第一章 新しい道
二〇〇七年一月十二日金曜日。
伊勢比良市霧間に再建された私立自育大学は、現在、後期試験の期間中だ。
普段は騒がしい学内もこの時ばかりは常の賑わいは鳴りを潜める。この期間ばかりは、教室や食堂、そこらのベンチや花壇で雑談をして過ごすのが通例の連中も教科書や配布資料と睨めっこをするし、遅刻寸前で教室に駆け込むのが通例の連中も大分余裕を持って教室に入る。
しかしながら、物事には例外が付き物だ。中には普段と変わらない態度で過ごす連中もいる。
並んで席に着いている二人もそういう学生の一部だった。
片方は繊細で気難しそうな顔立ちをした小柄な青年だ。どちらかと言えば痩せ気味の体格をしている。柔弱な文学青年といった雰囲気で少々頼りない感じがする。
もう片方は精悍な面構えの逞しい青年だ。こちらは小柄な方とは対照的な外見をしている。その全身はよく鍛えられている上、身長自体も百八十センチを超える立派なものだ。肌は浅黒く日焼けしており、そこかしこに細かな古傷が見られる。いかにも荒事に長けていそうな頼もしい風貌だ。
小柄な方は黒尾司郎、逞しい方は武智久郎という。
黒尾はレベル八の超能力者で、武智は薬物強化型の典型的な強化人間だ。また二人は共に準一級探険士資格を有する三等探険士でもある。
高校からの腐れ縁である彼らは、春川秀臣准教授の「超能力戦術論6」の試験場となる三号館四〇二教室で、試験開始を待ちながら雑談をしているところだった。
現役の準一級探検士である二人にとって、この試験で問われる内容などは、常日頃から行なっていることや考えていることの延長上にあるものに過ぎない。彼らにとって、この昼休みは、普段のそれと全く変わらない。
武智久郎が何気ない感じで訊く。
「卒業したらどうするかもう決めたか」
二人は大学三年生であり、カレンダーの暦は既に一月だ。そろそろ就職や将来のことを考えて動き出さないといけない時期が来ている。日本の学生は、学生であるのにも関わらず、入学から卒業までの全てを学問に捧げて過ごすことを許されない。
もっとも、このことを真剣に嘆く学生は少ないだろう。もし嘆く学生がいたとしても、そのほとんどは、遊んでいられる期間が短いことを悲しんでいるだけだ。
「探険士に決まってるじゃないか」
黒尾は即答した。
探険士として生きていく。少年時代から抱き続けてきた二人の夢だ。そしてこれは、捨て去ることなく持ち続けてきた結果、手の届かない夢から手の届く目標へと変わった。
「そりゃわかってるよ。俺が訊いてんのはどういう探険士になるかってことだ。フリーか、会社か。そういうことだ」
「僕は、まあ、フリーでやれるような人間じゃないし、まずは企業からかな。そう言う君は結局どうするんだ。前に言ってた通り、まずはフリー?」
手を伸ばせばなんにでも届き、願えばなんでも叶うと信じていた少年時代とは違い、今の黒尾は現実を知っている。自分にフリーランスで活動するだけの実力がないという現実と、それだけの実力を今すぐに身につけるのは無理であるという現実を。
今や探険士がフリーランスで渡っていける時代は終わりつつある。既に業界の構造が整備されてしまっている今となっては、真の実力者以外に独立は許されない。そうでない者は、所属する組織を選び、組織的に活動しなければ食っていけない。三摩地の予言は的中しつつある。
これが三年前に探険士資格を取得した時の、まだ夢を見ていた頃の黒尾が、実際に探険士として活動していく中で突きつけられた現実から辿り着いた結論だった。
しかし、武智が出した結論は黒尾のそれとは大きく異なる。彼は諦めを知らない。
武智は黒尾が投げ返した問いに頷いた。
「そうなるな。会社勤めなんて俺の柄じゃねえし」
「それは言えてる」
「お前も案外そうかもしれねえぜ。就活なんかやめて、俺と組んでみるってのはどうだ。代わりを見つけたからって、お前が必ず抜けなきゃならねえわけでもねえ。いっそ、あいつと三人で組むのもありだと思うぜ。それに、美幸も残念がるだろうぜ。あいつ、高校出たら探険士になって俺らと探険するって言ってたし」
