幻映の鏡、もやに霞む君の貌
「ありがとうねぇ。もう、ここまででいいよ」
「本当に? もう転んだりしねぇ?」
「大丈夫だよ。これでも、ここに住んでかなり長いんだから」
そう言って微笑む老婆に、紫雫久は手にしていた荷を名残惜しそうに手渡した。
老婆の背後には、藤氏・佐藤領の中心に連なる山群――天鏡嶺が、空を遮るようにそびえている。
農家を営むこの老婆にとって、山は生活そのものだった。とりわけ白鑑社を祀る御白山は、代々世話になってきた特別な山である。
本来なら息子が新鮮な野菜を背負って登るところだが、今は足を痛めており、代わりに老婆が出向くことになっていた。
茄子や白瓜、九年母をかごいっぱいに詰め、さらに両手に風呂敷を下げて歩くその足取りは心許ない。道端の小石につまづきかけたところを紫雫久が支え、そのまま天鏡嶺の麓まで付き添ってきたのだ。
ここから先は、同業の迎えが来るという。
「信じてるからな。もう俺にとっちゃ、他人じゃ無いんだから」
「おやおや、可愛いことを言ってくれるねぇ。ほら、お駄賃でもあげようか」
老婆はそう言って懐から銭貨を取り出し、紫雫久の手にそっと握らせた。
いつもなら言葉巧みに断るところだが、頭を撫でる皺だらけの手に不意を突かれ、返す間を失ってしまう。
「ここらじゃ、もうすぐ祭りも始まるからねぇ。
……ほら、あそこにも屋台が出てる」
指差す先には、“恋鏡占”と書かれた幟を掲げる屋台が見えた。
「あんたにも、良い未来が訪れるように」
柔らかな笑みとともにもう一度頭を撫で、老婆は迎えの同業者と連れ立って山道へと消えていく。
紫雫久は火照った頬を誤魔化すように、自分でも同じ場所を撫でてみた。
《第五章:幻映の鏡、もやに霞む君の貌》
「恋鏡占〜!恋鏡占〜!
ひと目覗けば、運命の相手。血よりも濃き縁は、生涯を導く赤い糸。
この鏡、この場限り!
さぁさぁ、一度お試しあれ!」
澄みきった青空の下、呼び込みの声だけがやけに大きく響いていた。
祭りの喧騒の中にありながら、その声は不思議と耳の奥に残る。
紫雫久は、佐藤領といえば「静かで殺風景、面白みのない土地」という印象を抱いていた。
だからこそ、屋台が立ち並ぶ光景は意外で、少しだけ気持ちを浮き立たせた。
――そして気がつけば、恋鏡占の屋台へと足が向いていた。
「旦那、ひとつ覗いてみますか?」
「本当に覗くだけでいいのか?」
「えぇ。じわり、じわりと浮かび上がります。どうか目を逸らさず、最後まで……」
店の中央に据えられた鏡は、人の顔ほどの大きさ。
鏡面を囲むように、百合の花を象った装飾が施されている。
よく見れば縁は欠け、鏡面にも細かな色むらが走っており、長い年月を経てきたことが窺えた。
嫌な気配はない。
占具か、せいぜい古道具だろう――そう判断し、紫雫久は鏡を覗き込む。
だが。
本来映るはずの己の姿は、どこにもなかった。
代わりに、鏡面が内側から曇るように、じわりと赤く染まり始める。
揺れる霧。
血のような色合いが、ゆっくりと鏡の奥でうねった。
(……なんだ、これ……)
視線を外そうとしたが、できなかった。
赤は脈打つように揺れ、その拍動に合わせて、思考が一つずつ溶かされていく。
霧の奥に、人影が浮かぶ。
輪郭を持ち、形を得ていく影。
流れるような黒髪。
白と緋色の羽織。
そして最後に――紅掛け空の色をした瞳。
(……佐藤、花衣霞……?)
