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けもの係の事件メモ  作者: 秀人


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10/10

けもの係の事件メモ

元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。


『けもの係の事件メモ』第十話、最終話です。


今回の相談は、河川敷の再整備計画。


人間にとって安全で使いやすい場所にすること。

動物たちの通り道や隠れ場所を、急になくさないこと。


そのどちらも簡単ではありません。


鹿野蒼と朝倉実央は、これまで関わってきた動物たちの記録をもとに、人間と動物が同じ町で暮らすための地図を作っていきます。

けもの係の事件メモ


朝倉実央は、市役所生活環境課の会議室で、分厚い資料を前にしていた。


表紙には、こう書かれている。


河川敷再整備計画説明資料。


実央は、その文字を見てから、窓の外へ目を向けた。


市役所の三階からは、遠くに川が見える。


住宅街の屋根の向こうを、細く光る水面が抜けていく。


犬の散歩道。

狐の足跡が残っていた草むら。

犬笛の音が鳴った橋の下。

ムギが見ていた河川敷。

悠真が狐の写真を撮った場所。


いつの間にか、その川沿いは実央にとって、ただの地図上の緑地ではなくなっていた。


誰かの暮らしがあり、犬の散歩があり、鳥の声があり、草むらの中に見えない道がある場所だった。


「朝倉さん」


課長の声で、実央は資料へ視線を戻した。


会議室には、生活環境課の職員だけでなく、都市整備課、公園緑地課、地域振興課の職員も集まっている。


議題は、河川敷の再整備計画について。


老朽化した遊歩道の補修。

夜間照明の増設。

草むらの一部撤去。

防犯カメラの設置。

小さな広場の整備。

ペット散歩利用者向けのマナー掲示。

野生動物への餌やり禁止の周知。


どれも、必要なことに見えた。


実際、必要なのだろう。


夜道が暗くて怖いという声がある。

草が伸びすぎて見通しが悪いという声がある。

不法投棄がある。

犬の散歩マナーに苦情がある。

野生動物への餌やりをやめてほしいという相談もある。


それらを整えることは、市役所の仕事だった。


ただ、資料の中の一文が、実央の目に引っかかっていた。


管理上支障となる低木・雑草地帯は、原則撤去とする。


原則撤去。


その言葉は、やけに簡単だった。


都市整備課の職員が説明を続けている。


「見通しを確保することで、防犯上の効果が期待できます。また、害獣の潜伏場所を減らす意味でも、草むらの整理は必要です」


害獣。


実央は、その言葉をメモしなかった。


書きたくなかった。


課長が実央を見る。


「朝倉さん、生活環境課として何かありますか」


実央は少しだけ背筋を伸ばした。


「犬の散歩利用者への周知、野生動物への餌やり防止、不法投棄対策については必要だと思います。ただ、草むらの一律撤去については、少し確認したいです」


都市整備課の職員が眉を上げる。


「確認?」


「この場所では、狐やタヌキ、野鳥などの利用が確認されています。すべてをなくすと、動物の移動経路や隠れ場所が急に失われる可能性があります」


「しかし、そこまで配慮していたら整備が進みません」


「進めないという意味ではありません」


実央は資料を見た。


「どこを残し、どこを刈るか。時期や範囲を調整できないか、専門家の意見を聞きたいです」


課長が頷いた。


「けもの係の鹿野さん?」


実央は少しだけ間を置いた。


「はい」


会議室の何人かが、ああ、という顔をした。


最近、生活環境課の案件で何度か名前が出ているからだ。


犬の騒音。

猫の転落。

カラス被害。

水槽の相談。

インコの迷子。

狐の足跡。

うさぎの飼育小屋。

犬笛の件。

動物園の相談。


鹿野蒼。


ペット行動相談所「けもの係」の人。


市役所内での認識は、おそらくそんなところだ。


都市整備課の職員が言った。


「ペット相談の方ですよね。野生動物や整備計画まで見られるんですか」


実央は、少しだけ表情を引き締めた。


「元動物園飼育員でもあります。現地を見たうえで、生活環境課として意見を伺いたいです」


自分でも、以前よりはっきり言えたと思った。


鹿野ならどう見るか。


それを知りたい。


そして、鹿野の見方を市役所の手続きに通すのは、自分の仕事だと思った。


会議のあと、実央はけもの係へ向かった。






けもの係の入口には、いつもの黒板が出ていた。


ペット行動相談、承ります。

犬・猫・鳥・その他。

人間の相談は応相談。


その下に、小さくチョークで書き足されている。


野生動物は距離を取って見てください。


実央はその文字を見て、少し笑った。


扉を開けると、ベルが鳴る。


店内には、紙と木と、少しだけ動物の匂い。


鹿野蒼は、机の上に地図を広げていた。


実央が何か言う前に、鹿野は顔を上げた。


「河川敷ですね」


実央は足を止めた。


「なぜわかるんですか」


「市役所の人が、資料を両手で持って深刻な顔で来たので」


「私、深刻な顔をしていましたか」


「してました」


「そうですか」


実央は資料を机に置いた。


「河川敷再整備計画です」


鹿野は地図を見た。


「やっぱり」


「知っていたんですか」


「噂は聞いてます。犬の散歩の人たちも話してました」


鹿野は地図の一角を指した。


「ここ、草むらを削る予定ですね」


「資料では、見通し確保のために原則撤去と」


鹿野の目が少し細くなった。


「原則」


「便利な言葉です」


「便利すぎます」


実央は椅子に座った。


「鹿野さんに、現地を見てもらいたいんです。市として計画を止めるという話ではありません。ただ、どう整備すれば人間にも動物にも過度な負担が出にくいか、意見が欲しいです」