「そりゃ悪いとは思うけどさ……美幸ちゃん、まだ中三だろ」
黒尾はばつの悪さから、微かに俯き、武智から視線を外した。
「俺達が探険士始めてから、あいつはサボらずトレーニングしてるぜ」
「でも、高校卒業なんて三年も先じゃないか……こう言っちゃなんだけど、そこまで続くとは思えないよ」
「ガキの頃から頑張ってきた俺達が言っても説得力ないぜ」
武智がからかうように笑った。
黒尾は笑わなかった。
「小さい頃から頑張ってきたからこそだよ……ずっと夢を目指し続けるのは難しいよ」
もし三摩地総一郎との出会いがなかったら――彼と彼の言葉に対する意地と反感がなかったら――黒尾もどうだったかはわからない。その後に出会った共に夢を目指す友の存在も大きかった。ある意味では、三摩地と武智が黒尾の夢を支える柱だった。意欲と気力はともあれ、そういった柱が武智美幸にあるかどうかは甚だ怪しいものだった。そして、柱がなければ、夢はいずれ崩れてしまうだろう。
「……俺としちゃ信じてやりたいとこなんだがな」
武智は難しげな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「まあ、なんにせよ、僕にはフリーなんか無理だよ」黒尾は気まずさを振り切るように話題を戻した。「それより、君らこそ、今からでも遅くないから、僕と一緒に就活しないか。別に辞めようと思ったらいつでも辞められるんだしさ、独立までの準備とでも思って」
そう訊きつつも、返ってくる答えは勿論わかりきっていた。
「辞めるつもりでやるくらいだったら最初からやらねえよ」
笑い混じりに返された答えは予想通りのものだった。
「まあ、そうだよね」
黒尾は笑い返しながらも、これが最終確認であること、今この瞬間を以て二人の進路がはっきりと分岐したことを悟った。
黒尾に黒尾の考えとやり方があるように、武智には武智の考えとやり方がある。それはどちらも他者が勝手に口出ししてよいものではない。これまで一緒だった道が分かれてしまうことへの寂しさを感じはしても、翻意を促すような真似をする気はなかった。
武智が軽く肩を竦めた。
「まあ、でも、心配いらねえって。きっとなんとかやってけるよ。お前も知ってる通り、探協から金借りてるしな。仕事には不自由しねえさ」
彼は身体機能強化処置の費用の不足分を捻出するため、準一級三等探険士の肩書に物を言わせて探協から融資を受けている。その額はおよそ五百万円にも上る。モノリス影響圏産出物を原料とする薬物は魔法めいた絶大な効能を発揮するが、その恩恵に与るには、原価と稀少価値と効能と技術に相応の――或いは不釣り合いなほどの――代価が伴い、武智は将来のためにそれを支払った。
武智の楽観論に黒尾は顔を顰めた。
「返しきるまでは、だろ、それは」
確かに仕事には困らないだろう。武智が困窮すれば返済が滞ってしまうのだから、探協も仕事を途切れさせるようなことはしないはずだ。むしろ遊ぶ暇の心配をすべきかもしれない。
しかしそれも借金を完済するまでのことだ。返済が済んだ後の武智は、単に年会費を支払い続けるだけの、一般的な探険士以上の存在ではなくなる。見捨てられることはないとしても、返済前ほどの「親切」な扱いは期待できない。
「返しきる頃には実績くらい出来てるよ」武智は黒尾の危惧を笑い飛ばした。「なんてったって五百万だ、五百万。一年や二年じゃ足りねえ。三年は見とかねえとな。時間はたっぷりある。それより、就職組の司郎くんはどこの会社にするんだ。確か、前はITOって言ってたよな」
「今もそのつもりだよ。勿論、それ以外にもいくつか受けてみる予定だけどね」
武智はにっと笑った。
「そっか。頑張れよ。試験はいつ頃なんだ」
「二月だよ」
「じゃあ三月か四月にはもうITO社員で、そしたら今度は俺がパーティの代表やらなきゃいけねえのか。流石に三島の奴にやらせるのはまずいしなあ……」