名を思い浮かべた瞬間、視界が遮られた。
温かな手が、そっと、しかし確実に紫雫久の目を覆う。
突然訪れた闇の中、背中に誰かの胸の感触が伝わった。
「――店主。禁制品による現行が認められました」
低く、柔らかく、それでいて逃げ場のない声。
「佐藤の名の下に、貴方の身柄を確保します」
花衣霞の声だった。
それを合図に、複数人の足音と、木材が擦れ合う音が一斉に辺りを満たした。
「か、花衣霞……!」
目を覆っていた手を軽く叩いて外してもらう。その頃には、佐藤家の家士たちによって屋台と店主の回収は、ほぼ終わっていた。
あまりの手際の良さに目を見張っていると、ふいに顎を掬い上げられる。
強制的に仰がされた視線の先には、こちらを覗き込む花衣霞の花のような相貌。紫雫久よりも二寸ほど高い位置から、静かに見下ろされていた。
「迷魄鏡は、覗く者に幻覚を見せ、精神を狂わせ、やがて殺すための呪具だ。
呪われた者は、目を見ればわかる」
泳ぎがちな紫雫久の視線を、花衣霞は逸らさず、じっと観察する。
「あと一歩遅れていたら、間に合わなかった」
異常なしを確認したのだろう。花衣霞は顎を支えたまま、指先だけでぽん、と頬を叩いた。
「……うかうか覗き込んで、馬鹿だと思うか?」
「鏡は術者の技量を写す。あの店主の腕は、ほとんど無いに等しい。
わからなくて当然」
「でも、花衣霞はわかってたんだろ?」
「私は……そういう家の者だから」
わずかに伏せられた瞳。その表情は悲しげにも、これ以上踏み込ませないためのものにも見えた。
そのとき、紫雫久は気づく。
後ろから抱き寄せられ、口づけでもされているかのような距離と姿勢だったことに。
「っ……!」
慌てて身を引き、手から逃れる。
自由になった体が、妙に心許ない。この寂しさは、背中が涼しく感じるせいだろうか。
「とにかく、ありがとな。助かったよ。
礼に、なんか屋台で買ってやろうか?」
気取って明るい声を出し、にこりと祭りの方を指差した――その瞬間、大事なことを思い出す。
「――違う! いや、違くないんだけど!
俺、花衣霞にちゃんと礼を言わなきゃって、ずっと思ってたんだよ。剣警試験の時も、この間の夜会の時も!」
「うん、ありがとう」
焦る紫雫久を前に、花衣霞は表情を変えず、静かに頷いた。
「何度も命を救われてんだ。なんでもするからさ、礼は何がいい!?」
ここしばらく頭の片隅で燻り続けていた問題に、鬼気迫る勢いだった。
花衣霞は顎に手を当て、少し考える。その仕草ひとつひとつが、妙に絵になる男だ。
答えを待つ間、紫雫久の胸中は落ち着かない。
失態ばかりの相手に願いなど思いつかないのではないか。無理難題をふっかけてしまったのではないか。余計な負担をかけたのではないか――
“もし”ばかりが頭を巡る。
「……“なんでも”と言ったか」
「は、はい!!」
ようやく零れた呟きに、紫雫久は背筋を伸ばし、正面から向き直った。
花衣霞は紫雫久の左手を取り、静かに告げる。
「祭りを案内してほしい。……初めてなんだ」
恥ずかしそうに、ほんのりと赤らんだその顔があまりにも美しくて、紫雫久は思わず喉を鳴らした。
「もちろん……よろこんで…………」
握り返した手から、この高鳴りが伝わらなければいい――
そう願いながら、紫雫久は指にそっと力を込めた。
軒を連ねる屋台は、この先一丁ほど続き、やがて白祈神社の境内へと広がっている。
花衣霞の話では、白祈神社は白鑑社へ至る信仰の入口として民に親しまれており、この白祈祭は立夏の訪れを告げる催しだという。
そんな祭りを、花衣霞は「初めて」だと言った。
その言葉を、紫雫久はどこかむず痒く感じながらも深くは考えなかった。
刃浦のあちこちを旅してきた紫雫久にとって、祭りは慣れ親しんだ風景だ。自然と案内役に力が入る。
「おっちゃん、これとこれ、串でひとつずつちょうだい」
「まいど!」
「水々しさが違うね。旦那の目利きが良いのかな」
