後払いより先払い①
・・・・。
誰かの声が聞こえた気がした。
ただ、この類はいつも幻聴だった。
これを理由に至福な眠りから起きる必要なんてない。
そんな思考が巡って、古人女は目を覚ました。
「・・・・・」
頭の重さで小さく凹んだ腕に力を入れて、テーブルに突っ伏していた上体を不機嫌に起こす。
かといって、目覚めるには薄暗く、仄かに赤い光がぼんやりと漂っている―――酒を飲み交わす場所では、起床のスイッチも甘く入るばかりだった。
起きたてぼやぼやとした視界にむず痒くなり、ごしごしと指で目を擦る。薄く浮かぶ涙で眼球を潤し、椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
どのくらい眠っていたのだろう。あくびをかまして辺りを見渡す。
木目調に彩られた漆喰の壁と酒瓶を並べる大きな木棚。カウンターの横に掛けられた店の看板を成す幾何学的なタペストリーは、これがいい味を出すのだと言わんばかりに酒の香りで色褪せていた。
一階と二階に分けられた空間を繋ぐ階段には、古地図や記事やロゴの切り抜き、名も無き絵画やアンティークなどが飾られていた。恐らくは非売品なのだろう、不器用に剥がした値札のシール跡が目立っている。
常に開放されたままの不真面目な扉は、砂混じりの風を素通りさせていた。客も酒場も悪戯に砂まみれにしているというのに、当事者の蝶番はキィキィと声を立てて笑っている。
身体に付いた砂をパッパッと払った古人女は、丸々とした輪郭をしていた。枯れ葉色にくすんだ羽織を着て、項まで伸びたカーキ色の髪を小さく束ねている。焦げ茶色の瞳と肌色に近しいニッカズボン、足底に半金属を縫い合わせた足袋靴。派手な色は好みじゃないと主張する様相だった。
そんな古人女の醸し出す地味さに合う酒場ではないものの、酒場のマスターは別段にドレスコードを求めていないようだった。
「アイリ王、還ったってね」
酒場で酒一つ頼まず、サービスで差し出したミルクにも口をつけないまま居眠りした古人女へ、マスターは誰にでも伝わる話題を切り出した。
「決して善い王ではなかったけれど」
柔和な触手でジョッキを丁寧に拭きながら、仄かに黄色みを帯びた軟人マスターは瞳のない円らな眼を揺らした。
「いなくなってしまうのは、誰であれ寂しいものだね」
還る、という言葉は、婉曲的な死を意味していた。
そう、アイリ王は、死んだのだ。
「どうでもいい、というか・・・何というか・・・」
「お嬢さん、お国は?」
「今はもう無いの」
「此処から遠いところかい?」
「遠いよ。遥か遠く。引き返す道さえ残っていない。
旅立ちと共に消え失せたから、故郷と思う程の愛着は・・・ないんだけど」
関節のない柔らかな首を90度近く折り曲げ、顔からぴょっこり、と角のように伸びた目を左右に広げた。
「あんまり困らせてやるなよ」
「?」
どこからともなく溜息の交じった高い声がするもので、キョロキョロと声の主を探し始めるマスターの目に「ここだぜ」白く、小さく、丸っこい竜人が現れた。
「申し訳ない。お客さんに気付かなかったとは」
「構うもんじゃないさ。気にすんな」
「そう、気にする大きさじゃあ、ないんだから」
手のひらサイズでしかない竜人を「おぅ」抓みあげて頭の上に乗せると、古人女は頬杖をついた。
「実はちょっとね、誰かさんを待っていたりして
ここまで長く待たせる嫌味な奴に財布を開けさせたいんだけれども
もう少しだけ此処で待たせてくれる?」
来店するなり爆睡した古人女の思惑が知れてほっとしたように、マスターは呼吸をする口の一つから溜息を漏らした。彼女の返答は、案の定であった。
「勿論。
ここは公共の場ではないけれど、それと同等に色んな人が来て欲しいと思っている。
それに、今は『夜』だからね」
そんなこんな、他愛のない会話をしてからかなりの時間が流れた。
夜の闇が遠くに消え、朝が訪れてようやく。
「これしかないけど、ごめんね」
今の今迄に何を頼みもせず、サービスのミルクに口を付ける事もなく眠り続けた古人女は颯爽と立ち去った。
ベッドと化していたテーブルの上に置いてあったのは、侘しい革袋と貨幣だった。
「うちは宿屋じゃないんだけどなぁ・・・」
「漂う酒気に酔って熟睡して、結局、何も頼まないで帰る。
酒場を宿屋にして、良心の呵責に苛まれる事はないのか?イヴァルノン」
頭に小さな竜人を乗せた古人女―――イヴァルノンは睡眠不足が解消されて軽やかになった足を弾ませて、日のある方向へ歩いていた。
「ちゃんとお金は置いて来たじゃないの。お陰で一文無しだけど」
そう言って透明な球体を曲がりくねる木の先に絡めた風変わりな杖を肩に掛けた。
「贅沢していいもんばっか食うから、財布ばかり痩せるんだ」
「つまみ食いが主食のくせによく言うよ。」
枯れ色の小さな草木がぽつぽつ生えるひび割れた大地で、赤い砂風は波の如く地面を滑り蠢く。
「あーあ、自分でどうも出来ずに悩んでいる奴はいないかな?潤沢な資金を携えて」
「金持ちが舗装されていないこんな道を歩いて来るもんか。荷車が通れる全うな道なら狙い目かもしれねぇけどよ」
「そんな道なんて見当たらないんだけど」
「俺に文句を言うなよ。周辺地図一つ買えねぇ懐の無さを嘆くこったな。」
他愛もない二人の会話が風に掻き消される荒涼とした大地には均された道がなく、裂け目や凹凸ばかりで、表札一つに出会うのも稀だった。
「歩きづらいし、風は淀んでいるし。
はあ・・・大自然様がふて腐りになっていらっしゃる・・・お、っと」
イヴァルノンが呆れた様子で溜息を吐くと、背中を突き押すような突風が吹き抜けた。
「荒んだ風め、ド突いて来るとは」
「いんや、ド突いたんじゃないみたいだぜ?
前を見ろ、って事だろうよ」
「前?」
言われるままに顔を上げてみると、閑散とした大地に立つ塔が谷の間から現れていた。
遠近法を考慮してもそこまで高くはないようだ。その塔の周りには町もある。
「少し急げば夜になっちまう前に辿り着けそうだな」
「オセットが自分の足で歩くなら、もう少し早く着けると思うんだけど」
「馬鹿を言うなよ」
そう言ってイヴァルノンの頭の上で寝転ぶ体勢を変えた白玉竜人―――オセットは『へ』の字に口を捻り曲げた。
「俺様を置いて行くつもりか」




