第28話:【泥を啜る天才と、アセンブラの記憶】
1. 敗北者の誇り
「……無茶苦茶な書き込みね。皮膚に直接『速度(VELOCITY)』を刻むなんて、演算負荷で筋肉が焼き切れるわよ、エドワード」
セシル教授が呆れたようにため息をつきながら、エドワードの傷ついた腕に防腐剤を塗りつける。エドワードは痛みに顔を歪めながらも、フンと鼻を鳴らした。
「うるさいな。デバイス(楽器)を失った僕たちには、この肉体しか残されていないんだ。あの清掃員にできて、僕にできないはずがない」
彼は鋭い視線をカイに向けた。その瞳には、かつての傲慢なエリートの影はなく、ただ現実を生き抜こうとする泥臭い執念だけが宿っている。
「カイ。僕がここへ来る途中で見た街の状況を教えてやる。旧政府の残党は狂っているよ。『聖女リア』を捕らえ、カデンツァのバックアップ・セクターに直結させて、もう一度世界を『強制フリーズ』させるつもりだ。そうすれば、空間の処理落ちは止まるとな」
「世界を延命するために、リアの脳をまた『フィルター』にするってわけか。……どこまでも非効率なシステムだ」
カイは冷徹に言い放ち、拳を強く握りしめた。
2. 世界の「空き容量」
「効率の問題だけではないわ」
セシル教授が真空管モニターの画面を指差す。そこには、王都の地下数百メートルに隠された、もう一つの巨大なメモリ領域のデータが展開されていた。
「旧政府が狙っているバックアップ・セクター。そこは、100年前に文字が封印された際、初代聖女セレナが『世界を動かす基本命令』を書き残したとされる聖域よ。シオンが奪っていった『神の卵』も、おそらくそこを目指しているわ」
「シオンが……?」
「ええ。彼はマザー・システムから吸い出した人類の思考ログを、そのバックアップ・セクターのソースコードと融合させようとしているの。全人類の意識を『単一の神』として圧縮し、世界のOSそのものを書き換えるためにね」
旧政府は「世界の現状維持」を望み、シオンは「不完全な人類の消去」を望んでいる。そしてそのどちらの計画にとっても、最後の鍵となるのが、マザー・システムに最も深く同期していたヒロイン・リアの存在だった。
3. 和音の片鱗
「(……私、もう逃げたくない)」
それまで黙って自分の喉を触っていたリアが、静かに、しかし毅然とした声で言った。彼女の指先は微かに震えていたが、その瞳はまっすぐにカイを見つめている。
「(世界のために死ぬのは嫌。でも、誰かの奴隷に戻るのも、もっと嫌。……カイ、私をあのバックアップ・セクターへ連れて行って。私のこの声が、本当に世界を濾過するための『道具』なのか、この目で確かめたいの)」
「リア……」
カイは一瞬、彼女の覚悟の重さに目を見張った。だが、すぐにいつもの不敵な笑みを唇に浮かべる。
「いいだろう。仕様書(歴史)にそう書いてあるなら、俺たちが直接その仕様を書き換えてやるまでだ。……教授、そのバックアップ・セクターへ行くルートは?」
「まともに地上を歩けば、旧政府軍とシオンの息がかかったディソナンスの双方に捕まるわね」
セシル教授は、古びた地図の一点を指差した。そこは、王都の防護壁の遥か外側、磁気嵐と強烈なノイズによって誰も近づけないとされる『無音の旧市街』だった。
「このノイズの海の向こうに、かつてカデンツァの設計に関わり、システムの奴隷になることを拒んだ『書家』たちの隠れ里があるわ。そこを経由すれば、政府の検問を回避してバックアップ・セクターの裏口に潜入できる」
4. 容赦なき世界のカウントダウン
ゴゴゴゴゴ……。
突然、地下室全体が激しく揺れた。天井のコンクリートに亀裂が走り、そこから砂のようにサラサラとした「立方体のノイズ」が溢れ出してくる。
「チッ、また処理落ちか……! この区画の描画限界が来たな!」
カイは即座にリアとエドワードの背中を押した。
「教授、あんたはどうする?」
「私はここに残って、旧政府の通信をハッキングしつつ、あなたたちのルートを偽装するわ。言ったでしょう、掃除屋の少年にばかりデバッグを押し付けないって」
セシルは眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく輝かせ、端末のキーボードを猛スピードで叩き始めた。
「行きなさい、バグたち。不完全で、ノイズだらけの、愛すべき私たちの現実を取り戻すために」
背後で崩壊していく地下室を飛び出し、カイ、リア、そしてエドワードの三人は、未知なる『無音の旧市街』へと向かって、終わりの見えない逃亡の旅へと足を踏み出した。




