第二章 採用試験
二〇〇七年二月十五日木曜日。
朝の九時頃、黒尾司郎は神影駅に降り立った。
黒尾は体の前後と両上腕部に○で囲んだ「探」の字が描かれた女工蜘蛛繊維製の都市型迷彩戦闘服と防寒用のフィールドジャケットを着込み、軍用の半長靴を履いている。
背には軍人や登山者、旅行者以外では探険士くらいしか使う者がいないであろう、大きな背嚢を負っている。中には銃やナイフといった武器類に始まり、ボディアーマーやタクティカルベスト、ヘルメット、それから着替え等の被服類、無線機、銃の整備器具、方位磁石や地図など、探険七つ道具が詰まっている。
無論、いくら探険士とは言え、普通はこんな格好で出歩いたりはしない。今日は特別だ。ITOからの通知に装備一式を持参せよとあったので、仕事用の格好、所謂「探険士の正装」で家を出たのだ。
駅を出てすぐの所で、黒尾は一旦立ち止まった。
視線の先には真北に鎮座するモノリス影響圏の威容があった。相模原市と横浜市の間を繋ぐ大都市であった御門市のほぼ全域を取り込んで君臨する、高さが五千メートルほどにもなる馬鹿馬鹿しいほどに巨大な黒い塊は、かつてある代議士がモノリス出現直後に評した通り「こんな風に遠くから眺めると、馬鹿みたいにでっかい軍艦巻きみたいに」見えた。
神影市はほぼ全域が「影響圏」に取り込まれた御門市に隣接している。そのため、神影市からは、面積的には神奈川県のおよそ三分の一に相当する巨大政令指定都市を呑み込んだ「影響圏」が特によく見える。
「影響圏」から視線を外した黒尾は、やはりここは普通の町ではない、と思いながら改めて辺りを見回した。
余所者が最初に降り立つ場所である駅前は、ある意味、町の顔とも言える。そこを見ればその町の大まかな傾向が見えてくる。
神影駅前を眺めれば、銃砲店や探険用品店といった探険士向けの商店や、影響圏産出物を原料とする薬品を扱う薬局、影響圏産出物を食材とする料理を出す料理店のような、探険士街ならではの店舗が立ち並んでいるのが見える。
勿論そういった店だけではない。「当店で一万円以上お買い上げのお客様には漏れなく系列店と市山射撃場でご利用いただける割引券をお付けします!」と張り紙してある銃砲店や「今当店で戦闘服二着以上お買い上げの方に限り、会計一割引!」と張り紙してある探険用被服店などに混じって、一般向けの商品も扱う大型百貨店や大手銀行の支店の姿も見える。
行き交う人波に目を向ければ、そこでは黒尾と同様に――中には黒尾以上に――物々しい格好をした老若男女が当たり前のような顔をして行き来している。この場の四人に一人くらいが探険士だろうかと思われた。探険士の町でなかったらどこかの紛争地帯かゲリラの勢力圏だ。
しかも異常はこれだけに留まらない。通行人の数パーセントが変異者だ。角や翼や鱗など人間には本来存在しない器官を持った人間。目や口、腕などの器官の数が人間が本来具えている数よりも多い或いは少ない人間。そしてそれらの複合。そういう人々がごく自然に歩いている。
数パーセントとは言え、外見的にはっきりと判別可能なほどに変異した乙種以上の変異者だけでこの割合というのは、他の都市とは比べ物にならないほどに高い比率だ。異形の姿と発達した身体機能を持つ圧倒的少数者であり、「脅威」、「異物」として社会から排斥され、攻撃される傾向にある彼らが、割合的にも絶対数的にも、これだけの人数で堂々と街を歩いているのは珍しい。いかにこの町が特殊であるかが端的に窺い知れる。
右に左に行き交う人の波を眺めながら、黒尾はまるで外国――或いは異世界――を訪れたような気分になっていた。ここを訪れるたび、ここが本当に日本であるのかどうか、どうにも疑問に思ってしまう。ここは「ここ以外の場所」とあまりにも違いすぎる。
しかし、黒尾も駆け出しではない。見慣れた街並みの雰囲気に呑まれはしない。静かに歩き出し、異様な通行人の一人となった。
駅を出た後、黒尾は、まずITOが宿泊所として用意してくれた「神影ホワイトパレスホテル」に向かい、チェックインと荷物の搬入を済ませた。
もっとも、何もかもを置いて身一つになったわけではない。荷物に関しては、毛布、水筒、着替えといった装備類を置いてきただけで、管理上の規則に従い、武器類はしっかりと携帯する。武器は可能な限り手元に置いておかなければならない。日常用の小背嚢に書類などと一緒に拳銃とナイフと弾薬を入れて持っていく。
合格通知に同封されていた地図を片手に企業や研究施設や工場などが建ち並ぶ大通りを十五分ほど歩いていくと、試験会場として指定された岩坂会館に到着した。
黒尾は案内図を一瞥して六階の「第二研修室」の場所を確認し、エレベーターに乗り込んだ。試験の内容のことや他の受験者のことなどを考えながら、六階に着くのを待つ。
六階に着き、扉が開いた。
先程見た案内図によると、第二研修室はエレベーターを出て少し歩いた所にあるはずだった。記憶の中の案内図に従って歩いていくと、それらしき扉が見えてきた。
扉の傍には○で囲んだ「探」の字とITOの標章とが印字された戦闘服を着た男が立っていた。年齢は二十五、六歳くらいに見える。彼は首から社員証らしき白い札を下げ、左腕に緑色の腕章を着用しているが、やや距離があるせいで、何が書いてあるかは読めない。「千里眼」か「望遠」辺りを使えば読めるだろうがそこまでする気はない。もう少し近づけば見えるのにわざわざ精神力を空費するのも馬鹿らしい。
「受験者の方ですか」
黒尾が近づいていくと、男は人当たりの良い表情を浮かべて会釈し、問いかけてきた。腕章を見ると「採用試験係」とあった。
「そうです」
「私は探険部人事課の亀井と申します。よろしくお願いします。探険士免許証と受験票、それと一次試験合格通知を見せてください」
黒尾は指示に従い、要求された物を差し出した。
「お預かりします」と言って受け取った亀井はざっと目を通すと小さく頷き、「受験番号六十七番の黒尾司郎さんですね」と確認してきた。
「はい、黒尾です」
亀井はバインダーに挟まった受験者名簿か何かだと思われる書類に何事かを書きつけると、「お返しします」と書類を返し、席順についての説明を始めた。
「席は最前列左端から一席ずつ空けて受験番号順となっています。机に番号を書いた紙が貼ってありますから、自分の番号を確認してお掛けください。番号が見つからないなど、何か問題があった場合は、あちらの氷室か私に声をかけてください。ではどうぞ」
亀井が扉を静かに開けた。
黒尾は入室する前に中を確認した。
第二研修室は平均的な公立中学校の教室より少し狭いくらいの部屋で、椅子が五脚並んだ長机が左右一台ずつ、前後四列並んでおり、前方には壇と教卓風の机があった。