鹿野は、地図の上に置いていた鉛筆を取った。


そこには、すでにいくつかの印がついていた。


「これ、鹿野さんが?」


「はい」


「何の印ですか」


「犬の散歩ルート、狐の足跡、タヌキの目撃、カラスの巣があった木、猫がよく通る塀、夜に暗い場所、不法投棄があった場所」


実央は、地図を見つめた。


細かい。


市役所の資料より、ずっと生活に近い地図だった。


そこには、行政区分や整備範囲だけではなく、犬が立ち止まる場所、子どもが草むらを覗く場所、猫が塀から降りる場所まで書かれている。


「いつから作ってたんですか」


「けもの係を始めてから、少しずつ」


「すごいですね」


「必要だったので」


鹿野は平然と言った。


「市役所の地図には、動物の道が載ってないので」


実央は、その言葉を黙って受け取った。


市役所の地図には、動物の道が載っていない。


確かにそうだった。


道路。

公園。

水路。

住宅。

用途地域。

管理区域。


人間の使い方は書いてある。


けれど、犬が怖がる橋の下も、狐が通る草むらも、カラスが覚えた店も、猫が通れないベランダも、魚が休めない水槽も、地図には載らない。


だから、見落とす。


鹿野は地図を折りたたまず、鞄に入れた。


「行きます」


「今からですか」


「現地は逃げませんけど、暗くなる前に」


実央は資料を鞄にしまう。


「私も行きます」


「市役所の人として?」


「はい」


鹿野は少しだけ実央を見る。


「けもの係側の人としても?」


実央は一瞬、答えに詰まった。


それから言った。


「今日は、市役所の人としてです」


「そうですか」


「でも、少しは、けもの係側の見方もできるようになりたいです」


鹿野は、小さく頷いた。


「かなりいいです」


「今日は、ずいぶん素直に褒めますね」


「そうですか」


「いつもは、もう少し雑です」


「そうでしたか」


「自覚ないんですね」


「たぶん」


「そこはいつも通りですね」


実央は咳払いして、先に扉を開けた。






河川敷は、夕方前の光に包まれていた。


犬の散歩をする人。

自転車で通る高校生。

ベンチで休む高齢者。

草むらの向こうで鳴く鳥。

橋の下で反響する川音。


一見、いつもと変わらない。


だが、鹿野は地図を片手に、いつもよりゆっくり歩いていた。


「ここは残したほうがいいです」


最初に鹿野が指したのは、遊歩道から少し外れた草むらだった。


実央は資料を見る。


「ここは撤去予定範囲です」


「狐とタヌキの通り道になってます。全部残す必要はないけど、一直線に刈ると隠れながら移動できなくなります」


「部分的に残す?」


「はい。帯状に残す。あと、刈る時期を繁殖期からずらす」


実央はメモを取った。


「ここは?」


「ここは刈ったほうがいいです」


「残すんじゃないんですか」


「不法投棄が多い。人が隠れられる。犬も警戒しやすい。残す草と刈る草を分けます」


実央は顔を上げた。


「鹿野さん、全部自然のままにしろとは言わないんですね」


鹿野は少し不思議そうに実央を見た。


「言いません」


「そうなんですね」


「人間も暮らしてるので」


その言葉は、短いが大事だった。


動物だけを守るのでもない。


人間の都合だけで整えるのでもない。


どちらも、この場所にいる。


鹿野は川沿いの低木を指した。


「この辺は、野鳥が使います。全部なくすと、カラスや鳩だけが残りやすいです」


「どういうことですか」


「強い種や、人間環境に慣れた種だけが残ることがあります。小さい鳥が隠れる場所がなくなる」


「なるほど」