黒尾と武智は黒尾を代表者にパーティを組んで業界を渡ってきたが、その関係ももうじき終わる。黒尾の望みが叶うということは、要するにそういうことだ。
「採用されたら、だよ。そうなる保証なんかないよ……でも、どう転んでも悔いが残るよな、これは」
実際、ITOこと「株式会社アイティーオー」の入社試験は、多数の大手企業と契約を結んでいる業界屈指の優良企業と言うだけのことはあり、凄まじい難関だ。
「悲観的だな。大丈夫だって、きっと。そりゃ条件的にはぎりぎりだけど、お前レベル八だろ。書類は通ったも同然だって」
武智は黒尾の言葉の後半部分を聞かなかったことにしたらしく、前半部分にだけ反応した。
つまるところ黒尾は、一人前を名乗る資格のある探険士である前に、かなり強力な部類の超能力者でもある。余程運が悪くなければ書類で落とされることはない。
武智の言葉をこのように内心で認めつつも、黒尾は首を振った。
「油断や皮算用は禁物だよ」
そう答えつつも、やはり彼は、自分が書類選考で落とされるなどとは欠片も思っていなかった。八に達する超能力強度と、大抵の超能力を使いこなせる汎用性に、相応の自信を抱いている。彼が見据えているのは二次以降の試験だった。
「油断しまくってるくせに何言ってんだかな」
武智は黒尾の内心などお見通しのようだった。
黒尾が無言で苦笑いを浮かべると、武智がしたり顔で続ける。
「お前、肝心なところで詰めが甘いって言うか、見通しが甘いって言うか……準一級はそれで一回落ちただろ」
「もう受かったからいいだろ。その話はやめてくれよ。いい加減忘れたい」
黒尾は両手で頭をがりがりと掻き毟った。恥ずかしくて堪らない過去だ。
十八歳から受験資格が与えられる関係上、二人は同時に二級探険士資格を取得した。しかし、準一級探検士資格を取得したのは、黒尾が半年遅れだった。二級取得から一年半後、つまり昨年度の話だ。準一級試験は二級と同様、年二回、八月と三月に実施されている。二級取得から一年以上という要件を満たして二人一緒に受けた八月試験で不合格となり、続く年度末の三月試験で辛うじて昇級を果たした。
実に苦々しい思い出だ。準一級試験は旧司法試験ほどではないが難関であり、複数回の受験は当たり前とも言われているから、一般的な基準からすれば挑戦二回での合格は満足すべき速度と言える。だが一緒に受験した武智はたった一度で合格したのだ。どうして自分は落ちてしまったのだ、と思い返すたび煩悶せずにいられなかった。そのやり場のない怒りは今でも心の中でわだかまっている。
「とにかく油断するとろくなことにならねえんだからさ……いや、詰めが甘いとか油断とかじゃねえな、お前の場合。お前はいつも大事なところで判断間違えるんだよ」
「それはまあ、そうだけどさあ……」
その決めつけに黒尾は若干の反感を覚えたが、否定はできなかった。彼が肝心なところで判断を間違える傾向にあるのは事実だった。
ただしそれは、愚かさのせいではなく、臆病さのゆえだと彼は認識している。彼は直感というあやふやで無根拠なものに従うのが怖くてならない。理由は常に明快で確固たるものでなければならないと思っている。
「お前はもう少し自分の勘を信じろよ。直感信じねえ超能力者なんておかしいだろ」
武智が言う通り、理性と感性が矛盾する結論を出した時、ほぼ必ずと言っていいほど、黒尾は感性を退けて理性に従ってきた。精神と直感の新たな可能性の開拓者たる超能力者でありながら、彼は曖昧な直感と感性の世界を拒み、明確な物質と論理の世界にこそ原理を求めようとしている。
黒尾自身もおかしなことだと感じているが、持って生まれた性格はどうにもならない。無い袖は振れない。配られたカードで勝負するしかない。黒尾は唇を尖らせた。
「直感って言ったって限度があるよ。たとえばさ、赤玉しか入ってないことが前以てわかってる袋があるとするよ」