第一列に左右三人ずつ、第二列の右側に三人、第三列に一人、第四列に十人の計二十人が着席していた。
この内、受験者は第一列と第二列の九人だろう。男が七人、女が二人。年齢はばらばらで上は四十歳代に見える者もいたが、共通している点が一つだけあった。黒尾よりも年長に見える点だ。おそらく誰もがそれなりに経験を積んだ熟練者なのだろう。皆、準一級以上で、三等以上だ。流石に一級はいないようだが、二等や一等はいてもおかしくはない。
第三列と第四列には戦闘服姿の男女十一人がおり、第三列に男が一人、第四列に男女十人が腰掛けていた。第三列に一人で座っているのが件の「氷室」氏だろう。
彼らの色取り取りの戦闘服の上下には、亀井と同様に、○で囲んだ「探」の字とITOの標章とが、遠目にもはっきりとわかるほど大きく印字されていた。黒尾も採用されたら戦闘服にあの標章を入れることになるのだ。
探険士達の内、第四列に腰掛けている者達は、よく見ると、胸元に番号の入った札を付けており、その番号は受験者達の受験番号と一致していた。また、その人数を男女別に数えてみると、男が八人、女が二人。受験者達と同じ人数、同じ男女比だ。
あからさまな符合だった。要するに、彼らはそれぞれの番号の受験者の担当者なのだろう、と黒尾は推測した。
黒尾は値踏みするように彼を見る第三列と第四列に会釈しつつ、部屋に一歩足を踏み入れた。
席を探そうと視線を研修室前方に向けた途端、黒尾は立ち竦んでしまった。
受験者九人のほとんどが闖入者に探るような視線を向けてきていた。全国から選抜された精鋭達と言うだけあり、その視線からは凄まじい圧力が感じられる。ただ様子を窺ってきているだけなのだろうに、まるで監視でもされているかのような圧迫感だ。黒尾の被害妄想かもしれないが、全員が「お前は場違いだ、今すぐに帰れ」と無言で訴えかけてきているようですらあった。隣に武智がいないことが心細くてならなかった。
それでも、と黒尾は弱気を振り払った。自分も厳しい選抜を潜り抜けてこの場に辿り着いたことに変わりはない。探るような視線を向ける恐ろしい受験者達と同じ立場だ。あちらにこちらを値踏みする権利があるのならば、こちらにもあちらを値踏みする権利がある。
まずは状況を把握し、分析する。何事もそれが基本だ。黒尾は何度か瞑目した後、室内を見渡した。
室内には黒尾達を含めて十人の受験者がいる。
受験者の人数を見て、黒尾は募集要項の内容を思い出した。採用予定人数は確か「十名程度」とあった。
そしてここにいる受験者は黒尾達を含めて、男が八人、女が二人の計十人。ITOは書類選考の段階でほぼ採用予定者を絞り込む、と聞いたことがある。書類選考が周囲より優れた者を選抜する相対評価の試験であったのに対し、実技試験は全員合格も有り得る絶対評価の試験なのだろう。
黒尾は安堵と共に独り頷いた。この恐ろしい受験者達は、限られた採用枠を奪い合う競合者ではない。つまり、明らかに自分よりも優れた探険士である彼らと対決する必要はないのだ。
「どうしました。何か問題でも……」
背後から亀井が怪訝そうに声をかけてきた。
「……いえ、なんでもありません」
振り返った黒尾は小さく首を振り、自分の席を探しに進んだ。
黒尾の席は後列の右端のようだ。確認してみると「67」とあった。黒尾の席は確かにここだ。前と通路を挟んで左に座っている受験者に会釈して席に着く。
扉を閉めた亀井が第三列の男に近づき、名簿らしき書類を渡して何事かを告げた。書類を受け取った男が立ち上がり、壇上へと進み出た。男は彼に注目する受験生達を、観察するように眺め回した。
「受験者の皆様、私は探険部人事課長の氷室と申します。本採用試験の責任者を務めさせていただいております。よろしくお願いします」
言って氷室は深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」という声が上がったが、それは一斉に上がったものではなく、それぞれが勝手に上げた雑然としたものだった。黒尾も「よろしくお願いします」と言ったが、呟き程度の声だったので、周囲のざわめきに呑み込まれてしまった。
氷室は一同を見回した。
「説明開始は事前にお伝えした日程では十一時からとなっておりますが、皆様お揃いのようですので、皆様さえよろしければ、予定を前倒しにして早速開始させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。不都合であるという方がおられたら、挙手をお願いします」
誰の手も上がらなかった。
「では、只今より説明開始とさせていただきます。まずは私と各試験官の紹介から行ないたいと思います」
氷室がそう言うと、最後列に座っていた探険士達が前に出て整列した。
氷室は改めて名乗った後、並んだ探険士達を一人ずつ紹介していった。彼らは黒尾の推測通り、対応する番号の受験者を担当する試験官だった。ただ、無事に入社を果たした後も、彼らが引き続き担当した受験者の教育指導を担当すると言われたのは予想外だった。
黒尾の担当者として紹介されたのは、三十歳代後半くらいに見える、厳つい顔に気難しげな表情を貼りつかせた男だった。名前は岩井賢悟、探険士としての階級は準一級二等とのことだった。
紹介が終わると、氷室は次の説明に進んだ。
「続きましては、実施要領を纏めた書類を各自に一部ずつ配布しますので、以後の説明はそれをご覧いただきながら行ないます」
氷室が亀井に声をかけると、茶封筒を持った亀井が頷き、受験生一人一人の席を回って書類を配布した。書類は三枚のプリントをホチキス留めにしただけの簡素な物だった。
「お手元の書類をご確認ください。三枚組となっておりますが、抜けや乱丁、汚れ等の不具合がある方は挙手をお願いします……不具合はない、ということで進めさせていただきます。では、説明を開始しますので、一ページをご覧ください」
氷室は事務的に説明を続けていった。
その内容は概ね次のようなものだった。
課題。課題は各受験者に異なったものを割り振る。誰にどの課題を割り当てるかは籤引きで決定する。課題内容は多岐に亘るため、各自の適性によって難度に差が出ることが予想されるが、ITOが所属探険士に要求する最低限度の実力に合わせて設定しているため、抗議は受けつけない。
課題実施要領。達成期限は二月二十八日正午。それまでに課題達成報告書が提出されない場合、自動的に課題達成失敗と見做す。ただし、課題の中で特に期限が設けられている場合はそちらを優先して適用する。受験者はそれぞれの試験官と行動を共にし、課題達成を目指す。