「兄ちゃん、嬉しいこと言ってくれるねぇ……ほら、とびきり甘いところを切ってやったから」
「ありがとな!」
祭りが始まって間もなく、花衣霞が周囲を見回している隙に、紫雫久は水菓子売へふらりと立ち寄り、軽妙なやり取りを交わしていた。
戻ってきた両手には、見るだけで唾が湧きそうなほど艶やかな果物が握られている。
「花衣霞、桃と梨、どっちがいい?」
「……桃を」
手渡された桃を、花衣霞はしばし見つめた。
「いつも、このようにしているのか?」
「このようにって?」
紫雫久の口の中で、梨がシャク、と小気味よい音を立てる。
「店主と、会話をしながら買うのか?」
「え? いや……特に意識したことはないけど、癖かな。
人と話すの好きだし、たまにおまけもしてもらえるしな!」
花衣霞はもう一度桃を見てから、ゆっくりと一口齧った。
じゅわりと溢れた果汁が口いっぱいに広がり、まるで砂糖水を含んだかのような錯覚さえ覚える。
「……うん。今まで食べたどの桃よりも甘い」
「美味いか? あ、もしかして甘くない方が好みだった?」
「いや。甘い方が好きだ」
真っ直ぐにこちらを見て微笑む花衣霞に、紫雫久の胸が不意に跳ねる。
三度瞬きをしてから、誤魔化すように「た、確かに夜会でも甘味を食べてたもんな」と口走った。
「――そうだ、夜会といえばさ。いつ侯爵が危険だって気づいたんだ?」
何気ない問いに、花衣霞は桃の最後の一口を飲み込み、少し考える。
「……私は、紫雫久の身を案じただけで、相手は意識していない」
「へ? どういうこと?」
「紫雫久がいないと気づいた時、少し遅れて向井柚珠葉と黒木澄々も気づいていた。
だが、向井柚珠葉が探し出そうとすると、不自然に彼が客人に囲まれ始めた」
「それで身動きが取れなくなって、代わりに探してくれたのか……」
当時の光景を思い返しながら、紫雫久は何も刺さっていない竹串を口に咥える。二度ほど口の中で揺らしてから、はっとして慌てて抜いた。
隣で花衣霞が、竹串を丁寧に懐紙へ包んでいたからだ。……行儀の悪いところを見られていないといい、とひそかに願う。
「何かあった?」
「……いや。澄々が言うには、最初は俺がただほっつき歩いてるだけだと思ってたのに、
お前が“攫われた”って言うから、探し方を変えたって」
そうして令嬢の証言が集まり、隠し通路も見つかったらしい。
紫雫久の胸に引っかかっていたのは、花衣霞だけが、最初から自分の身の危険を捉えていたことだった。
自分自身でさえ、ヴェルナー侯爵の危険度を見誤っていたのだ。
どこで、どう判断したのか――それが気になっていた。
……ちなみに澄々が変えたという“探し方”については、黒木家の秘密だといって教えてもらえなかった。
「花衣霞は、どうして俺が危ないって思ったんだ?」
ふと、二人の足が止まる。
祭りの喧騒が、少しだけ遠のいたように感じられた。
「紫雫久は……危険に飛び込む時、いつも周りには言わないから」
「た、確かに……?」
言われてみれば、否定しきれない。
花衣霞の言葉には、不思議と重みがあった。
――どれほど、見られていたのだろう。
「……紫雫久、あれは…………」
尽きない疑問が胸に湧き上がるが、花衣霞の意識はすでに、通りがかった団子屋へと攫われてしまっていた。
佐藤花衣霞という男は、不思議な男だった。
五参家の中でも佐藤家は、御白山から出ることがほとんどなく、他家との交流が極端に薄いことで知られている。さらに、刃浦の主である殿上様に由来する神殿を長きにわたり守り続けてきた家筋でもあり、佐藤家を神格視する者は少なくない。
柚珠葉も、初めて会った時には思わず「様」をつけて呼んだほどだ。
それでも、ともに祭りを歩くうちに、見えてきたこともいくつかあった。
まず、彼は世間が思う以上に浮世離れしている。
「祭りが初めて」という言葉も、場を和ませるための口実かと思っていたが、どうやら本心らしい。屋台に並ぶ鬼の面や手車を前に、「これは何だ?」と素直に問いかける姿に、紫雫久は思わず頬の奥がむず痒くなった。
