点は黒尾達がどこまで同行するかだ。

 黒尾としては黒沢で分かれて田無に向かいたい。それが現時点で選び得る中で、安全と距離の釣り合いが最も取れた経路だ。仮に経路を変更するとしても、川端よりも先には絶対に行きたくない。川端よりも先の地点を経由して田無に向かうとなると、どうしても隘路を通ることになるからだ。何が潜んでいるかわからない建物や藪に挟まれた隘路を進むのは危険すぎる。隘路で死んだ探険士は少なくない。

 工藤としては黒沢よりも先の地点まで黒尾達を同行させたい。この「相乗り」の中核を成す工藤のパーティは開口部から十キロ以上も――そして実際の行程では十五キロ以上も――離れた中央区まで遠征する。そうである以上、消耗を分かち合う仲間とはなるべく長く行動を共にするに越したことはない。

 黒尾と工藤は二十分近くも議論を交わした。どちらも自らの要求を堅持すべく努めたが、やがて少しずつ歩み寄りを見せ始め、最終的には互いに可能な限り譲歩し合う痛み分けの形で決着した。

 工藤が交渉の結論を総括した。

「お前らは川端まで進む。その代わり、俺達は川端で大休止を取る。その間、お前達はずっと休んでる。こういうことでいいな」

「異存ありません」

 川端までというのは工藤の当初の要求を受け容れたことになるが、その代わり黒尾達も工藤達に守られながら大休止を取ることができる。パーティの規模や探険士としての格差を思えば、まずまずの結果だと言える。

「これで決まりだな。でよ、出発なんだが、いつくらいから行ける。急に予定変えさせちまったわけだしな、二、三日程度なら待つぜ」

「明日で構いませんよ。こんなこともあろうかと、ルートはいくつか考えてありましたからね」

 黒尾はにこやかに答えた。

 変更の余地や準備のない、融通の利かない探険計画を立てるようでは探険士失格だ。計画は単純と柔軟を以て旨とする。柔軟な計画と万全の準備は探険士として基礎中の基礎、初歩の初歩だ。


 工藤との打ち合わせの翌日、つまり二月十七日の午後一時頃。

 全ての準備が整い、遂に彼らは「影響圏」へと出発することとなった。

 丁度良い時間だ。腕時計に付属しているモノリス時計も「午前五時」頃を指している。実際に「影響圏」に入る頃には「朝」になっているだろう。

 黒尾と岩井は装備を整えて第六宿泊所を出た。今日は来た時と違い、ヘルメットを除く防具類、タクティカルベストを始めとする戦闘用被服、そして剥き出しの武器を身につけている。探険業務に従事中の探険士は武装することを許されている。

 黒尾は戦闘服とフィールドジャケットの上に軽量型のボディアーマーを着込んでいる。タクティカルベストはボディアーマーの上に着用しており、地図、方位磁石、小型懐中電灯、小水筒といった探険用具や弾薬等をポケットに収納している。腰には頑丈なベルトを巻き、ベルトには拳銃やナイフ、予備弾倉などを収めたナイロン製のホルスターやポーチを装着している。他はベルトに吊るしているだけだが、銃だけは腿の所で固定してある。ナイフはありふれた量産品のサバイバルナイフで、拳銃は「九ミリ拳銃」の名で自衛隊制式となっているスイスとドイツの合作自動拳銃シグ・ザウエルP220だ。小銃や短機関銃は持たない。そもそも拳銃を使うこと自体が少ないのだから、そんな物を持っても余計な荷物になるだけだ。

 一方の岩井の装備も黒尾と似たようなものだが、違う点も少なくない。ボディアーマーが甲冑を思わせる重装型であること、拳銃がモノリス管理支援群で制式採用となっているコルト・ガバメントである点、拳銃の他に自衛隊制式小銃八九式五・五六ミリ小銃を携行している点などがそうだ。こちらは肉体と装備のみを恃みとする探険士らしい、高火力重装甲だ。

 彼らは武具を身につける他に、総重量が四十キロを超える装備を詰め込んだ背嚢を背負って御門宿泊所前停留所へと向かい、バスが来るのを待った。工藤達とは開口部前で落ち合うことになっていた。

 二人で雑談しながら待つこと数分、バスが到着した。既に乗客が座席から溢れていたが、幸いにもまだ乗り込む余地があったため、次のバスを待つ破目にならずに済んだ。

 いくつかの停留所で客を拾った後、いよいよバスはモノリス影響圏開口部へとその向かう先を定めた。市街地を出て、進入禁止地帯とモノリス街を隔てる鉄柵の門を通り抜け、並んで開店する屋台や露店、作業に精を出す人々、休息を取る人々といった風景には見向きもせず、だだっ広い平地に伸びる舗装路を時速四十キロの安全運転で進んでいく。行き先には「影響圏」という銀舎利を包む黒々とした「海苔」が見える。

 更に十数分ほどバスに揺られていくと遂に開口部が見えてきた。地上は勿論空中や地中に至るまでを覆い隠している境界壁の、たった一つの開口部だ。「モノリス以前」の行政区画で言うところの深沼区稲場と神影市神渡(かみわたり)の境目付近に、二階建てバス三台が並んだ状態で余裕を持って通り抜けられそうな穴が空いている。

 その穴は周囲三十メートル圏を隔離するように張り巡らされた鉄条網で守られている。

 鉄条網の出入口には、モノリス管理局が設置し、管理局とモノリス管理支援群が合同で管理する警衛所がある。警衛所は入場用と退場用の門に分かれている。往路と復路双方に順番待ちの列が出来ている。

 警衛所の近くには、管理局員が二十四時間体制で詰める事務所がある。鉄条網には自衛隊用の出入口も設けられており、そこには管理支援群の名高いモノリスレンジャーが一個中隊、戦闘準備を整えて常駐する監視所が建っている。