禁止事項。助力の程度が一般的な範囲に収まる場合を除き、試験官を含む他者からの直接的な手助けを受けること及び他の受験者を手助けすること。試験官、ITO、公的機関からの合法的な指示への不服従。法的・倫理的に問題のある行為。以上の行為が試験官もしくはITOに確認され次第、当該受験者を失格とする。ただし、不可抗力及び試験官の指示または許可等による場合は除く。受験者による判断が難しい場合は事前または事後に試験官が注意する。事後に注意がなされた場合は、その際の違反に罰則は科さない。ただし、不可抗力や試験官等の指示以外の理由で同様の違反が重なった場合やその違反が明確な違法・不法行為であった場合は、その限りではない。なお、必要に応じて、試験終了後に精神感応を利用して不正の有無を確認する場合がある。
合否判定。課題達成の成否は選考において重視するが、それのみが基準ではない。結果が次の結果に至る過程であり、過程がいくつもの結果の積み重ねである以上、「いかにしてそれを成そうとしたか」も評価の対象とし、総合的観点から、受験者がITOの探険士に相応しい人物であるか否かを判断する。
説明を終え、氷室はもう一度一同を見回した。
「ここまでで何かご不明な点等があれば、ご遠慮なさらずにご質問ください」
質問の声はなかった。
氷室は片手を上げて合図した。亀井が卓上にティッシュの空き箱を置いた。
説明が再開された。
「皆様の課題を決定する籤はこの中に入っております。籤は一番から十番までを用意しました。皆様には対応する番号の課題を達成していただきます。受験番号の若い方から順にこちらの箱から籤を引いていただくことになります。混雑防止のため、籤の数字の確認が済み次第、席に戻ってお待ちください。課題内容の公開は、受験者間の公正を期すため、試験開始後一斉に行うこととします。さて、ここまでで何かご不明の点はありますでしょうか。おありの方は挙手をお願いします……おられませんね。では、ただ今から、課題決定の籤引きを開始させていただきます。なお、不正防止及び時間短縮のため、各自箱に手を入れてから十秒以内に籤を引いていただくようお願いします。これを超えた場合は不正の可能性有りとして失格とさせていただく場合もありますので時間厳守をお願いします。それでは、受験番号六番の田辺さんから、どうぞ」
返事をして田辺が立ち上がった。卓上の箱に近づき、無造作に中身を掴み出した。
「確認させていただきます」と言って折り畳まれた紙切れを受け取った氷室は、中を開いて受験者一同に見せ、大きな声で「三番!」と番号を読み上げた。
田辺の受験番号と同じ六番の札を付けた試験官が、表に「3」と書かれた茶封筒を手に取った。
田辺が席に戻り始めると同時に、氷室が次の受験者を呼んだ。
そうして受験者達が一人ずつ呼ばれて籤を引き、それぞれの課題を決定していく中、遂に黒尾の番がやってきた。もっとも、この時点で籤は残り一つだ。引くまでもなく結果はわかっている。最後まで残った不吉な四番だ。
これは引かなくてもよいのではないか、と黒尾は思ったのだが、そういうわけにはいかないらしかった。氷室が「そういう決まりだから早くしろ」とでも言うかのような態度で黙って促した。
かくして黒尾は結果のわかりきった籤を引き、予想と言うよりは予定通りの「四番!」という声を聞いて席に戻った。
「全員の課題が決定しましたので、ただ今より、ITO探険士採用二次試験を開始致します」
黒尾が着席したところで、氷室が咳払いをして一同に告げた。言い終えると、その言葉と共に受験者とその担当者達が一斉に動き出すのを尻目に、研修室を出ていく。
氷室の後ろ姿に一瞥をくれた後、岩井が近づいてきた。
岩井は都市型迷彩の戦闘服を着た筋骨逞しい男だ。武智ほどではないが、かなり大柄だ。超能力者特有の雰囲気が伝わってこないから、十中八九、武智と同様、己の肉体と装備のみを頼りに活動するタイプの探険士だろう。
岩井は軽く手を振った。
「よろしくな……黒尾くんと言ったか」
「はい、黒尾司郎です。よろしくお願いします、岩井さん」
「こちらこそよろしく頼む。さて、黒尾くん。君にとっては時間は多いほどいいだろう。挨拶はこれくらいにして、早速課題の話をしようじゃないか。歩きながらと座りながら、どっちがいい。今年の志望者は半々くらいに分かれるみたいだが」
言われて周囲を見ると、確かにそのようだった。適当な椅子に腰を下ろしている組と部屋から出ていこうとしている組とに全体が分かれつつある。
黒尾は前者の組に入ることにした。
「座りながらでお願いします」
岩井は手近な椅子に腰を下ろし、「課題だ」と封筒を差し出してきた。
開封すると写真三枚と書類一枚が出てきた。
一枚目の写真は、苔や蔦に覆われ、すっかり荒れ果ててしまったビルを仰角で撮影した物だった。背景が真っ黒であることから、撮影場所は「影響圏」の内側だろうと思われた。「影響圏」の「中」と「外」を隔てる境界面は光を完全吸収するため真っ黒に見え、その外見とある議員の発言から、俗に「海苔」などと呼ばれている。
二枚目の写真は同じ建物の内部を撮影した物らしかった。「302」と表示された錆びついて一部が崩れた金属扉が写っていた。一枚目の写真の建物のこの部屋を目指せということなのだろう。
三枚目の写真には、荒れ放題の廃墟めいた部屋にフリスビー程度の大きさのメダルが安置されているのが写っていた。メダルにはITOの社章がでかでかと刻印されていた。
同封されていた書類の簡潔な文章によれば、黒尾に与えられた課題は、写真に写っているメダルの捜索と回収だった。他二枚の写真に写っている建物を捜し出し、内部に安置してあるメダルを持ち帰れと言うのだ。
神奈川県のおよそ三分の一を占める「影響圏」で捜し物をさせられるのに、与えられた情報はたったのこれだけなのだ。これには流石にげんなりせずにいられなかった。
「ヒント、本当にこれだけなんですか」
心の中で誰かもわからない出題者を罵りながら、岩井に問いかけた。
岩井は「そうだ」と頷いただけで、それ以上の情報を与えてくれなかった。
やはりそういうことなのだ、と黒尾は嘆息した。ITOはこれだけの手掛かりがあれば後は自力で捜し出せる――捜し出せるようでなければならないと考えている。
「しかも二人だけで行くんですか」
自衛隊を含む各国軍は、大量の血で買い取った戦訓から、「影響圏」内にある市街地での作戦行動には最低一個小隊程度から最大一個中隊程度が適当であり、行動自体は必ず二人一組――生存の最低条件――以上であるべきだとしている。