「確率の問題でよくあるよな、そういうの」
「わかりやすくていいだろ。それでだ。その時、中に青玉が入ってるに違いないって直感が教えてくれたとして、君、それを信じられるか。赤玉が入ってるって知ってるのに、そのなんの根拠もないただの思いつきを信じられるか。そこまで自分が信用できるか」
「あー……まあ、多分無理だな。でも、そこで直感信じるのが超能力者って奴なんじゃないのか」
「だとしたら、僕は多分、超能力者に向いてないんだよ」
「そのくせレベルは八なんだから笑えるよな」
「僕にとっちゃ笑い事じゃないよ。宝の持ち腐れ――あ、先生来たぞ」
教室前方の扉を静かに開け、春川準教授がその鋭利な長躯を現した。
「もうそんな時間か。お互い、単位落とさねえように頑張ろうや。どうせ必修じゃねえから落としても問題ねえけど、やるからには徹底的にやらなきゃ気分が悪いしな」
二〇〇七年二月二日金曜日。
自宅二階の自室で寝ていた黒尾が起床したのは午前十時のことだった。普段の生活リズムと比較するとやや遅い目覚めだが、今日の講義は午後からだ。多少寝坊したところで咎める者はいないし咎められる筋合いもない。
布団の上で軽く伸びをした後、「影響圏」のそれに匹敵するようにすら思える冬の寒さに震えながら、黒尾は寝間着姿のまま自室を出た。なるべく足音を立てないよう、忍び足で階段を下りる。彼は静けさを愛し、騒がしさを憎む。自分の足音も含め、物音が嫌いなのだ。
洗顔を済ませて茶の間に向かうと、母が寝転がりながらワイドショーを見ていた。母は視線をテレビから黒尾に移し、畳の上を指差した。
「おはよう。あんたに手紙来てるよ」
「手紙?」
見ると、封筒が無造作に転がされていた。
何気なく手に取って息を呑む。差出人は「株式会社ITO人事部新規採用係」だった。
母親が身を起こした。
「あんたがこないだ言ってた就職のあれじゃない?」
「あ、うん、そうだよ……先月に出した奴」
「ねえ、どうだったの」
「ちょっと待ってよ。まだ封も切ってないんだから……」
「早くしなさいよ」
「だからちょっと待ってって言ってるだろ」
急かす母親をなだめ、黒尾はペーパーナイフで封を切った。
中身を取り出す前に深呼吸をする。順当にいけば書類選考は問題なく通過できる。そう思ってはいても、やはり結果を確かめるのは恐ろしくて堪らなかった。多分受かっているだろうが、万が一落ちたとしたら、と考えるだけで心臓が停まりそうだった。
数秒瞑目し、遂に彼は決意した。震える指を叱咤し、封筒の中から結果通知書を引き摺り出した。
折り畳まれたそれを息をすることすらも忘れて凝視しながら、ゆっくりと開いていった。
文面に目を通す。
思わず「ああっ!」と声を上げた。
「どうしたの!? 落ちたの!?」
黒尾は胸を撫で下ろしながら母に答えた。
「違うよ。通ったんだよ、書類選考」
「やったじゃない! 今夜は御馳走作らなきゃね! そうだ、お父さんにも知らせなきゃいけないわね!」
母親は息子が夢に一歩近づいたことを素直に喜んでくれた。黒尾はそのことを嬉しく思った。一次試験合格通知を受け取ったこと以上に。
どう取り繕おうとも、探険士がろくでもない職業であることは否定できない。
まず主な職場となる「影響圏」は、死者・行方不明者の年間総数が千人を下回ったことのない、平均して一日に三人弱が命を落とす危険地帯だ。「汝等ここに入る者一切の望みを棄てよ」などとその周囲を囲む防壁に落書きされたことさえある。
また社会からは、その経済的・産業的な価値こそ認められてはいるが、結局のところは武装したごろつきや役に立つならず者として見られることが多い。上流階級の会合に顔を出せば確実に嫌な顔をされる身分だ。
そして、死ぬ思いで「影響圏」を駆けずり回り、社会から半ば白い目で見られながら働いた末に得られるのは、多くの場合、もっと安全で快適な仕事でも楽々と手に入れられる「人並みの生活」以下の生活だ。探険を通じてアメリカンドリーム並みの成功を勝ち取れる者はいない。考え様によっては、安保闘争期の自衛隊員以上に苛酷な職業だと言える。少なくとも自衛隊員は生活そのものは保証されているのだから。