 囲い地の内外は人と車でごった返している。それらは大別すると、「影響圏」に出入りしようとする者、車輌に群がって荷の積み降ろしをする者、待ち合わせや打ち合わせのために佇む者、そして囲い地に出入りするための順番待ちをする者だ。

 バスが開口部ターミナルで停まった。終点だ。

 乗降口から溢れ出る人波に揉まれながら、黒尾と岩井は開口部ターミナルに降り立った。そのまま人の波に逆らわずに警衛所へと向かう。

 列の進みは非常に速い。防壁の手続所とは比べ物にならない。並んでから十分もしない内に黒尾達の番が来た。

「免許証を確認させていただきます」と警衛所に詰めているモノリス管理局の職員が手を差し出してきた。

 まず黒尾が免許証を差し出した。

 受け取った職員は免許証を無造作に認証機に通すと、「事前予約を確認しました。結構です」とそれを返し、「お通りください。お気をつけて」と先に進むよう促した。

 手続はこれで終了だ。警衛所の職員に探険士免許証を渡し、認証機に通して貰う。その後、事前予約で通行料を納付していない場合は枠に空きがあれば通行料を請求され、支払いを済ませる。質問もなければ検査もない。申請者が指名手配されているとか、あからさまに怪しいとか、免許証に不備があるとか、そういうことでもない限り、本当に免許証を機械で読み取って通行料を払うだけで終わってしまう。周囲一キロ圏を囲む進入禁止地帯と日本史上空前の大防壁とがもたらす余裕の表れだろう。

 小銃を持った屈強な自衛官が守る通用門を黒尾が通り抜けた十数秒後、岩井も問題なく警衛所を通過した。

 周囲を見回す。

 工藤達の姿はない。

 だが、集合は一時四十分、進入は二時頃という予定になっている。待ち合わせにはまだ十分以上もある。黒尾達は鉄柵沿いの待ち合わせ場所に移動してヘルメットを被り、工藤達を待った。

 黒尾達に遅れること数分後、工藤の特徴的な髭面と巨体が見えた。既にこちらに気づいているようで、仲間を引き連れ、手を振りながら近寄ってくる。

 工藤は岩井と同様の重武装だが、要所要所が分厚い竜革で補強された特注らしき戦闘服とボディアーマーを着込むことでベテランの貫録を見せつけている。どちらも重量と防護力の問題を同時に解決した逸品であり、工藤の自慢話によれば製作に一千万円以上かかったという高級品だ。岩井を始めとするこれの価値のわかる者達が羨望と驚愕の眼差しを向けている。

 向けられる眼差しを堂々と受け止めながら、工藤が集結した一同を見回した。野太い声で二十二名の「相乗り」参加者一人一人の名前を呼んで点呼を取る。元自衛官、それもモノリス管理支援群で分隊長を務めていたと言うだけあり、統率力は抜群だ。

 全員の返事を聞いた工藤は満足そうに頷き、声を張り上げた。

「無線確認! 薬室確認!」

 探協発行の『探険マニュアル』では、「影響圏」に進入する直前に無線機の状態と銃の薬室を確認し直すことを勧めている。電池の入れ忘れやチャンネルの調整し忘れ、薬室内の状態の誤認は、新米古参を問わず誰の身にも――そしてしばしば――起こり得る。

 それだから、工藤のようなベテランほどこうした基本を徹底する。黒尾が聞いたところによれば、自衛隊を退職して探険士を始めて以来十三年と少々、一度たりとも怠ったことがないという話だ。

 黒尾は必要になったら弾丸を薬室に装填することにしているので、薬室が空であることを確かめて、そのまま腿のホルスターに拳銃を戻した。

 全員が完了の答えを返したところで工藤は黒い壁にぽっかりと開いた口を指差した。

「野郎共、行くぞ!」

 時刻は午後一時五十五分、八時間の時差を計算に入れてモノリス時間に直せば「午前五時五十五分」。

 いよいよ、「影響圏」だ。


 モノリス影響圏は人が住む世界ではない。一歩足を踏み入れた瞬間、理性的思考を経るよりも先に、五感に留まらず、精神に至るまでの全てでそのことを感じ取らずにはいられない。

 視覚――かつて大都市として君臨していた栄光などは見る影もない、人間の無力さを象徴するような憐れな姿。経年劣化や動植物の繁殖、異常念動系統の超能力現象などの様々な要因に蝕まれて荒廃しきった廃墟群、遺棄されたまま怪生物の住処となった遺棄車輛、周囲を覆う黒い膜、遥か遠く御門市天道区に高くそびえる全長五千メートル超のモノリスの姿、隆起現象や沈降現象、出水などによって変化した地形が見える。倒壊した建物、半ば倒壊している建物、有害な泥沼に基礎部分を呑み込まれて沈みつつある建物、壁面に鬱蒼と纏わりつく奇怪な植物、舗装路を裂いて逞しく顔を出す異様な草花の姿などは、文明崩壊後の世界を題材とした創作物に登場する廃墟都市を思わせる。暗黒物質のように黒い、暗闇それ自体を薄く引き延ばしたような周囲の境界壁は、寒々しいほどの静けさと圧迫感を以て侵入者を取り囲む。明け方の太陽のように淡く輝いてそびえ立つ黒い巨柱は、時の経過と共に少しずつ輝きを強めていきながら、圧倒的な存在感を誇示して圏内北端に君臨し、侵入者の視線を釘付けにする。