そして探険士業界では、あまり大人数で活動すると圏内の環境に悪影響が出るとの理由から、二人以上三十人以下での行動を推奨している。モノリス管理局が定める規定も探険士達の見解を踏襲し、同一パーティ所属者が同時に三十一人以上圏内に進入することを禁じている。企業の場合であっても、一企業につき同時に六十人までしか派遣できない。特別料金を払って枠を買ったとしても、百人が限度だ。
だから、黒尾も武智とのコンビを基幹にして、状況に応じて臨時にパーティを増やし、最低でも三、四人程度での行動を心掛けていた。
それなのにITOは、たった二人であの地獄に挑めと命じている。正気の沙汰ではない。
「思ってたより厳しいだろ」
岩井は見透かしたような笑みを浮かべた。
「ええ、まあ……」
「俺もそうだった。俺の時は――八年近く前だな――『中』の十ヶ所の水質調査だった。水源からサンプルとしてモノリス水を汲んでこいって言われたよ。課題見た時は遠回しに不採用だって言われてるのかと思ったもんだ。けどまあ、結局はなんとかなったし、今の給料考えるとあれは妥当だったな。去年の稼ぎは一千万ちょっとだったんだが……専業主婦のカミさんに育ち盛りの子供三人も抱えても金に困らないなんて暮らしは、やっぱりそう簡単に手に入るもんじゃないよ」
無愛想な第一印象とは裏腹に、これでなかなか、岩井は話し好きで気の良い男らしかった。
しかし、今は呑気に世間話を楽しんでいられる状況ではない。
「年収一千万で、奥さんにお子さんですか。羨ましいです。凄く。僕もいつかそんな風になれたらいいんですが……」と相槌を打ち、岩井に返事をする暇を与えずに「ところで、早速出発したいんですが、いいでしょうか」と話題を転じた。
「お、そういえば、試験中だったな。悪い悪い。うっかりしてたよ。それじゃ行こうか」
岩井は済まなそうな顔をして立ち上がったが、その観察するような眼差しが、この態度が表面上のものであることを無言で主張していた。おそらくここでの対応すらも採点の対象に入っていたのだ。本来の仕事を放り出して雑談を続けるか、きっぱりと雑談を打ち切って仕事に取り掛かるか。見られていたのはその辺りだろう。油断がならない。
「まずはどうする」
「そうですね……取り敢えず探協にでも行ってみます」
立ち上がりながら答えた。「影響圏」についての情報を探るとしたら、何はともあれ探協だ。研究機関や同業者にも当たるつもりでいるが、やはりこれが最も簡単かつ堅実だ。
各地方ごとに支部を置く全国探険士業協同組合連合会の関東支部は神奈川県にある。
黒尾は岩井と共に支部に足を運んだ。関東支部は「影響圏」の目と鼻の先、神影市平土にある。岩坂会館は平土の隣接地区岩坂にあるため、本部ビルの玄関先まで行くのに十五分もかからなかった。
探協関東支部は、地上十一階、地下二階建てのビルに駐車場までついた実に立派な建物だ。より大きな規模とより長い歴史を持つ農協の都道府県本部と比較しても何ら遜色がない。
黒尾はビルの出入り口を見遣って嘆息した。予想通りの混み具合だ。来る途中、ひょっとすると多少は空いているかもしれない、と根拠のない希望を抱きもしたが、全くそんなことなどありはしなかった。出てくる人間よりも入っていく人間の方が多い。これでは情報請求窓口の順番が回ってくるまで何時間も待たされることになりかねない。
しかし、回れ右という選択肢はない。後日に回すという選択肢もだ。探協に頼るのはこの場合、必須だし、そうである以上はできる限り早く情報請求を済ませなければならない。課題達成期限まで二週間しかないのだ。仮に報告書の作成に一日、準備と捜索に十日程度を割り振るとしたら、情報収集に費やせるのは三日程度。時間的余裕はない。通常の情報請求では何週間――或いは何ヶ月――待たされることになるかわからないから、手数料と必要経費を支払う必要のある至急請求を利用することになるが、それでも二、三日はかかる。一日千人までの「影響圏」進入許可枠から漏れてしまうことも考えなくてはならない。やはり、一日たりとて、一時間たりとて無駄にはできないのだ。
探協ビルの玄関ホールは人波でごった返していた。一歩足を踏み入れてその様を目にした瞬間、黒尾は回れ右する衝動に駆られた。人が多すぎて嫌になった。
なんとか衝動を抑えた黒尾は、気を取り直して、柱に据えつけられている案内板に目を向けた。情報請求窓口が四階であることを確認し、つくづく僕は四という数字に縁があるらしい、と小さく笑う。
それを見咎めて岩井が訝しげな視線を寄越した。黒尾は軽く首を横に振ることで答えた。
エレベーターの方に向かおうとした時、視界の隅に二人の男が映った。
なんともちぐはぐな二人組だった。片方は筋骨逞しい鬼のような大男で、もう片方は背のそれほど高くない――黒尾と同じか少し低いくらい――痩せた男だ。年齢は、鬼のような男が三十歳代半ばほど、痩せた男が四十歳過ぎに見える。
黒尾はその二人組を知っている。大きな助けとなってくれるかもしれない二人組だ。
ただし、直接の知り合いは片方だけで、もう片方とは面識がない。写真や文章などで間接的に見たことがあるだけで、実際に会うのはこれが初めてだ。そこに声をかけるのには若干の勇気が要る。
道は非常に険しい。しかし、踏破した先には素晴らしい財宝がある。黒尾は二人組の様子を窺った。まずは話しかけられる雰囲気かどうかを見極める。
鬼のような巨漢は体格だけでなく顔も鬼のようだ。古傷だらけのその顔は、笑おうが怒ろうが他人を怯えさせずにいられまい。着ているのはありふれた迷彩柄の戦闘服で、上衣の前は開いていて、白地に豪快な書体で「四面楚歌」と印字されたふざけたTシャツが覗いている。
痩せた男の方は、陰気と陰険と不健康を主題にして描かれた人物画から抜け出してきたかのようだ。鬼火のような目で生者を見つめる幽鬼の支配者か、童話に出てくる悪い魔法使いを思わせる顔立ち。暗灰色の戦闘服。病人のような肌。三摩地総一郎の風貌は、相変わらず見ていて陰鬱な気分になる。
両者は外見がまるで正反対であるにも関わらず、その纏う雰囲気、引き摺る気配、伝わってくる精神が共通している。破壊と暴力と欲望。それらが邪悪な三位一体となって彼らの毛穴から放たれ、付き従っている。できれば近づきたくない、それどころか目を合わせたくもない、更に言えば視界の片隅にも置きたくない凶人達だ。
二人は至って穏やかに談笑しながら――話しているのは専ら巨漢だが――歩いているようだった。この分なら、話しかけてもそう酷い反応はされまい、と黒尾は安心した。この機会を逃すわけにはいかない。これはITOから与えられた課題を達成する上での大きな助けとなり得る遭遇なのだ。
どうやって声をかけたものかと悩んでいると、向こうの方から黒尾の方へとやってきてくれた。