途中、的矢の屋台の前で足を止めかけた時には、慌てて近くの団子屋を指差して注意を逸らしたりもした。
そして、花衣霞はかなりの甘党だった。
屋台には水菓子をはじめ、飴細工や団子など、甘味が所狭しと並んでいる。見た目は「水さえあれば十分。一口大の羊羹で足りる」と言い出しそうな風情なのに、実際は砂糖やきな粉がたっぷりかかったものほど、わかりやすく喜ぶ。
白玉に果物を添えた菓子団子を、珍しさから買ってみた時の表情は、梅の蕾がほころぶような愛らしさだった。それ以来、紫雫久は何かにつけて甘味を見つけては、もう一度あの顔が見られないかと考えてしまう。
いつか一緒に黒木領も歩いてみたい。あそこには、西洋菓子の流通も少しあると聞く。
「夜会も、甘味が目当てで招待に応じたのか?」
「どうして?」
「いや、正直来るとは思ってなかったからさ。珍しいじゃん、ここから出てくるのって」
花衣霞は、花弁の形をした菓子を口に運び、ゆっくりと咀嚼してから飲み込んだ。
「……紫雫久がいるから行った。いないなら、行かない」
もう一つわかったことがある。
花衣霞は、こういうことを――少しも恥じることなく、さらりと言ってのける男なのだ。
ふと、花衣霞が懐から小さな鏡を取り出し、確かめるように目を落とした。御白山を一度だけ振り返り、そして静かに鏡を仕舞う。
「なんかあったのか?」
花衣霞は静かに首を振る。
「さっきの囚人が牢に入った」
「……もしかして、その鏡が伝令役になってたりする?」
「うん……」
花衣霞は再び鏡を取り出した。
それは手のひらに収まるほど小さく、瞳がひとつ映るかどうかという程度で、鏡としての役割はほとんど果たしていない。鏡面の縁を囲む緋色の意匠だけが、ささやかながらも神秘を主張していた。
「俺が見てもいいのか?」
「うん、紫雫久は良い。……それに、佐藤以外の家の者が見ても、何も映らないから」
この鏡は白伝鏡――佐藤家の者のみが扱える、伝令用の簡易神具だという。
“簡易的”と呼ばれる通り、込められる情報はごくわずかで、ほとんど合図に近い使われ方をしているらしい。
「ふぅん……ここさ、この形じゃなきゃだめってことある?」
白伝鏡を見つめていた紫雫久が、縁の装飾の一角を指差す。
「どうして?」
「いや、これ、別の形の方が回路の伝わりが良さそうでさ。たぶん、もっと伝えられる幅が広がると思うんだよな」
花衣霞は、思わず目を見開いた。
ただ眺めただけで仕組みを見抜き、さらに改良点まで思いつくとは。
「この装飾は白鑑社に由来している。だから形そのものは変えられない。
……だが、ひとつ、参考にしてみよう」
改めて作り直せば、いつか離れていても、より多くの言葉を伝え合える道具になるかもしれない。
花衣霞は久しぶりに未来を思い描き、ほんのりと笑みを浮かべた。
完成した時、紫雫久はどんな顔をするだろうか。
「紫雫久と話をすると楽しい。ただ見ているより、ずっと」
「俺も……っていうか、見てるくらいなら話しかけてくれよ」
「うん。今度からは、そうする」
そう言って、花衣霞は紫雫久の左手を取り、白い組紐を結んだ。
「これは?」
「“縁映結”。……白祈神社の縁起物。
この紐は頑丈で、刀でも切れない。切れぬ縁を、結び直すご利益がある」
結ばれた紐を空にかざし、紫雫久は眺める。胸の奥には確かな温もりが満ちているはずなのに、口からこぼれるのは「へぇ」「ほぉ」と間の抜けた声ばかりだった。
「花衣霞が直々に結んでくれたんだ。そりゃ効果も確実だな」
紫雫久は、ゆっくりと結び目をなぞる。
「もしこれが切れても、俺は絶対に手放したりしないよ」
花衣霞は微笑んだ。
――その刹那、白いはずの組紐が、
血に濡れたように赤く染まった気がした。
だが次の瞬きでは、何事もなかったかのように、ただの白がそこにあった。