 聴覚――行き来する同業者達の喧騒に混じって微かに聴こえてくる、明らかに異質な、「影響圏」以外ではまず耳にする機会のない物音。それは超能力による破壊の音であり、銃弾が発射される炸裂音であり、得体の知れない何かの叫び――それは悲鳴であることもあれば怒号であることもある――であり、何かが争い合う音だ。それらは侵入者を威圧するように響く。

 嗅覚――一歩足を踏み入れた途端に鼻の粘膜に飛びついてくる、どうあっても慣れることのできない、根本的に異質な臭い。人間の生活領域にあるべき臭いがなく、人間の生活領域にあるべからざる臭いが鼻を衝く。それらは「影響圏」内で育まれたあらゆる生物や内部で起こったあらゆる現象が時間をかけてゆっくりと醸成してきたものだ。

 味覚――呼吸をした瞬間に口内に広がる、美味い不味いを超越した、今までにない不可思議な味わい。「中」の空気と「外」の空気との間には、山の空気と都市の空気の間にある以上の隔絶が存在している。圏内に存在するあらゆる物質と非物質、生物と非生物、有機物と無機物、そしてあらゆる現象によって構成された空気は、それ相応の、独特の味わいに彩られている。

 触覚――境界を越えた瞬間に襲いかかる、肌が張り詰めるような冷たさ。外界から完全に隔絶された境界壁の内側に季節はなく、一年を通じて摂氏十数度ほどに保たれている。酷い時には気温が五度を下回り、温暖な時でも十五度を超えることのない、常冬の地だ。時折吹く風が、服の隙間に冷たい空気を潜り込ませ、訪れる者の体から熱を奪っていく。

 精神――その独特の知覚能力が受け取る違和感と、その深層意識において為される超理性的判断――直感――が認めた違和感。誰もが程度の差はあれ有する精神的知覚能力は、そびえ立つモノリスを始めとする圏内の有形無形の存在が発する強大な超能力的波動を感じ取り、それが秘める脅威を警告する。通常は本人にも認識し得ない心の深部では、五感や精神的知覚の報告やそれまでの経験や知識などのあらゆる情報が高速度で渦巻き、あらゆる点において「影響圏」が異常異質な場所であり、類のない危険地帯であることをやかましく喚き立てる。

 こうした感覚が、この地に一歩足を踏み入れた瞬間にあらゆる方向から一斉に襲いかかり、非常な重圧となって侵入者の心身を打ちのめそうとする。侵入者はその持てる認識能力の全てを以て、ここが人類がその覇権を完全に喪失した化外の地であることを痛烈に思い知らされることとなる。

 その強烈な印象は奥へ進むほどに強くなる。奥へ進むほどに人間の姿や痕跡が薄れ、人間界との繋がりを失っていき、「『影響圏』らしく」なっていく。ほんの数キロ、つまりほんの数時間も進み続ければ、もうそこは、人類が「影響圏」に打ち込んだ楔である開口部付近とは似ても似つかない、完全な人外魔境の本性を現す。

 しかし幸いなことに――或いは不幸なことに――大多数の者は、そうした真の「影響圏」を体感することなくこの地を去ることになる。「影響圏」の恐るべき環境は、侵入者の心身を消耗させ、緊張させ、萎縮させる。強靭な心身を持つ一握りの者――たとえば専門家である探険士、たとえば自衛隊が誇るモノリスレンジャー――だけがそれに耐えて進み得るのであり、そうでない者は開口部付近の比較的弱い圧力にすら抗えない。その場に立ち竦むか、一目散に逃げ出すか、卒倒するかのいずれかだ。

 開口部から進入した黒尾達は、勿論、「影響圏」を歩く上での真の免許証、即ち強靭な心身の持ち主揃いだ。皆、「影響圏」の圧力に真っ向から立ち向かい、一歩も退かない。

 遥か北方にそびえて「朝」の眩い光を放つモノリスを一瞥し、工藤が声を張り上げた。

「隊列を組め!」

 急拵えの「相乗り」集団は訓練された軍隊のような動きで隊列を組んだ。工藤が先頭、岩井が最後尾、九名の超能力者達が中央、残りが超能力者達の周囲についた。リーダーが先頭を行き、経験豊富な者がしんがりを務め、集団の目となり耳となる超能力者が中央に入り、残りが超能力者の弾除けとして周りを囲む。伝統的な隊形だ。

 工藤が宣言した。

「薬師通りに向かって前進!」

 開口部に接続し、かつての住宅街を切り裂くようにして北へと伸びる薬師通りに入り、そのまま道なりに進む。モノリス出現の衝撃によって御門市は崩壊し、地形も大分変わり、費用と難度と利潤の問題から荒れるがままに放置されてはいるが、よく整備されていた道路網自体は原始的な街道のような形で辛うじて生き残っている。利用しない手はない。

 周囲への警戒を片時も怠ることなく、一行は「朝」の「影響圏」を慎重に前進する。住宅の無惨な成れの果てに見下ろされながら、奇怪な雑草や変異虫に所々を突き破られた舗装路を一歩一歩踏み締めていく。重い荷物――遠征する工藤達に至っては百キロ超もの――を背負いながら、蝸牛のように歩を進めていく。

 誰もが真剣な顔で、無駄口を叩かず、出発時に割り振られた各自の警戒担当範囲に全神経を集中している。他の探険士一行と擦れ違うこともあるが、軽く手を振るだけで、歩みを止めたり話をしたりするようなことはない。

 黒尾を始めとする超能力者達は超感覚的知覚や精神感応を駆使し、「目で見ることができない部分」の警戒を担当している。具体的には「生体感知」や「精神感知」、「透視」、「敵意感知」などを駆使しての、障害物の陰や建物の内部、地面の下、長中距離の様子の探査、また超能力現象の発生や精神生命体の接近の感知が主任務だが、接近してくる変異生物や精神生命体への威嚇も重要だ。今回は超能力者が九名と多いため、三人ずつに分かれ、遠近の警戒と休憩のローテーションを組む。