だが、手間が省けたと喜ぶことはできなかった。足早に近寄ってくる鬼男の顔には、苛立たしげな表情が浮かんでいた。それは決して表情だけの見せかけではなかった。鬼男は本当に苛立っている。超感覚的知覚や精神感応の心得のある超能力者の御多分に漏れず、他者の感情の動きに敏感な黒尾には、手に取るようにそれが理解できた。その苛立ちが明らかに彼に対して向けられていることも。
何がいけなかったのかを理解できず、黒尾は戸惑うばかりだった。救いを求めて岩井を見たが、何の役にも立ちそうがなかった。彼も黒尾と同じようなものだった。事態についていくことができずにいるようで、こちらも明らかに戸惑っている。
更に周囲を窺うと、こちらはもっと酷かった。無視を決め込んでいる者と、興味津々にこちらを眺めている者しかいない。こちらを心配したり、助けようとしたりする雰囲気は微塵も感じられない。今日は薄情者しかいないらしい。
鬼に似た大男が威圧するように見下ろしてきた。
「おい、そこの兄ちゃんよ。なんだあ、さっきからちらちらちらちらちらちら……鬱陶しいんだよ。俺ァ見世物じゃねえぞ。用があるんならさっさと言えや」
「すみません、連れの者が失礼を……」
黒尾が答えるよりも先に、詰め寄って見下ろす鬼男と詰め寄られて見下ろされる黒尾との間に、岩井が割って入った。その態度や表情を見ると、幾分慌てた様子であり、どうやら彼は目の前の大男に圧倒されているようだった。
岩井にせよ、観衆にせよ、やはりこの鬼男が誰だか知っているのだ。それだから、岩井は気圧され、観衆は関心を寄せている。
鬼男は、獰悪に顔を歪め、野良犬を追い払うように手を振った。
「お前、伊藤んとこの岩井だったか。そこのもやしのお守りでもやってんのか。引っ込んでろ」
「いえ、そういうわけには……」
岩井がなおも食い下がろうとするのを鬼男はばっさりと切り捨てる。
「引っ込んでろって言ってるんだよ、伊藤の飼い犬。耳が聴こえねえのか、ポチ。俺はお前となんか話しちゃいねえんだよ。俺はそっちのもやし兄ちゃんと話してるんだ。なあ、そうだろ、ええ」
鬼男が同意を強制するような視線を黒尾に向けてきた。
「私が一緒にいる時にチンピラみたいな真似をするんじゃないと何度言ったらわかるんだ」
追いかけてきた三摩地が忌々しそうな目つきで鬼男を見上げた。
鬼男は苛立たしげに頭を掻いた。
「そんなこと言ったってよ、苛つくんだから仕方ねえだろ。俺を苛つかせたこいつらが悪い」
三摩地は鬼男を無視して黒尾を見た。嫌な目をしている。この世には敵とその予備軍しかいないとでも思っているかのような冷たい目、常に何かを気にかけているかのような神経質な目、常に何かを堪えているかのような険しい目だ。六年近く前に一度言葉を交わした時よりも、瞳の暗さが増している。黒尾はかつて三摩地自身が語った「欲望への命懸けの忠誠」の代償がいかなるものであるかを見たような気がした。
「君は……昔、私と会ったことがあるだろう。誰だったか……かなり前だった気がするが」
黒尾の顔をじっと見ながら、三摩地が首を傾げた。
「黒尾です……六年くらい前に、守る会でお会いしたことがあります」
「黒尾……ああ、あの時の高校生か。思い出した。モノリスについて話をしたな、確か」
「はい!」
六年近くも前の、たった一度の出会い。黒尾にとっては英雄との衝撃的な出会いでも、三摩地にとってはほんの気紛れを起こしただけの出会い。その出会いを三摩地が今も憶えていてくれたことに、黒尾は感激と驚愕を同時に覚えずにいられなかった。
しかし、三摩地が感動を与えてくれたのもそこまでだった。一人で納得した様子の三摩地は、黒尾に「すまないが、今は君の相手をする気分じゃない。後は鬼鉄と話してくれ」と、鬼鉄と呼ばれた鬼男に「私の古い知り合いだ。相手を頼む」と、それぞれ言い捨て、足早に立ち去ってしまった。
呆気に取られて固まる黒尾と岩井に、鬼鉄が苦笑しながら言った。
「悪いな。お前も知ってるだろうが、あいつはああいうどうしようもねえ奴なんだ。まあ、俺でいいなら聞くだけ聞いてやるから話してみな」
瞬間的に沸いた怒りは、三摩地が乱入した短い間に、瞬間的に冷めていたようだ。
「是非お願いします」
「おし、言ってみろ」
鬼鉄は外見や言動ほど恐ろしい人物ではないらしかった。これならば力も貸して貰えるだろう、と安堵しつつ、黒尾はまずは自己紹介から始めることにした。名乗るのは目下の者が先と相場は決まっている。
「私は黒尾司郎と申します。準一級三等探険士で、今日はITOの採用試験のために参りました」
「まあ、そんなこったろうと思ってたよ。でなきゃ、ITOのポチが一緒にいるわけがねえ」
鬼鉄に応える形で岩井が会釈した。
「私は彼の試験官を務めることになりました」
「大変だな、ガキのお守なんか任されてよ」
黒尾は改めて問いかけた。
「それで……失礼ながらお伺いしたいのですが……あなたは一級一等探険士の鬼鉄悟郎さんでいらっしゃいますよね」
ここまでのやり取りから、黒尾は目の前の鬼鉄が、もう立ち去ってしまった三摩地総一郎と共に生ける伝説として知られる男であることを確信していた。
その彼らにここでこうして会えたことは素晴らしい幸運だと言える。彼らとここにはいない二人――金貸しの井原源蔵と外科医の緒方康徳――は、一九八五年九月十日に地獄と化した御門市からの生還者であり、民間人の「影響圏」進入が許可されていなかった頃から自衛隊と共に圏内で活動していた最古参の案内人であり、探険の最前線に立つ「最もモノリスに近い」と言われる探険士だ。研究者とはまた違った意味で、日本で最も「影響圏」に詳しい部類に入ると言っても過言ではない。
鬼鉄は苛立たしげに顔を歪めて、じろりと黒尾を睨んだ。
「俺はその鬼鉄だがよ、その馬鹿丁寧な喋り方やめろや。おちょくられてるようでむかつくんだよ。普通に話せ普通に」
「はい、ええと……わかりました、鬼鉄さん。気をつけます……こんな感じでどうでしょう」
「まあいいだろ。で、その黒尾と岩井が俺達になんの用だ。試験手伝ってくださいってか」
「……実はそうなんです」
「まんまかよ。ひょろいくせに図太いじゃねえか。いいぜ、そういう正直な奴は好きだ」鬼鉄が愉快そうに笑った。山賊の首領のような笑い声だった。「俺は何をすりゃあいい」
「それなんですが……」と黒尾はごく簡単に課題内容を説明し、受け取った写真を見せた。「……そういうわけでここに行かないといけないんですが。もしこの場所をご存知でしたら、教えていただけ――教えて貰えませんか。『中』のどこかのはずなんですが……」
「ちょっと貸してみ」と写真を手に取り、鬼鉄が覗き込む。「どっかで見たことあるんだがなあ」