そんな道に進もうとした息子を、両親は嫌な顔一つせずに祝福してくれた。実にありがたい話だ。家族が自分の夢を認め、応援してくれている。これほど心強いことはない。超能力に目覚めてしまった厄介者を、今と違って超能力者の育て方など確立されていなかったにも関わらず、「普通の子」である妹と分け隔てなく、それでいてその特別な事情への配慮を忘れずに育ててくれたこと、他にも色々なことと併せて、母には――無論父にも――どれだけ感謝してもし足りない。
通知書には簡潔な挨拶文と共に、彼が書類選考に合格した旨、試験日程、受験時に持参する物等が書かれていた。次の試験は今月十五日から月末までを目安に実施するらしかった。
「ねえ、久郎くんと美幸ちゃんにも教えたげなさいよ」黒尾が試験についての諸々を考えていると、母親が世話焼きおばさんの口調で言った。「こないだあの子達に会ったけど、あんたの結果、気にしてるみたいだったよ」
「うーん……じゃあ、ちょっと電話してみようかな」
黒尾は携帯電話を取り出し、武智の携帯電話にかけた。
「あ、司郎か。どうした」
既に起床していたらしく、武智はすぐに出た。
「ITOからの返事が届いた」
「受かったか」
黒尾が落とされることなど考えてもいないような口振りだ。
「うん、通った。レベル八は伊達じゃないよ」
「そっか。なら、あとは実地と面接だよな。最後まで気ィ抜くなよ」
武智の声は心配そうだった。
危なっかしい子供のような扱いをされているようで少し腹が立ったが、これまでがこれまでだけに、反論のしようがない。実際、危なっかしいのだから仕方がない。
「……わかってる。気をつける」
「そうだ、それでいい。それさえ気をつけりゃ、お前なら大丈夫だ。ああ、そうだ、美幸にはもう言ったか。言ってねえよな。よかったら俺から伝えとくけど、どうする」
美幸のことを思い出し、黒尾は胸の痛みを覚えた。
武智の口から黒尾の進路を聞いた美幸は烈火の如く怒って電話を寄越した。彼女は黒尾の行動を裏切りだと責め、翻意を促して泣き、意気消沈した声音と共に諦めて通話を切った。
気まずい決裂それ以来、話していないし、会ってもいない。話したいとも会いたいとも思っているが、どうしても勇気が出ない。
本当は自分の口から伝えるのが筋なのだろうことは彼も承知していたが、そのために必要な勇気が彼にはなかった。最初の段階で電話をかけ直していれば或いはこうはならなかったかもしれないが、もう遅い。一度逃げると逃げ癖がつく上、状況が悪化して立ち向かうために必要な勇気も増えていく。
「……ならお願いするよ。それじゃ、詳しいことはまた後で、学校に行く時にでも」
黒尾はまた逃げた。
「ああ、それじゃあな」
通話が切られた。
時が過ぎて午後になり、黒尾がそろそろ大学に向かおうと動き始めた頃、彼の携帯電話にメールの着信があった。
発信者が「武智美幸」であるのを見て黒尾は顔を強張らせた。
しかし、メールを開いてみて、その顔も緩んだ。
文面は簡潔だった。
おめでとう。
ただそれだけだった。
それだけのことに黒尾は笑みを深くし、返信を書き始めた。すぐにでも返したかったし、すぐにでも見て欲しかった。
久しぶりのメールにどんなことを書こうかと試行錯誤した挙句、あれこれ考えた長文を削除し、ごく簡潔な文面を返した。
ありがとう、と。
すぐに返信が来た。がんばってね、とあった。
ようやく高校に上がろうかという年頃の少女が示してくれた心遣いを受け、黒尾は――元々そのつもりだが――なんとしてでも合格してやろうと決意を新たにした。
うん。合格したら何かおごるよ。
黒尾はそう返し、軽やかな気分と足取りで玄関へと向かった。
重い荷物から解放されたような気分だった。
2012/01/07:誤字修正。