 周辺に生息する数えきれないほどの生物の気配、周囲に渦巻いて超能力現象を誘発しようとしているモノリスの力、不気味に移動する精神生命体の動向などの情報が、途切れることなく黒尾の頭の中に雪崩れ込んでくる。それらを一々認識して分析するのは酷く骨の折れる作業と言えるが、今回は分担作業であるため、普段よりも格段に楽だし、他のことは気にせず限定された範囲の精確な情報を拾うことができる。

 岩井や工藤を始めとする非超能力者達――であると同時に強化人間達――は、その強化された五感によって近中距離の警戒を担当している。罠だらけの密林を進む特殊部隊員のように周囲に気を配り、地雷原を歩く工兵のように一歩一歩を慎重に踏み出していく。黒尾からは巨大な背嚢を背負った蝸牛のような後ろ姿しか見えないが、それであってなおその背中からは、彼らがどれほど強く緊張し、深く集中しているかが窺えた。

 どちらも――特に超能力による警戒は――酷く心身を磨り減らす作業だ。準一級三等探険士にしてレベル八の超能力者である黒尾にとっても決して楽な仕事ではない。「影響圏」内で行動する時に特有の緊張もあるから、分担作業であるとは言え、六時間ほども――単独ならば二時間も持てば良い方だ――休みなしに続けたなら、すっかり精神を消耗してしまうだろう。

 人数が多い上に定期的に休憩を取れるのはやはり大きい。装甲、索敵、火力を兼ね備えた戦艦の如き機能を発揮する行動隊形は、数を揃えない限り作れない。数は即ち力だ。


『探険マニュアル』では二〇〇七年現在、「影響圏」内における「遠距離」と「近距離」を「概ね百メートルを目安として分ける」としている。

 遠距離の前方警戒を担当していた黒尾は、薄く広く張り巡らした超能力の探知網に、大型自動車数台分ほどの大きさの生物の反応を検知した。

「前方およそ百六十メートルの位置に巨大生物!」

 先頭の工藤が立ち止まり、一行が停止した。

「黒尾、確認しろ。前原、ちょっと黒尾の担当を代われ」

 工藤は振り返って指示を飛ばした。

 休憩組に入っていた超能力者が「了解!」と返事をするのを確かめ、黒尾も「わかりました」と答えて確認に入る。

 薄く広く張り巡らせていた蜘蛛の巣のような超能力的警戒網を縮小し、それによって得た余力を反応があった地点に集束する。顕微鏡の視界のように狭く濃密な警戒網を一直線に投射していく。通常時は使わない「千里眼」をも駆使する本格的な探査だ。

 さながら幽体離脱でもしたかのように、前方へ向かって感覚を投射していく。程無くして気配の正体に辿り着いた。気配の主は、丁度黒尾達からは他のビルの陰になって見えない位置に潜んでいた。

 黒尾が感じ取ったのは、ビルの壁面にへばりついて道路を見下ろす、一匹の巨大な蜘蛛の気配だった。乗用車のような胴体に丸太のような脚が八本ついていて、褐色の体表には針金のような体毛が生えている。おぞましい顔には八つの不気味な複眼が輝き、顎の部分からは太く尖った太い牙が伸びている。

 大脚高蜘蛛(オオアシダカグモ)だ。その名の通り、かつてゴキブリを捕食する益虫として知られていた、アシダカグモの成れの果て。モノリス水などの影響を受けて巨大化しただけの芸のない変異生物だが、アシダカグモ自体が強大な能力を持つ生物であるため、単に蜘蛛が巨大化しただけにも関わらず、「影響圏」内の食物連鎖の上位に位置している。その戦闘力が極めて高い上、圏内各所に棲息していることから、普通の探険士が出会う可能性のある変異生物としては、トップクラスの危険度を持っている。

「オオアシダカグモ……」

 黒尾は舌打ちと共に呟き、探査を打ち切った。

 呟きを聞きつけた工藤が嫌な顔をした。

「げっ、アシダカかよ」

「マジかよ」

「なんでこんな日に限って……」

「なるほど、他の化け物共がいないわけだ」

 他の探険士達も口々に不平を鳴らす。

 もっとも、この場にオオアシダカグモを恐れている者はいない。ベテランの探険士にとっては、不意を打たれさえしなければ、オオアシダカグモ如きは決して恐ろしい相手ではない。油断せず当たれば負けることはまず考えられない。所詮、ただの蜘蛛だ。

 ベテラン達が問題としているのは、オオアシダカグモが鎧甲虫(ヨロイカブトムシ)やジョコウグモのような戦闘力を持っていることでなく、摂取した金属成分で甲殻を作るヨロイカブトムシや良質な糸を分泌するジョコウグモのような利用価値を持っていないことにある。倒しても弾丸と体力を浪費するだけで実入りがないのだ。

 工藤が黒尾に振り返った。

「黒尾よ、オオアシダカはどのくらいの奴で、どの辺にいるんだ」

「胴体が軽自動車くらいある奴が、あのビルのせいで見えませんが、道なりに進んだ途中のビルの壁にへばりついてます。下向いて攻撃準備してますから、多分、僕達に気づいて待ち伏せしてますよ。あの道路に出た瞬間、飛びかかられて誰かやられますよ」

「参ったな、畜生。あんなのがこの辺うろついてるんじゃ、危なっかしくていけねえ。しょうがねえからやっちまおう。おいお前ら、この先のアシダカをぶっ殺すぞ。作戦はシンプルに行くから、よく聞けよ」