鬼鉄の様子に黒尾は期待を高めた。もし知っていれば儲け物、という程度のものでしかなかっただけに、予想外の収穫だ。
「どうでしょうか」
期待を籠めて見上げると、鬼鉄が表情を険しくした。
「うるせえな。黙ってろよ、今思い出してんだから」
「すみません」
何十秒か写真と睨めっこしてから、鬼鉄は「ああ」と声を上げて頷いた。
「思い出した思い出した。この辺通ったことあるわ。確か、マンションかなんかだったな」
「本当ですか! よかった。どうやって行けばいいんです」
「なんだ、お前、その『本当ですか』ってのは。俺が嘘つきだって言いてえのか」
じろりと睨まれ、黒尾は身を縮こまらせた。それは単なる驚きの表現に過ぎず、決して疑いの言葉などではなかった。鬼鉄が真実を語っているであろうことは黒尾にもわかっていた。
しかし、下手な言い訳は逆効果に違いない。黒尾はただ「すみません」とだけ言って頭を下げた。
「盛りのついた中坊みてえにがっつくんじゃねえよ。で、ここがどこでどうやったら行けるかって? 田無の慈厳寺を捜しな。その近所だから」
「田無ですか……」
田無はちょっとした難所だ。行くのは難しくないが、行くまでが面倒臭い。黒尾は渋い顔をした。
「そうだ。田無の慈厳寺。ここまで教えりゃ、もう後は自力でどうにかなるよな」
黒尾は頷き、礼を言った。慈厳寺というのがどこにあるかはわからないが、田無が御門市の深沼区の地名であることはわかる。ならばあとは地図を調べるだけだ。
「なら話は終わりだ。俺も帰らせて貰うぜ。まあ、試験頑張れや」
鬼鉄は鷹揚に手を振り、大股で歩き去っていった。
大きな背中を見送った後、ずっと沈黙を保っていた岩井が口を開いた。
「これからどうするんだ」
この試験は単に行動を見るばかりではない。こうして抜き打ち的に投げかけられる試験官の問いへの答えも採点対象だ。黒尾は気を引き締め、迂闊なことを言わないよう慎重に答える。
「地図で慈厳寺の近くにあるマンションを確認して、早速『中』に向かおうかと思います」
「情報請求は?」
「勿論して、結果が出次第、出発します」
鬼鉄の情報、「田無の慈厳寺」を参考情報として窓口に提出すれば、それだけ調査効率も上がる。運が良ければ明日か明後日くらいには回答が得られるかもしれない。
「ただ」と黒尾は付け足した。「差し当たり、田無方面に行く想定で進めます」
「どうしてだ」
「鬼鉄さんの情報は信頼できます」
「根拠は?」
「鬼鉄さんほどの人の情報なら正しいと仮定するのは行きすぎじゃないでしょうし、嘘をついている気配もしませんでした」
黒尾がそう答えると、岩井はふっと表情を緩めた。
「超能力っていうのは便利だな。そんなことまでわかるんだから。君の判断はわかった。調査結果が出たら、すぐに準備して出発するのか」
「そのつもりです。前倒しでいきます」
「なら、行く前に計画書を出してくれ。勿論そんなに詳しく書く必要はない。どこに何をしに行くのか、どれくらい時間がかかりそうか、装備は何を持っていくのか……まあ、この辺りを中心にざっと書いてくれればいい」
「わかりました。今の内から草案を作っておきます」
「終わったら言ってくれ。進入予約を取るから」
「一回目の進入費用はそちらで負担してくださるんですよね」
黒尾は念を押した。
「影響圏」への進入には一人当たり二万円の「安全協力金」――探険士達は「通行料」と呼んでいる――がかかる。黒尾のような個人探険士にとっては小さくない出費だ。払わずに済むならそうしたい。
岩井は素っ気なく頷いた。
「必要経費は全部うちが出すことになっている。一応言っておくが、君の課題だと、二回目以降は自己負担だぞ。経費じゃ落ちない」
「……一回で済ませないと減点ってことですか」
「採点基準は教えられないんだ。悪いな」
すまなそうな口調だが、そこに妥協の余地はなさそうだった。黒尾は回答を諦め、最悪を想定して最善を目指すことにした。
翌々日の午前十時頃、諸々の準備を済ませた黒尾は、岩井と共に歩行者用の手続所を訪れていた。
鬼鉄の情報は正確だった。依頼した翌日の夕方に届いた探協からの調査報告は、まさに鬼鉄の言葉を追認するものだった。報告を受け取った時、黒尾は思わず、こんなことなら最初から「影響圏」に行けばよかったと呟いた。
モノリス影響圏の周囲は、「海苔」と呼ばれる境界壁との間に二キロメートルほどの間隔を挟んで、高さ二十メートル、厚さ三メートルの鉄筋コンクリート防壁に囲まれている。その大防壁には、相模原市や神影市といった隣接都市に各一ヶ所ずつ出入口が設置されている。出入口は、大防壁に向かう専用道路から入る車輛用通行手続所と、大防壁に隣接して設置された歩行者用通行手続所とに分かれている。
歩行者用の手続所は公民館程度の大きさの建物だ。手続所は大防壁を貫いて設置されていて、防壁から吹き出物か何かのように突き出ている。
玄関を抜けた先の広間は待合室を兼ねている。そこでは探険士やその同行者、企業関係者達が五十人以上も順番を待っていた。
受付窓口で整理券を受け取って、黒尾は適当な席に岩井と腰を下ろし、待合室の状況に溜息を漏らした。いつも通りのこととは言え、順番待ちをしている連中が五十人以上もいる現実を目にしてはやはり気力も萎えた。手続を行う「手続室」が三つあり、一人当たりの手続時間が普通は五分に満たないことを考えても、順当にいっても一時間くらいは待たされる計算だ。
もっとも、それでも車輌用門の列に比べれば大分ましではあった。来る時に見たあちらは、高速道路の大渋滞を思わせる混み具合だった。防壁に向かって垂直に伸びる専用の片側三車線道路は、普通車の列と大型車の列とを隔てる中央車線を除き、ほとんど隙間なく埋め尽くされていた。あの時点での最後尾の車輌が手続を終えるには、少なくとも二時間、運が悪ければ三時間も四時間もかかるだろう。
忌々しい待ち時間ではあるが、もっとつらい目に遭っている連中がいるのだと思えば、そのつらさも大分紛れた。つらい時は下を見ると楽になる。ひょっとすると――そうだとしたら腹立たしい話だが――壁上の監視台で内側に向けて据え付けられた重機関銃座についていた暇そうな自衛官達も、似たようなことを思って退屈に耐えていたのかもしれない。
「今日は多少空いてるな」
周囲を眺め、岩井が呟いた。
岩井は黒尾が神影市に降り立った時とそう変わらない出で立ちだ。ITOで会った時の服装に加え、床に小銃と拳銃同梱のライフルケースと、各種装備や食料が満載された大きな背嚢を置いている。
「それでも、一時間以上待たされることに変わりはないんですがね」
溜息混じりに相槌を打つ黒尾も同様の状態だ。装備を身につけるのは、防壁内の「モノリス街」と呼ばれる区域で宿を確保してからとなる。