「きれいにしすぎると、生き物の種類が減ることがあります」


実央はメモした。


きれいにしすぎると、生き物の種類が減る。


市役所の資料には、そういう言葉はなかった。


歩いていると、向こうから小学生の少年が走ってきた。


悠真だった。


以前、狐の足跡の型を作った少年だ。


悠真はカメラを首から下げている。


「鹿野さん!」


「走ると転びます」


「転ばないです」


そう言った瞬間、悠真は少しつまずいた。


実央は思わず手を伸ばしかけたが、悠真は踏みとどまった。


鹿野は言った。


「ほら」


「転んでないです」


「転びかけました」


悠真は悔しそうな顔をした。


「今日は何を撮ったんですか」


実央が聞くと、悠真はすぐにカメラを見せた。


「タヌキです。昨日の夜、お父さんと一緒に見ました」


画面には、少しぼやけた茶色い影が写っていた。


川沿いの草むら。


丸い体。


短い足。


鹿野は画面を見て頷いた。


「タヌキですね」


悠真の顔が明るくなる。


「本物ですよね」


「本物です」


「やった」


悠真は嬉しそうに笑った。


「市役所に記録として出したほうがいいですか」


実央は頷いた。


「はい。場所と時間も一緒に教えてください」


「書いてます」


悠真はポケットから小さなノートを出した。


日付。

時間。

天気。

見た場所。

一緒にいた人。


思ったよりしっかり書いてある。


鹿野が言った。


「いい記録です」


悠真は少し照れた。


「型は作ってません」


「それがいいです」


「はい」


悠真は、少し真面目な顔になった。


「この草むら、なくなるんですか」


実央は答えに迷った。


鹿野が代わりに言った。


「全部なくならないように、今見てます」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんかあ」


悠真は不安そうに実央を見る。


実央は、資料を抱え直した。


「全部をそのままにするのは難しいです。でも、記録があれば、残す理由になります。悠真くんの記録も、ちゃんと参考になります」


悠真の目が少し大きくなった。


「僕のも?」


「はい」


「子どもでも?」


「見たものが本当なら、子どもでも大事な記録です」


悠真は、カメラを握りしめた。


「じゃあ、ちゃんと撮ります」


「安全に、大人と一緒に」


鹿野がすぐに付け加える。


「わかってます」


悠真は、少しだけ笑って走り出しかけた。


鹿野が言う。


「走らない」


悠真は歩いた。


かなり早歩きだった。


実央はその背中を見送った。


「いいですね」


「何がですか」


「本当の記録」


鹿野は草むらを見た。


「嘘より役に立ちます」


その通りだった。






再整備計画への意見交換会は、週末の午後に行われた。


場所は、河川敷近くの地域センター。


住民、犬の散歩利用者、町内会、学校関係者、商店街の人、都市整備課、公園緑地課、生活環境課。


思っていたより多くの人が集まった。


実央は前に立ち、資料を配った。


鹿野は隣で、地図を広げている。


市役所の整備図と、鹿野の生き物地図。


二つの地図を並べると、同じ場所なのに見え方が違った。


一方には、工事範囲や照明計画がある。


もう一方には、犬の散歩ルート、野生動物の目撃地点、鳥が使う低木、夜に人が不安を感じる場所、不法投棄が多い場所がある。


実央は説明を始めた。


「今回の整備計画は、防犯、歩行者の安全、不法投棄対策、ペット散歩マナーの向上などを目的としています。一方で、この河川敷は、地域の方々だけでなく、さまざまな生き物も利用している場所です」