 すぐに工藤が一同に作戦を説明し始めた。

手短に説明を終え、工藤は全員の顔を見回した。

「質問はあるか」

 全員が「ありません」と答えた。流石に元自衛官と言うだけあり、工藤の説明は疑問の余地のないほど明快で的確だった。

「なら、早速仕掛けるぞ……前進!」

 工藤が先頭に立って前進を再開した。


 工藤を先頭に道路を進んだ一行は、遠目にもはっきりとその姿を判別できるほどの大蜘蛛が、不気味な脚を目一杯に広げてビルに張り付いているのを目の当たりにした。毒々しい複眼でじっと道路を見下ろすその姿は、紛れもなく、道路を通りがかるであろう獲物を待ち構えている。蜘蛛特有の敏感さで黒尾達が歩く震動を感じ取っているのだ。

 彼我の距離は百メートルを切った。そろそろオオアシダカグモの攻撃圏に入る。あの蜘蛛はこの距離を一秒程度で詰めてしまう。

 工藤が手を振って一行に停止を命じた。おぞましい大蜘蛛はじっと黒尾達の接近を待っている。

 立ち止まった一行に振り返り、工藤が静かに命じる。

「手筈通りにな。超能力の連中は頑張ってくれよ。お前らが鍵なんだから」

 黒尾を始めとする超能力者達が一斉に頷いた。

 黒尾と、工藤の参謀格の内村と、警戒役の二人を除く五人が一歩前に進み出た。黒尾と内村は同行する超能力者の中で最優秀の部類に入るため、彼らの後に続く攻撃要員として待機だ。

「工藤さん、号令お願いします」

 超能力者の一人が工藤の方を見もせずに言った。その視線は、前方のビルの壁に張りつき、来るはずもない獲物をじっと待ち受ける蜘蛛の姿に向かっている。

「よし、じゃあ、行くぞ。三、二、一……行け!」

 工藤の号令と共に、超能力者達がオオアシダカグモに向かって「念力」を放った。不可視の網状の力場が何重にも蜘蛛を包み込んでいく。その様を超感覚的知覚で可視的に認識しながら、黒尾は攻撃に備えて精神を集中した。

 オオアシダカグモが驚いたようにもがき始めた。

 巨体に相応の物凄い力のようで、ともすれば「念力」の網は引き裂かれてしまいそうだった。だが、ぎりぎりのところで踏み止まっている。

 この分ならば大丈夫だろうと判断した黒尾は、攻撃の相方となる内村を見た。内村も同意見のようで頷いた。

「やりましょう、内村さん」

 黒尾は言い、内村が頷くのを見てから、押さえつけられてもがくオオアシダカグモを睨んだ。

「工藤さん、合図頼みます」

 攻撃のタイミングを合わせるための合図を内村が工藤に求めた。

「お前ら、いくぞ。三、二……」

 カウントダウンが始まった。

 黒尾は隣の内村が発する超能力の波動が圧縮され、高まっていくのを感じながら、自分の精神力を強く深く練り上げていった。

「一……いけ!」

 工藤の合図と共に、二人は溜めに溜めた超能力を解放した。自分を押さえつける「念力」に必死に抗っていた蜘蛛の周囲に、更なる「念力」の力場が二重に形成された。

 その力場はそれぞれが全く別個の流れを作り、蜘蛛の体に干渉するとと共に、他の流れにも干渉をし始めた。入り乱れる「念力」が、強引に流れを変えられ、互いに絡まりながら、オオアシダカグモを取り巻く一個の巨大で複雑な力の流れを形作っていく。

 急激に精神力が流れ出していく喪失感と疲労感に苛まれつつ、黒尾は必死で「念力」の維持に努めた。特に操作を加えずとも勝手に力同士が干渉し合って動いてくれる段階に入っていて、力の制御にまで気を遣う必要がないことがせめてもの救いだった。

 全員の「念力」を取り込んだ力の流れは次第に巨大なうねりへと変わっていき、遂には無秩序な渦動へと成り代わった。渦動はオオアシダカグモを巻き込んで速く激しく渦巻いていた。「念力」の暴走現象である「破壊渦動」が、多数の超能力者の協力によって意図的に引き起こされたのだ。

 超感覚的知覚によって超能力の動きを捉えられる者にとってその巨大な渦動は迫力に満ちた美しささえ感じるものだったが、渦動の内側では、地獄絵図の一言に尽きる悲惨な光景が展開されつつあった。

 支離滅裂な力の奔流に巻き込まれた大蜘蛛が散々に痛めつけられている。体が揺らぎ、歪み、ひしゃげ、痛々しく捻じ曲がっていく。丸太のような脚が関節でない部分からへし折れ、捻じられ、引き千切れる。中に人間が入りそうな大きな腹部が圧迫され、内臓と体液を撒き散らしながら潰れていく。背中が割れて脚がもげ、頭部が引き剥がされる。大蜘蛛の肉体が、揉み洗いされる洗濯物のように捏ね回されて、名状しがたい肉の塊へと変貌していく。

 黒尾は思わず目を背けてしまいそうになった。何度見ても慣れることのない光景だ。

 オオアシダカグモは、まるで見えない手に弄ばれるように、空中で破壊されていった。数分後には脚や頭部の残骸から、それがかつて蜘蛛であったのだと辛うじてわかる、ほとんど原形を留めない肉塊に成り果てていた。

 工藤がさっと手を上げた。

「攻撃止め!」

 号令に従い、超能力者達は一斉に「念力」の発動をやめた。

「念力」による支えを失った肉塊が万有引力の法則に従って落下し、トマトが潰れるような音を立てて地面にへばりついた。

 工藤は満足気に頷いた。

「これでこの辺はしばらく安全だな。あいつが案山子代わりになるから、他のろくでもねえのもしばらく寄りつかねえだろ」

 強力な変異生物の死骸は、しばしば、他の生物に対する案山子として作用する。血の滴るような無惨な死骸の存在は、より強力な生物の存在を周囲に示す。少なくとも、あの死骸が垂れ流す体液が乾ききるまでは、この辺りは一応の安全地帯となる。寄ってくるのは下等な死肉漁り(スカベンジャー)くらいだ。