「何、待つのも俺達の仕事の内さ。君もこの業界に入り立てってわけじゃないんだから、わかるだろう」
岩井の言う通りだ。探険士の仕事は「探険」という言葉から連想される活動的なものばかりではない。時には何時間も何日も同じ場所で待ち続けることが必要になる場合もあり、そしてそれは決して珍しいことではない。
「でも、『外』でまで待たされるのはどうも……」
「まあ、君くらいの歳だとそうだろうな。逆に俺くらいになると、入るのを先延ばしにしたくなる」
そんな具合に雑談をしたり、「影響圏」内での行動の打ち合わせをしたりしている内に、時間は過ぎていった。探険士達は次々に呼び出されていき、遂には順番が来るまであと三人を残すのみとなった。あと十数分もすれば順番が回ってくるだろう。
少しして、六メートルほどの間隔で並ぶ三つの手続室の内、黒尾達から一番遠い金属扉の上の電光掲示板の「手続中」の表示が消え、代わって「247」の表示が出た。その少し後、整理番号二百四十七番を呼び出すアナウンスが流れた。
もう少しだ、と黒尾がぼんやりと思っていると、彼の許に小さな幸せが訪れた。運の良いことに、真ん中の扉の表示が変わって呼び出しが流れるまでに三分もかからなかった。
更にそれに遅れること一分少々、黒尾達から見て最も手前にある入口の「手続中」が消えた。
そして、数十秒後、三度目があった。一番遠い手続室の表示が変わった。
「ここにきていきなりハイペースだな。幸先が良いやら悪いやら。やれやれ……こんなことで運を使い果たしちまったか?」
岩井がまじまじと扉を眺め、考え事でもするように顎を撫でながら、冗談めかして言った。
「そういうこと言うのやめましょうよ」
黒尾は顔を顰めた。
命懸けの仕事ということもあり、迷信深さは探険士の職業病とも言える。黒尾も決して例外ではない。彼もまた、この仕事を続ける内、この世に「運」という言葉でしか説明しようのない「何か」が存在していることを認めざるを得なくなった一人だ。
だから探険士達は、そこに根拠があろうとなかろうと、少しでもネガティブな要素を感じさせるものにはどうしても敏感になってしまう。黒尾のようにそういった要素を重視する者がいる一方で、岩井のように殊更に軽視してみせる者もいるが、それはどちらであろうと、結局のところ、意識しているところは変わらない。
「おっと、すまんな」と悪びれた風もなく肩を竦めた岩井は、図ったようなタイミングで電光掲示板の表示が切り替わったのを見て、「順番が来たぞ」と黒尾を促した。
「本当だ。お先に失礼します」と岩井に会釈し、黒尾は荷物を担いで金属扉の向こう側へと足を踏み入れた。
手続室は小中学校の教室の半分程度の広さの部屋だ。入口の向かいには電子機器が並んだカウンターがあり、モノリス管理局員が三名控えていた。彼らのすぐ横には金属扉がある。防壁内への入口だ。手続を終えた探険士はここを通って仕事場へと向かう。
「おはようございます」と職員達が座ったまま一礼し、「どうぞお掛けください」とカウンターの前の椅子を勧めてきた。モノリス関連業務の担当者に特有の、役人とは思えない慇懃な態度だ。探険士達の間では、武装チンピラを相手に無用な諍いを起こさないための配慮をしているのだろう、と言われている。
黒尾も職員達に挨拶し、カウンターの前に用意された椅子に腰を下ろした。
「探険士免許証をご提示ください」
黒尾は求めに応じて人定・資格確認を済ませ、進入手続に入った。
もっとも、手続と言っても、そう大したことはしない。色々な書類を書かされる、荷物を開封されて検査されるなど、昔は色々と面倒な手順を踏む必要があったそうだが、今は電子化と超能力の導入が進んでいるため、かなり簡略化されている。黒尾が探険士になった時点ではもうこうだった。
荷物の検査は専任の超能力検査官の精神感応によって、誓約書の提出や手続手数料の納付及び入退場記録の作成などは探険士免許証を机上の認証機に通すことによって、それぞれ数分足らずで済んでしまう。要するにこの手続は、超能力検査官の「危険物や違法物品を持ち込んでいないか」などの質問に答え、任意で探険計画の提出を行い、入退場記録や探険計画、滞在先等を公的機関以外に開示したい相手の有無とその詳細を告げ、最後に認証機に探険士免許証を通すだけで終わる。
今回、黒尾は事前にITOからそうするように指示を受けていたため、計画は提出し、入退場記録と一緒にITOに対して公開するよう職員に頼んだ。
「これで結構です。黒尾さん、お通りください。お気をつけて」
職員に見送られ、黒尾は防壁の内側に足を踏み入れた。
防壁の内側と言っても、すぐに屋外に出られるわけではない。扉を抜けたその先には、退場者用の手続とは別に設けられた、入場者用の待合室兼出口がある。
黒尾は適当な椅子に腰掛け、岩井が手続きを終えて出てくるのを待った。
どうやら今日は余程運が良いようで、岩井も黒尾に遅れること五分足らずで出てきた。
通行手続所を出ると、もうそこはモノリス周辺地区、「モノリス街」だ。
正面には「影響圏」の「海苔」――モノリス境界壁――の黒々とした威容が見え、その手前には研究施設や工場、企業の出張所、探険士の宿泊施設、探険士向けの商店、自衛隊施設などが、「影響圏」の作る影に覆われて建ち並んでいる。
当初、鉄条網に囲まれながら生えている境界壁と大防壁との間には、安全上の理由から一般の居住や建築等が禁じられていたため、陸上自衛隊のモノリス管理支援群が駐屯する神影駐屯地を始めとする政府関連施設しかなかった。
しかし、それも、境界壁の突破が不可能であり、内部から変異生物が侵出してくることがないと判明するまでだった。それ以来、商業上、学術上の要求に押され、種々の規則は徐々に緩和されていった。始めは研究や医療、宿泊のための施設や探険用品店などが建ち、それに伴って道路網が整備され、やがて産出物加工場や企業の出張所や住宅が建ち、遂には各種商店や飲食店が進出するに至った。
この流れは一向に弱まる気配を見せない。境界壁の周囲一キロメートル圏内の封鎖は現在でもなんとか維持されているものの、大分有名無実化が進んでいる。既に鉄柵の内側も無人地帯ではなくなっている。「影響圏」開口部の周辺には、輸送車輛の駐車や荷物の積み下ろし、「影響圏」から持ち帰られた産出物の仕分けや解体作業、簡易市場開催、企業や研究所等の買付人の待機などのための施設が立ち並んでいる。最近は待機中の買付人や施設の従業員向けの露店や屋台が開かれることさえある。
こうなってしまっては、鉄柵が撤去されるかどうかはともあれ、その内側に「影響圏」産業とは直接関わりのない建物が並び始めるのも時間の問題だろう。