住民たちが地図を見る。


「そこで、草むらを一律に撤去するのではなく、見通しを確保する場所と、生き物の移動経路として残す場所を分ける案を検討します」


都市整備課の職員が続けた。


「現時点では、計画を一部見直す方向で調整中です。照明の追加場所、低木の残し方、草刈りの時期についても、再検討します」


会場が少しざわついた。


犬を連れた住民が手を上げる。


「でも、草が多いと虫も増えるし、夜は怖いです」


実央は頷いた。


「はい。そのため、通路沿いや階段付近は見通しを確保します。すべてを残すのではなく、必要な場所は刈ります」


別の住民が言う。


「野生動物が増えたら困るんじゃないですか。タヌキとか狐とか」


鹿野が口を開いた。


「増やすためではありません」


会場が静かになる。


「今いる生き物を、急に行き場のない状態にしないためです。草むらを全部なくすと、かえって住宅地側へ出てくる可能性もあります」


「なるほど」と誰かが呟いた。


鹿野は続ける。


「餌をやらない。ゴミを放置しない。近づかない。写真を撮るときも距離を取る。人間側がそういうルールを守ることも必要です」


商店街の青葉正吉も来ていた。


カラス被害の件以来、少し考え方が変わったらしい。


「ゴミの出し方は、商店街でも見直します。カラスに覚えられないようにね」


何人かが笑った。


まつば惣菜店の松葉辰夫は来ていなかったが、佳代が小さく頭を下げていた。


学校の相沢先生もいた。


「子どもたちの観察活動にもつなげられるといいですね。ただし、触らない、近づきすぎないという指導も一緒に」


鹿野は頷いた。


「大事です」


ムギの飼い主の晴江も来ていた。


「犬の散歩をする側も、気をつけます。ムギも草むらに入りたがるので」


その横で、ムギが大きな体を伏せていた。


実央を見ると、尻尾を一度振る。


実央は小さく会釈した。


もう、鞄を盾にしなかった。


ただ、少しだけ距離は取った。


それくらいが、今の実央にはちょうどよかった。


話し合いは、すぐにすべてがまとまったわけではない。


意見は割れた。


草を減らしたい人。

残したい人。

犬の散歩道を広げたい人。

自転車を通しやすくしたい人。

子どもが安全に遊べる場所が欲しい人。

夜道を明るくしてほしい人。

野生動物をそっとしておきたい人。


人間だけでも、都合は一つではない。


そこに動物の居場所まで考えるなら、簡単に答えは出ない。


けれど、少なくとも、最初の資料にあった「原則撤去」という言葉だけでは済まなくなった。


それは、小さくても大きな変化だった。






意見交換会の終わり際、ひとつの騒ぎが起きた。


地域センターの外で、子どもたちが声を上げた。


「タヌキ!」


その言葉に、会場の何人かが立ち上がる。


実央も外へ出た。


駐輪場の向こう、植え込みのそばに、茶色い小さな影がいた。


タヌキだった。


体は丸く、足は短い。


だが、様子がおかしい。


少しふらついている。


近くには、パンの袋が落ちていた。


誰かが捨てたものか、持っていたものを落としたのか。


子どもたちが近づこうとする。


鹿野の声が飛んだ。


「近づかない」


低いが、よく通る声だった。


子どもたちが止まる。


鹿野はゆっくり前へ出た。


「触らない。追わない。写真を撮るなら離れて」


実央もすぐに周囲を整理する。


「皆さん、少し下がってください。道を空けてください」


タヌキは、植え込みの陰に入ろうとしている。


足取りは重い。


鹿野は距離を保って観察した。


「怪我ではなさそう。何か食べたか、弱ってるか」


「保護しますか」


実央が聞く。


鹿野はすぐには答えなかった。


「野生動物なので、むやみに捕まえるのは避けます。でも、明らかに動けないなら関係機関へ連絡」


実央はすでに電話を取り出していた。