 上機嫌に工藤が続ける。

「超能力組はご苦労さん。疲れちまったようならここらで小休止といくが、どうする」

 工藤パーティの参謀役であると同時にこの「相乗り」一行の参謀役にも収まっている内村が、静かに首を振った。

「いえ、工藤さん。見たところ、休憩が必要なほど疲れている仲間はいません。ここは少しでも距離を稼ぐべきかと」

「そうか。他の奴もそれでいいのか」

 工藤が顎鬚を撫でながら他の面子に問いかけた。

 答えは頷きだった。黒尾も無論頷いた。まだまだ余力があるから、進める内に進んでおきたい。

「ようし、なら前進だ。元の通りに隊形組んで、出発しろ!」

 工藤は一行を並ばせ、先頭に立って歩き始めた。黒尾は他の仲間達と一緒に、後続に安心感を与える大きな背中に続いた。


 途中で何度か小休止を取りながら、一行は薬師通りを進んでいった。

 二時間ほど進んだ頃、五十メートルほど先に黒沢交差点が見えてきた。一体何があったのか、全ての信号機が途中で折れ曲がり、中央に向かって稲穂のように頭を垂れているのが印象的な場所だ。

 幸いにもここまでの道中はほとんど順風満帆と言ってよかった。凶悪犯罪者加納正憲に率いられた恐るべき「(しゅ)の革命軍」の種革兵(しゅかくへい)にも出くわさなかったし、超能力現象にも見舞われなかった。変異生物や精神生命体などの危険生物にもほとんど遭わずに済んだ。こちらの数が多かったからか、ほとんどの危険生物は敢えて近づいて来ようとはしなかった。敢えて彼らの前に立ちはだかったのは、あの頭の悪いオオアシダカグモだけだった。

 しかし、順調な旅路もここまでのようだった。

 超能力者達が前方の異変に気づいた。いち早く超能力的揺らぎを察知し、黒尾は先頭を行く工藤に鋭い声で警告した。

「前方で『現象』!」

「全員停まれ!」と口と手振りの両方で一行に命じて、工藤が黒尾を見た。「場所と種類は?」

 問われると同時に黒尾は「千里眼」による確認を試みた。目を閉じ、超能力現象の波動を頼りに視覚を飛ばす。道路の中央付近に乗用車一台を埋めてしまえそうな窪みが出来ているのが見えた。場所は黒沢交差点を右折して十メートルほど進んだ地点だ。

 これだけわかれば十分だ。黒尾は「千里眼」を解除し、工藤に報告した。

「場所は黒沢交差点の右折側、種類は異常念動の『圧力』みたいです」

「このまま行けそうか」

「それは――あ、反応がなくなりました! 短期型だったみたいです。多分、もう安全です」と黒尾は請け合った。

「全員聞いたな。このまま進むぞ!」

 工藤は再び先頭に立って黒沢交差点へと向かった。

 黒沢交差点に進入した後、黒尾は何気なく右折方向に視線を走らせた。

 本来進むはずだった方向には、巨大な窪みが見える。交差点から大体十メートルほど進んだ辺りが、非常に強い力で押し潰されて大きく陥没している。「圧力」と呼ばれる種類の異常念動の爪痕に他ならない。自衛隊の装甲車ですら紙細工のように押し潰してしまう超高圧に耐えきれず、地面が大きく陥没したのだ。

 自分が元々そこを通るつもりでいたことを思い、またそこがこの「相乗り」集団の移動経路の近くであることを思い、黒尾はぞっとした。経路を変更していなかったら、丁度自分達がそこを通ろうとしたその瞬間に「プレス機」の餌食にされていたかもしれないのだ。或いは、もっと深刻で危険な超能力現象に巻き込まれることになっていたかもしれない。現にこうして「圧力」が発生したということは、この時期にこの近辺で超能力現象が発生するように、既に条件が整っていたということに他ならないのだから。

 近づいてきた工藤が「圧力」の爪痕を眺めながら豪快に笑った。

「いやあ、おっかねえなあ、こいつは。あんなのに巻き込まれたら一発で伸し烏賊だ。お互い、命拾いしたな。ああ、おっかねえおっかねえ」と一頻り笑うと、山賊のような髭に覆われた顎をしゃくった。「さっさと余所行ってここから離れようや。またいつ『現象』が起こるかわからん」


 黒沢を通過し、「相乗り」集団は順調に進んでいった。黒沢までと同様、順風満帆な道程だった。種革兵は勿論、強力な危険生物にも出会わず、深刻な超能力現象にもぶつからなかった。彼らの行く手を遮るものは何もなかった。

 そうして合間合間に小休止を取りつつ三時間ばかり進んだ頃、一行は川端まであと百メートルほどの地点に差しかかりつつあった。

 川端は、これといった特徴のない、「影響圏」内のあちらこちらで見られるようなありふれた分かれ道だ。直進すれば「影響圏」の奥へと、脇道に入れば南東部、即ち田無方面へと、それぞれ向かうことができる。

 時刻は午後七時頃。「外」では夜だが、八時間の時差があるため、「中」は昼時のように明るい。モノリスは、太陽のように眩く、それでいて熱のない輝きを境界壁の内側に振り撒いている。

