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Dear  作者: 雨神
片翼だった蝶。
52/62

8-5



 聞こえた声にしっかりと向くと、自分の髪がさらりと揺れた。


 同時に虚空の瞳にだって、しっかりと“救ってくれるひと”の顔が映る。


 息を切らして、ものすごく顔色の悪いそのひとの顔……表情の名前を律は知っていた。


 あれは、他人を、だれかを思いやる表情。眉を下げて、はらはらと落ち着かなくて、何かせずにはいられなくて、でもやり方がわからない。だけどがむしゃらでも無謀でも良いから、どうにかはらはらを抱かせる対象者を助けようとしている……あれは『心配』の顔だった。


 ほんの少し前に母だったひとが自分に向けていた感情。頭が酷く痛くなる。違うんだ。今はその表情も心もいらない。


 ただただどうか楽にしてほしい。助けてくれるひとだと聞いたから、姿なき声たちが言っていた目の前の暗い紫色の……紫暗色の瞳のひとに、だから訊いたのだから。


 とても苦しそうに……辛そうにしている目の前の彼はいたたまれない、やるせない表情にかわった。


 どうしてそんな顔をするのだろうと、律は不思議だったのだけどそれは先ほど聞こえた声を思い出してあっさりと納得に変わる。


 そうか、このひとは優しいのひとなんだ。だから、こんなに心配の顔をするんだ、と。律ははじめて頭がすんと冴えたようにすっきりとしていた。


 ……そう言えば自分が混乱すると母はまるで自分のことのように捉えて混乱してくれていた。その姿を見るとみるみるうちに頭が冷えて、こんがらがった感情の糸たちがみるみる間にするりと解けていって間違っていても、自分なりの考えを纏めることが出来ていた。これもそのときと同じなのだろう。


「…………。………はじめまして、俺の名前は、優なんだ」


 唐突に、律の質問には答えずに、ふんわりと微笑みながら自分の名前を名乗った。


 とても優しい響きの名前。だから彼は優と言う名前なのか、と幼いながらに合点がいって、すごくすごく当たり前のように受け入れられた。むしろ目の前のこのひとに優と言う名前以外にふさわしい名前があるのだろうか?


 逢えただけでも、救われたような気さえした。それだけでうれしかった。


 だけど優と名乗った彼は、手を差し伸ばした。差し伸ばしてきて、苦しいだろうに、顔色の悪さを隠しきれないままに、微笑みを絶やさない。


「きみの、名前は?」


「…………なくなった」


 絶やさないでそう訊いてきた。正直拍子抜けで予想すらしていなかった問いかけに幼い律は驚いた。


 名前と聞かれて、数時間前までは持っていた日常的と言う世界の中で呼ばれていた名前はこの翼が生まれた途端に消えてしまっていたことに気づいた。翼が、この水色の翼が思い出たちを壊してしまったのと同じように名前まで壊してしまったのかもしれない。今から思い出せと言われたところでもう思い出せやしないことを、幼い律はわかっていた。


 ……そう…と優は哀しそうに微笑んで、また何かを背負ってしまったかのように更に顔色を悪くしてしまった。  


 ああ、でも……名前はないけれど、自分が何と呼ばれるべき存在かは知っている。


 恐ろしいまでに澄んだ頭は、自然とその名前を口にした。


「……あくま…」


 そう、悪魔だ。先ほどもぽつりと呟いたその名前。細かく言うならばそれは個人を指すものではないのだから属称と言うべきなのだろう。


 そう、自分は悪魔だった。紛れもない悪魔だった。


 だれかに害しか与えることが出来ずに、それ以外には何もできない悪魔。


 いつか読んだ絵本の中に出てきたような悪魔。だれかに意地悪ばかりをして悪い方向へ方向へ促すことばかりで、それに共感し、うまく促せたら喜び、逆に導き損ねたら心底悔しくなって、大事なことを壊してしまうことばかりしか出来ない存在。


 この壊された……自らが壊してしまった家を見れば一目瞭然だ。恐れない者は……根拠はないけれど、きっと目の前で手を差し伸ばしている優くらいなものだろう。


 たくさんの声たちが言うように“救ってくれるひと”ならば、どうかお願い。


「ゆうさん?どうやったら、ぼくは」


「……じゃ、ない」


 ふるり、と体を震わせた優に、幼い律は問いかけようとしていた言葉を止めた。正確に言うならば止めてしまった、がきっと正しいのだろう。


 幼い故に見たことがなかったが、肌が感じていた。


 芯の震え。青い炎よりも太陽よりも熱い熱い熱。身体中が強張るほどの高い感情。


 幼い律は、優がこのときに宿していた感情の名前を後に知る。


「悪魔じゃないって……さっきも言っただろうっ!きみにだって今までに逢った“彼ら”だって感情が!心があるんだっ!」


 この感情が、


「どうしてそんな簡単なことがわからないんだっ!」


 激昂。


 と言う名なのだと言うことを。


 怒鳴り声にびりびりと足元に雷が走ったかのようだった。


 その声は数多の“あい”を含み、裏表のない真っ直ぐな感情で、どこまでもどこまでも優しいこのひとだからこそ描くことの出きる表情で心なのだと、


 底の底から、そう思えた。







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