「鳥獣担当と連絡します」


「お願いします」


そのとき、住民の一人が言った。


「ほら、やっぱり出てくるじゃないか。草むらなんか残すから」


別の人が反論する。


「まだ整備してないでしょう」


ざわつきが広がりかけた。


鹿野が、落ちていたパンの袋を指した。


「これ、人間の食べ物です」


会場の空気が止まる。


「野生動物が人の近くへ来る理由は、草むらだけではありません。食べ物があるから来ることもあります」


実央は袋を見る。


中には、甘い菓子パンの残りがあった。


鹿野は続ける。


「草むらをなくしても、食べ物を捨てれば来ます。餌をやれば来ます。ゴミを放置すれば覚えます」


その言葉に、何人かが黙った。


「動物の居場所を考えることと、人間側の管理をすることは、両方必要です」


実央は、鹿野の横で電話をつないだ。


関係部署の指示を受ける。


タヌキはしばらく植え込みの陰で休んだあと、ゆっくりと立ち上がり、河川敷のほうへ歩いていった。


追わない。


触らない。


騒がない。


鹿野の言葉で、周囲の人たちは距離を保った。


タヌキは土手の草むらへ入り、やがて見えなくなった。


その姿が消えるまで、誰も大きな声を出さなかった。


実央は、息を吐いた。


「行きましたね」


鹿野は頷いた。


「行きました」


悠真が、少し離れたところでカメラを構えていた。


だが、鹿野の言いつけ通り、追わなかった。


遠くから撮っただけだった。


「撮れた?」


実央が聞くと、悠真は頷いた。


「ぼやけたけど」


「ぼやけてても、距離を守ったならいい写真です」


悠真は嬉しそうにした。


その横で、ムギが低く鼻を鳴らした。


実央はムギを見る。


「ムギも見てましたね」


ムギは尻尾をゆっくり振った。


鹿野が言う。


「ムギは追いませんでした」


晴江がムギの頭を撫でる。


「えらいね」


鹿野は少しだけ頷いた。


「人間も」


実央は、その言葉に小さく笑った。


確かに、今日は人間も少しだけ、えらかったのかもしれない。






再整備計画は、少し形を変えて進むことになった。


遊歩道と階段周辺は明るくする。


不法投棄が多い場所は見通しを確保する。


犬の散歩マナー掲示を増やす。


餌やり禁止とゴミ持ち帰りを徹底する。


一方で、川沿いの一部の低木や草むらは、帯状に残す。


草刈りは時期をずらし、一度に全部を刈らない。


子ども向けに、野生動物との距離の取り方を伝える観察会を行う。


その資料の一部は、鹿野と実央が一緒に作った。


見出しは、実央が考えた。


動物と暮らす町のために。


鹿野は最初、それを見て少し黙った。


「どうですか」


実央が聞くと、鹿野は言った。


「少し市役所っぽいです」


「市役所の資料なので」


「でも、悪くないです」


「かなり?」


「かなり」


実央は、少しだけ笑った。


資料の最後には、小さくこう書いた。


動物を見かけたときは、近づきすぎず、餌を与えず、静かに距離を取りましょう。

困ったときは、市役所生活環境課またはペット行動相談所けもの係へご相談ください。


実央はその一文を見て、少し不思議な気持ちになった。


市役所生活環境課。


ペット行動相談所けもの係。


その二つが、同じ行に並んでいる。


最初に鹿野と会ったとき、こうなるとは思わなかった。


犬が苦手な市役所職員と、服に毛をつけたぶっきらぼうな相談員。


合うはずがないと思った。


今でも、合っているのかはよくわからない。


鹿野は書類が雑だし、言い方も時々行政向きではない。


実央は動物が苦手だし、すぐ手続きの話をする。


でも、それでよかったのかもしれない。


鹿野だけでは、市役所の会議室には届かないことがある。


実央だけでは、草むらの中の足跡には気づけないことがある。


二人で見るから、少しだけ違う地図が作れる。