モノリス街は少しずつ「街」へと成長しつつある。
手続所を出た黒尾と岩井は早速神影バスターミナルに向かった。地区内での移動手段は原則としてバスか徒歩だ。防衛、消防、医療、行政等の関係者が業務で使用する場合を除き、車輛の使用は特別な許可が必要となる。原付や自転車も例外ではない。
まずは今回の探険行の拠点となる宿泊所に向かい、進入の準備を整える。宿の手配自体は既に済んでいるから、後はチェックインするだけだ。
ターミナルに着くと、丁度、彼らが乗ろうと思っていたバスが停まっていた。このバスの路線沿いに彼らが滞在予定の宿泊所がある。
「ツキすぎて怖いな」と笑う岩井と共に、黒尾はこれ幸いと乗り込んだ。中はそれなりに混んでいたが、なんとか二人分の座席を確保できた。
探険士や研究者、観光客、買付人などに混じって席に座ってほっと一息つき、無言で発車を待つ。
五分ほど経ち、バスが発車した。運送業者のトラックや救急車などと擦れ違い、歩道や路肩の歩行者達の横を通り抜けながら、バスはガラ空きの快適な道路を進んでいった。市街地を蛇行するように伸びる道路を回り、いくつかの停留所で乗客を拾いながら「住宅街」と俗称される地区に向かって走っていく。
十数分後、「御門宿泊所前」と書かれた停留所でバスが停まった。二人の目的地だ。
二人は座席からあぶれた乗客を掻き分けるようにしてバスを降り、停留所から歩いて数分の所にある公営宿泊施設である「御門宿泊所」に向かった。
御門宿泊所は、名前こそ「宿泊所」となっているが、その実態は簡易集合住宅だ。鉄条網で囲まれた広大な敷地内には、百部屋以上を有する建物が何十棟も並んでいる。各部屋には電気、ガス、水道が通っており、台所や風呂、便所、家具や家電なども完備している。多少の不便を気にしなければ問題なく住むことができる。要するに防壁外で言うところの単身者向け短期アパートとさして変わらない。違うのは賃貸料を支払って「入居」するのではなく、一週間を基本単位として事前に宿泊料を支払って「宿泊」する点くらいだ。
行き交う探険士達を掻き分けるようにして進み、黒尾と岩井は宿泊する棟の管理人室に顔を出した。部屋を予約してある旨を告げ、それぞれの部屋の鍵を受け取った。ツインやダブルの部屋や団体向けの大部屋もあるが、今回、部屋は別々だ。黒尾と岩井が打ち解けていないからではなく、試験官が選考に関する資料を持ち歩いているからだ。
各々の部屋に荷物を置いた後、二人は管理責任上の理由から武器だけを持って買い物に出かけた。携行食料や飲料水、燃料、弾薬、医薬品などの消耗品は、持ち運びの労力が馬鹿にならないこともあり、こうして現地入りしてから買い求めるのが普通だ。外から持ち込むのは、外に比べて物価の高いモノリス街での買い物を避けようとする倹約家――探険士達に言わせれば「十円のために隣町のスーパーまで行く主婦みたいなしみったれた連中」――だけだ。
買い物の後は装備と計画の最終確認をした。二人は黒尾の部屋で互いの装備の確認を済ませた後、最寄の公営食堂「第五食堂」で昼食を摂りながらこれからの行動を話し合った。
そして午後一時少し前頃、現時点でできる全ての確認と打ち合わせが終わった。一気に暇になってしまった。この後には、探協のウェブサイトの「相乗り募集」で「相乗り」仲間を探していた、準一級一等探険士の工藤義男との待ち合わせが控えているが、それは夕方六時だ。それまでのおよそ五時間、やることが何もない。
岩井が欠伸混じりに伸びをした。
「どうせやることもないんだ。歩いて十分もしないから……そうだな、五時四十分に門に集合、それまでは自由時間ってことにしないか」
「じゃあそうしましょう」
「俺は部屋にいるつもりだが、君は気にせず出かけていい。まあ、出かけると言っても、ここじゃろくに遊ぶ所もないだろうが……」
「僕も部屋で過ごすつもりですよ」
「部屋で?」と岩井は意外そうな顔をした。「君みたいな若いのは外で遊ぶのが好きかと思ったんだが……部屋で何して過ごすんだ。テレビゲームか何かか」
「報告書用のメモの整理をして、それが終わったら読書です。半年に一回くらいのペースで読み返すことにしてる本があるんですよ。読むたびに発見があって、ついでに初心にも還れるような本です」
岩井は感心する風な顔をした。
「へえ、なんて言う本なんだ。よかったら教えてくれないか。うちのガキ共に買ってやるのにいいかもしれないから」
「お子さん、おいくつなんですか」
「姉一人に弟二人で、上から中二、中一、小六だ。どいつもこいつも、口ばかり達者なくせに、肝心なところはまだまだガキでなあ、手がかかって仕方ない。おまけに金もかかるんだから、全く……」
訊かれていないことまで語る岩井の顔と声音は、愚痴るような内容でありながらも、温かさと優しさに満ちた幸せそうなものだった。僕の両親も僕のことを誰かに語る時はこういう顔をしているのだろうか。そんなことをふと思いつつ、黒尾は続けた。
「ああ、それだと、ちょっと読ませるには早いかもしれませんね」
「そりゃまた、一体どんな本なんだ……まさか、あれだけ良い本良い本言っておいて、エロ本とかいうオチじゃないだろうな」
「まさか。岩井さん、天道悟さんってご存知ですか。護身術の先生なんですが……それと僕が通ってる大学の先生に、春川秀臣って人がいるんですが、その人は?」
「天道、春川……ああ、あの二人の本か。天道さんが『綜合生存術』、春川さんが『PW概論』だったか。なるほど、確かに良い本だ。探協推薦だしな、俺も読んだことがあるよ。でもガキ向けじゃあないな。あんなの熱心に読むガキがいたら嫌だ」
岩井は納得したように笑った。
探険士としての黒尾が傾倒している天道悟は、戦闘術と護身術と生存術を統合した天道流綜合生存術の指導者として関連業界で知られている人物だ。その著書には『天道流綜合生存術入門』から始まる「綜合生存術」シリーズがある。
一方、超能力者としての黒尾が傾倒している春川秀臣は、彼が通う自育大学で教鞭を執る教育者であると同時に、「影響圏」と超能力戦闘についての著名な研究者でもある。少なくない論文や書籍を世に出しているが、その中でも一年前に発表されたばかりの『PW概論』は、超能力戦闘論の第一人者としての春川秀臣の名を学界と業界に知らしめた傑作と言える。
彼ら二人のどの著書も、荒事に縁の深い職業に就く人間ならば読んでおいて損のない書籍として、業界関係者から高い評価を得ている。黒尾のように、指針と発見を求めて何度も読み返す者も珍しくない。
「邪魔して悪かった。じゃあ、俺は部屋で報告書の下書きでもしてるから、何かあったら声をかけてくれ」
岩井は軽く手を振り、部屋から出ていった。