 モノリス時間で言えば今こそが「昼」だ。日によって数十分から一時間程度の誤差はあるが、概ね二十四時間周期で明滅するモノリスの光は、「外」の午後八時頃に最大光度となり、「外」の昼と遜色のない明るさとなる。つまり、「中」は午後八時に「正午」を迎える。

 もっとも、最大光度だの「正午」だのと言っても、「影響圏」の太陽たるモノリスが放つ光そのものは本家の太陽に遠く及ばない。「海苔」の天井を支える非常識なまでに巨大な黒柱が放つ光の量は、科学的測定とそれに基づく科学的検証によれば、「影響圏」全体を照らし得るだけのものではない。角度的にも同様だ。残存した建造物や土地の高低差の関係で、どうしても光の届かない部分がある。

 しかし、それにも関わらず、いかなる超能力的作用によるものか、世界全てを遍く照らす阿弥陀の無辺光の如く、モノリスの光は「影響圏」を満遍なく照らしている。通常の光の性質に基づいて考えれば到底照らせるはずのない場所も含めて。

 学者達はこの謎に深い関心を向けているが、探険士達にとってはどうでもいいことだ。一般人の多くが太陽のメカニズムに無関心であるように、探険士達の多くもモノリスの発光原理にさしたる関心を持っていない。彼らにとって重要なのは、現在時刻と現在位置、そして光量だ。

 黒尾は明るくなった視界の中に、目的地である川端分岐を見つけようと前方を眺めた。朧に見えてきた。崩れかけたビル群に引き裂かれるようにして、ボロボロの舗装路が二股に分かれているのが見える。

 一方は北への直進路。もう一方は東への右折路。一歩ごとに別れが近づいている。

 分岐の少し手前で工藤が立ち止まり、黒尾と岩井を見た。

「お前らはここまでだな。ご苦労さん、おかげでかなり楽できた」

 黒尾達の「相乗り」はここで終わる。この先の分岐を工藤達は真っ直ぐ進み、黒尾達は右に曲がる。

「こちらこそ、『相乗り』させて貰えて助かりました」

「それじゃ、ここらで大休止といくか。平気そうな顔してるが、なんだかんだで結構疲れたろう。なんならちょっと長めに休ませてやるぞ」

「長めにですか、そうですね……」と少し考えた後、厚意に甘えることにした。「お言葉に甘えさせていただきます」

 休める時に休めるだけ休むのは探険士の基本だ。人事を尽くさなければ何も果たせず、人事を尽くしてもしばしば何も果たせずに終わる。「影響圏」とはそういう場所だ。

「おい、大休止四十分だ!」と工藤は指示を飛ばし始めた。「まずは全員で安全確認だ。それが終わったら……お前ら四人は見張りに立ってろ。二十分経ったらそこのお前らと交代だ。それから……そっちのお前らは便所掘り。二つも掘っとけば十分だろう。残りは飯と休憩だ」そして黒尾と岩井に向き直り、「お前らは約束通り、ずっと休んでていい」と告げた。

 黒尾と岩井は礼を言ってその言葉に甘えた。

 一行は工藤の指揮下、手分けして周辺の危険生物や超能力現象の有無を探り、地中の脅威の有無を調べた。五分ほどの探査の結果、安全が確認された。

 黒尾と岩井は早速、他の休憩組と共に背嚢を地面に置き、断熱布を取り出した。背もたれ代わりになる大きめの瓦礫の前に断熱布を敷いて腰を下ろし、大休止時に済ませておくべき作業を始める。

 まずはタクティカルベストに収納してある小水筒の中身の確認と補充。移動中にちょくちょく飲んでいたから中身が大分減っている。水は命の源だ。水筒の中は常に満たしておかなければならない。背嚢から五リットル入りの水容器を取り出し、慎重な手つきで中身を補充する。

 続いて衣服や背嚢への嫌忌剤の塗布。スプレー式の嫌忌剤を吹き付け、変異小動物の接近を阻む。効力が切れる前に定期的にやっておかないと、変異蟲がたかってきたり、荷物に潜り込んできたりして、酷い目に遭う。ズボンの裾から入ってきた変異百足によって男性機能を喪った探険士の伝説は有名だ。探協の講習で必ず一度は聞かされるから、探険士で知らない者はまずいない。

 それが終わったら次はマッサージとストレッチ。何しろ、重い荷物を背負って長い時間歩き続けたのだ。体中の筋肉が悲鳴を上げている。精々労わってやらなければならない。手や足の筋肉を重点的に揉み、腰や頸の関節を重点的に解す。

 更にその他探険用具の簡単な点検を終えたところで、ようやく食事の時間だ。

 ただし、食事と言っても大したものではない。サバイバルゼリーと総称されるお世辞にも美味とは言えないゼリー飲料型携行食料。ストレスの軽減と人間らしさの維持、そして消化機能の衰え防止のために各自で持ち込むことが奨励されている嗜好品。そして「影響圏」ではある意味最高の贅沢品と言える清潔な真水。一般的な探険士の昼食の献立は以上だ。士気を維持するために温食を摂る場合もあるが、それは基本的に「夕食」時、それも二日に一遍程度だ。

 三百グラムで成人の一日の栄養所要量を満たすことができるサバイバルゼリーの百グラムパックを飲み干す。続いて百円玉大程度に刻んだビーフジャーキーを二切れ口に放り込んでじっくりと味わう。最後に水を二口飲んで口内を清める。これで今日の「昼食」はお終いだ。五分もかからない、味気ない食事だ。

 食事が終わったらようやく本格的な休憩となる。

「影響圏」内で有効な休息を取るのは様々な事情から難しい。単に筋肉の疲れを癒すだけでは済まない超能力者の場合は尚更だ。思考力、判断力、知力、気力、集中力といった精神的諸力の集合である精神力を消耗して超能力を発動する彼らの場合は、心休まる時など訪れるはずもないこの魔界で、肉体だけでなく、その休まるはずもない心を休ませなければならない。