数日後、けもの係の前に新しい地図が貼られた。


鹿野が作った河川敷の生き物地図を、実央が市役所向けに少し整理したものだった。


犬の散歩ルート。

野鳥が見られる場所。

狐やタヌキの目撃地点。

餌やり禁止の注意。

暗いので注意する場所。

草むらを残す予定の場所。

ごみを捨てないでください、という文字。


地図の隅には、小さなイラストが描かれている。


ムギに似た大きな犬。

ミソに似た白黒猫。

カラス。

小さな魚。

インコ。

狐。

うさぎ。

ハル。

モルモット。

タヌキ。


実央はそれを見て言った。


「鹿野さん、このイラスト、意外と上手ですね」


「描いたのは悠真くんです」


「なるほど」


「私は配置しました」


「配置も大事です」


「市役所っぽいフォローですね」


「最近、けもの係っぽいと言われたので、戻しました」


鹿野は少し笑った。


そのとき、店の前を晴江とムギが通った。


ムギは地図の前で立ち止まり、自分に似た犬の絵を見た。


そして、実央を見た。


実央は少しだけ身構えたが、以前のように鞄を抱えたりはしない。


「こんにちは、ムギ」


ムギは尻尾を振った。


鹿野が言う。


「かなり好きです」


「今日は断定ですか」


「かなりなので」


「犬の好感度基準、まだわかりません」


「慣れです」


「慣れるんですか」


「朝倉さん、だいぶ慣れました」


実央はムギを見た。


大きな体。

優しい目。

太い尻尾。


最初は怖かった。


今も少し怖い。


でも、怖いから見ないということは、少し減った。


「慣れたかもしれません」


実央が言うと、鹿野は少し満足そうに頷いた。


「いい傾向です」


「最後までそれですね」


「便利なので」


「でしょうね」


晴江が笑い、ムギと一緒に河川敷へ向かって歩いていった。


ムギの足取りはゆっくりで、落ち着いていた。


その背中を見送ってから、実央は地図を見た。


「鹿野さん」


「はい」


「けもの係の事件メモって、何を記録してるんですか」


鹿野は少し考えた。


「相談記録です」


「それは知っています」


「動物の行動と、人間の言い訳」


「言い方」


「あと、たまに人間の反省」


「少しだけ良くなりました」


鹿野は店内へ戻り、いつものノートを持ってきた。


表紙には、事件メモとある。


もう何冊目かになるらしい。


鹿野はページを開いた。


犬のせいにしないでください。

猫はそこから落ちません。

カラスは覚えている。

水槽の魚は眠れない。

インコはその言葉を知らない。

狐の足跡はまっすぐ続かない。

うさぎは怯えているだけです。

犬笛は誰に聞こえた。

檻の中にいたのは誰か。


そして、最後のページ。


けもの係の事件メモ。


実央は、その文字を見た。


「自分で事務所名まで入れるんですね」


鹿野が少し怪訝そうにする。


「だめですか」


「いえ。むしろ、まとまっていていいと思います」


「なら、書きます」


実央はごまかすように咳払いした。


鹿野はペンを持つ。


実央は横に立った。


「書くんですか」


「はい」


「見ていても?」


「いいです」


鹿野は、少し間を置いてから書き始めた。


犬は吠えた。

猫は落ちた。

カラスは騒いだ。

魚は休めなかった。

インコは言葉を覚えた。

狐は足跡を残した。

うさぎは噛んだ。

犬たちは聞こえない音を聞いた。

モルモットは隠れた。

タヌキは町の端を歩いた。


どれも、人間のために起きたことではない。


動物たちは、ただそれぞれの理由で動いていた。

人間がそこに、都合や不安や嘘を乗せた。


悪い犬。

勝手な猫。

迷惑なカラス。

静かな魚。

怖い狐。

危ないうさぎ。

見えない音に騒ぐ犬。


そう呼ぶ前に、見ること。


何に吠えたのか。

