プロローグ:【絶滅したはずの文字使い】
かつて、世界は『文字』に支配されていた。
看板、本、画面――あらゆる場所に記号が溢れ、人類はその『視覚情報』で理を定義していた。
だが、それはもう千年も昔の話だ。
情報の肥大化により世界のシステム(物理法則)がパンクした『大崩壊』以降、人類は文字という重い記録を捨てた。
代わりに手にしたのが、波動――すなわち『歌』による世界操作だ。
現代において、魔法とは歌であり、数式とは旋律。
喉にデバイスを埋め込んだ現代人は、鼻歌まじりに火を灯し、流行歌で重力を操る。
そんな『歌唱魔法』がすべてを支配する時代の、ゴミ捨て場のような地下通路。
そこで、少年カイは「世界のバグ」を殺していた。
「……またここか。熱伝導率の演算エラー。放置すれば爆発だな」
目の前で、空間が陽炎のようにぐにゃりと歪んでいる。
本来、この異常事態を解決するには、国家資格を持つ【調律師】が十人掛かりで大規模な合唱を行う必要がある。
だが、カイは喉元の補助デバイスに指をかけなかった。
彼が持っているのは、国から支給された『最新の歌』ではない。
「……解析完了。逆位相、展開」
カイは唇を尖らせ、静かに、鋭く息を吐き出した。
――ピィッ!
ただの、口笛だった。
しかし、その刹那。
カイの視界には、常人には見えない『世界の裏側』が浮かび上がっていた。
膨大な情報の奔流。
空間を構築する数式が、まるで楽譜のように視覚化される。
カイが放った口笛の振動(周波数)が、狂った数式の一行一行をリアルタイムで書き換えていく。
――瞬間、現象が「解かれた」。
爆発寸前だった熱量は霧散し、通路には何事もなかったかのように冷たい静寂が戻る。
「……ふぅ。これで今日のノルマは終わりか」
カイは首筋の汗を拭った。
彼には、デバイスを通した既製品の歌など必要ない。
なぜなら、カイだけがこの世界で唯一、絶滅したはずの『文字』を読み、それを『最強の数式』として直接脳内で演算できるからだ。
地上で着飾ったエリートたちが必死に歌う聖歌よりも、彼が適当に口ずさむ『文字の断片』の方が、遥かに深く世界の真理を抉る。
カイはポケットから、古びた羊皮紙の切れ端を取り出した。
そこには、古代の失われた言葉が記されている。
『 C-O-D-A 』
「……コーダ。楽章の終わり、か」
その文字を見つめる時だけ、カイの脳内には、世界中の誰にも聞こえない「美しくも残酷な旋律」が響く。
直後、頭上から巨大な鐘の音が響いた。
都市を統べる基底音が、新たな楽章――人類最後の滅亡へ向けたカウントダウンを告げる。
これが、文字を失い歌に溺れた世界が、崩壊を始める合図だということを。
そして、地下で口笛を吹く少年が、そのすべてを書き換える『最後の指揮者』になることを。
まだ、誰も知らない。