 超能力者がこのような状況で休息を取るには、心が安らぐのを待つのではなく、自ら積極的に心を落ち着かせ、強制的に休ませてやる以外に手はない。そのための方法は四つある。

 一つは睡眠、一つは薬物、一つは精神力回復剤、一つは瞑想。

 そう気軽に眠れるものではないし、かと言って、睡眠薬や麻薬は多用による心身への悪影響が怖い。さりとて、一々精神活性化剤や精神力結晶を使うのは流石に勿体無い。だから黒尾は、専ら四つ目を選ぶ。擬似的な瞑想状態、軽度の催眠状態に自らの意識を落とし込み、精神の活動を最低限に留めることによって、強制的に休ませるのだ。

 黒尾は防寒用のポンチョを被って膝を抱え、瓦礫に背を預けた。警戒を完全に解き、脱力し、瞑目し、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。感覚を外界の刺激から切り離し、心を落ち着かせ、思考を空白にし、意識それ自体を沈め、休ませていく。


 誰かに肩を揺すられた。

 そう感じた瞬間には、黒尾の意識は安らかな瞑想世界から厳しい現実世界に帰還していた。

 一瞬で目を覚まし、反射的に身を起こした。周囲の安全確認をしようとしたところで、屈み込んでこちらを見ている岩井に気づく。

「あと五分だ」岩井が静かに告げた。「どうだ、疲れは取れたか」

「もうそんな時間ですか……はい、そりゃあもう。これだけ長く休ませて貰ったんですからね」

 立ち上がり、断熱布とポンチョを背嚢にしまい込みながら答えた。

「そいつは何よりだ。片付けが終わったら、小便を済ませろ。ついでに糞もしとくか」

「今は出そうにないんで、小の方だけでいいです」

 黒尾は岩井と共に、「相乗り」仲間達が作った便所に向かった。

 便所は一行の休憩場所から少し離れた場所、かつて花壇か何かがあったのだと思われる、土が剥き出しになった道路脇の所にある。一メートル程度の間隔を置いて並んだ、幼児を簡単に生き埋めにできそうな二つの穴がそれだ。片方はもう埋められている。あとは黒尾だけらしい。

 探険士も人間だ。食事や排泄と無縁でいられるはずもない。食べなければ死ぬし、入れたならば出さなければならない。彼らにとって排泄は、食事と並んで重要であると同時に食事以上に危険な行為だ。

 なぜならば、生物にとって必要欠くべからざるこの行為は、「影響圏」内においては非常な困難を伴う。まず「影響圏」内に便所などという気の利いた代物があるわけもない。だから自力で用意しなければならない。更に排泄中は無防備になる。だからなるべく早く済ませなければならない。また、その間、誰かに周囲を見張っていて貰うのが望ましい。糞尿は強い臭いを発してその落とし主の存在を誇示する。だから事が済んだら直ちに消臭剤をかけるなどしてから排泄物を埋め、速やかにその場を離れなければならない。

 このように問題は山積みであり、それゆえ、この生理的に不可欠な行為は、予想外の壁となって探険士の前に立ちはだかる。

 そしてこの内、特に大きな壁となるのが、「手早く済ませる」ことと「見張っていて貰う」ことだ。

 前者は主に体質に、後者は主に性格に、それぞれ大きく左右される。便秘体質の者に速やかな排便は望めないし、神経質な者や羞恥心の強い者に人前での用便は難しい。しかもこれらは体質や性格という生来の性質によって決まるものであるため、克服は至難と言える。

 そのため、少なくない数の探険士志望者――少数の男と多数の女――が、折角体力と精神力の試練を乗り越えたのにも関わらず、この体育会系の宴会芸を思わせる壁を乗り越えられずに「影響圏」を去る破目になる。

 だが黒尾と岩井はいくつもの試練を乗り越えてここに立っている「一人前」だ。今更「影響圏」内での排泄を苦にするはずもない。

 なんの気負いも躊躇いもない、ごく自然な態度で股間のチャックを下ろして中身を放り出し、「相乗り」仲間達が掘った穴に狙いを定めて小便を済ませ、仮設便所の最後の利用者としての責任を果たす。スプレー式の消臭剤を振りかけ、穴を掘った者達がすぐ横に盛っておいた土を穴に蹴り落とし、軽く踏み固める。

 穴を埋めて戻ると、「ちゃんと埋めてきたよな」と工藤が真顔で確認してきた。

 無理もない。もし臭いが広がるようなことがあれば、それを嗅ぎつけた変異生物の群れが大挙して押し寄せ、しばらくの間――もし群れが定住するようなことでもあれば半永久的に――この経路が使用不能になる可能性があるのだ。そうする余裕がある時は忘れずに処理しておかねばならない。

 黒尾は「きちんと埋めましたよ」と頷いた。

「そうか。ならいいんだ。じゃあ、お前らとはここでお別れだな。十日くらいしたらまたここ通る予定だから、お前らの帰りがそのくらいになるんだったら、またここで合流できるんだがな……」

「残念ですが、僕達は長くても二、三日で帰るので……」

「そうなんだよな、残念だ……今度会う時は『外』だな。それまで死ぬんじゃねえぞ」

「工藤さん達こそ、お気をつけて」

「はっ、若造が、誰に物言ってやがる。十年早ェよ」

 工藤は不敵な笑みを返した。


 ごく簡単に別れの挨拶を済ませた工藤達と黒尾達は、『相乗り』を解散し、それぞれの目的地へと歩を進めた。

 工藤達は北上していき、黒尾達は東進していく。

 互いに後ろは振り返らない。

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