どこから落ちたのか。

なぜ覚えたのか。

何を怖がったのか。

どこを歩いていたのか。

どこに隠れたかったのか。


けもの係の仕事は、動物の代わりに話すことではない。

動物を人間の物語に合わせることでもない。


ただ、動物が残した行動を見て、人間が勝手に押しつけたものを外すこと。


鹿野はそこでペンを止めた。


実央は、静かに読んでいた。


「いいですね」


鹿野は少しだけ実央を見る。


「市役所の人に褒められました」


「けもの係側の人として褒めています」


鹿野は、ほんの少しだけ驚いた顔をした。


実央は自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。


「半分くらいです」


「半分」


「市役所の人、半分。けもの係側の人、半分」


鹿野は少し考えた。


「いい配分です」


「配分なんですね」


「水槽でも大事です」


「そこで魚が出るんですか」


「出ます」


二人は少しだけ笑った。


けもの係の外では、夕方の河川敷に光が落ちている。


犬の散歩をする人がいる。


自転車で通り過ぎる子どもがいる。


草むらの奥で、何かが動く気配がある。


それがタヌキか狐か、猫か、ただの風かはわからない。


すぐに決めつけなくていい。


まず見る。


距離を取る。


記録する。


必要なら、誰かに相談する。


それだけで、防げる嘘がある。


鹿野はノートの最後に、一行を書き足した。


この町には、人間の道だけではなく、けものたちの道もある。

そのどちらも見落とさないために、けもの係は今日も開いている。


実央は、その一行を見てから、窓の外を見た。


河川敷へ向かう道の先で、ムギが一度だけ振り返った。


遠くの電線で、カラスが鳴いた。


草むらの奥で、何かが小さく動いた。


実央には、それが何かまではわからなかった。


けれど、わからないままでも、見ることはできる。


以前なら、きっと通り過ぎていた。


今は、少し立ち止まる。


それだけの変化を、実央は悪くないと思った。


「鹿野さん」


「はい」


「次に相談が来たら、また呼びます」


「書類は少なめでお願いします」


「必要な分は出します」


「必要な分が多いんですよ」


「市役所なので」


「けもの係なので、減らしてください」


「検討します」


「市役所っぽい」


「市役所ですから」


鹿野は少しだけ笑った。


窓の外では、夕方の町がゆっくり暮れていく。


人間の声。

犬の足音。

鳥の羽音。

川の音。

草の揺れる音。


その全部が、ひとつの町の音だった。


けもの係は、今日も開いている。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


『けもの係の事件メモ』は、これで全十話完結です。


第一話のムギから始まり、猫、カラス、魚、インコ、狐、うさぎ、犬笛、動物園、そして河川敷の再整備計画へと進んできました。


この物語で描きたかったのは、動物が人間の言葉で何かを語ることではありません。


犬は犬として吠える。

猫は猫として動く。

カラスはカラスとして覚える。

魚は魚として水の中で変化を示す。

狐は狐として草むらを歩く。

うさぎはうさぎとして怯える。


そこに、人間が勝手に意味や都合を押しつけてしまうことがある。


鹿野蒼は、それをひとつずつ外していく人でした。

朝倉実央は、それを町の仕組みの中へつなげていく人でした。


二人はまだ完璧な相棒ではありません。

でも、同じ場所を別々の視点から見ることで、少しだけ見落とすものを減らせるようになりました。


けもの係は、今日も開いています。

人間の道と、けものたちの道。

そのどちらも見落とさないために。

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