春雷・下
平屋建てが一般的なこの時代にあって、高瀬領の屋敷だけは異様だった。
誰が月に最も近づけるかを競うように、楼閣は幾重にも積み重なり、夜空を突き刺す。
紫雫久は窓の外にひらけたその月を仰ぎ――こんなにも大きく見えたのは初めてだ、と息を呑んだ。
その静寂を裂くように、バサリと羽音がした。
一羽の鴉が降り立った先は、少し離れた縁側で月を眺めていた澄々の腕だ。
「珍しいな。鳩は使わないのか?」
「木氏は昔から鴉だよ。夜なら目立たねぇだろ?」
「こんだけ月が近いと意味ねぇけどな」と冗談めかしつつ、澄々は伝書鴉の足から文を外す。
諜報・暗殺を生業とする黒木家が、この時刻にわざわざ何を運んでくるのかと一瞬警戒した紫雫久だったが、文を開いた澄々の表情を見て、その思考は即座に霧散した。
「――ふっ、またやってる」
ふわりと顔を緩め、綿毛でも口に含んだような柔らかい声で呟く。
文を追うその眼差しは、誰が見ても“愛おしいもの”へ向けるそれだった。
「なんだ、恋文か?」
隅に置けないやつだ、とからかう紫雫久。
澄々は鼻先を指で掻きながら、少しだけ困ったように眉を下げながら言った。
「あー……うちで飼ってる猫がさ。俺が見てやんねぇと危なっかしくて。
だから、報告」
「猫?生まれたばかりなのか?」
「いや、結構長い。……でも、いつまで経ってもおっちょこちょいでさ。しかも自覚ねぇんだよ、あのこは」
気を抜けば瞳から蜂蜜が零れそうなほど甘い声音。
紫雫久は“猫”の正体に深入りしないが、誰かをこうして慈しむ澄々の姿は純粋に「いいな」と思った。
自分は昔から、一つのものに強く執着したことがなかったから。
「へぇ。そういうところが“かわいい”んだ?」
「かわいい……あぁ、かわいいよ。普段は放っといてくれって顔してるのに、帰ればちゃんと出迎えに来てくれるしさ。
でも脚を悪くしてて。あんまり無理はしてほしくねぇんだけどなぁ」
「そうか」
「もう五年くらいになるか。……お前も気をつけろよ。病気や怪我なら治りゃいいが、呪いってのは、終わりのねぇ苦しみだ」
「お前、いつかやらかしそうだもんなぁ」 苦笑しながら、書き終えた返事を鴉に託す。
鴉が夜気を切って飛び立つのを見送り、澄々はふっと月を仰いで大きくあくびをした。
「そろそろ寝るわ。明日も試験だろ? さっさと終わらせて帰りてぇな」
「退屈じゃなければいいよ、俺は」
紫雫久の言葉に、澄々は喉の奥でくつりと笑い、「俺には挑発してくんなよ?」と肩をすくめて、自室へと戻っていった。
澄々は、月明かりの下に――愛しいものへと続く道を見ていた。
その背中を見送りながら、紫雫久はふと胸に影が差すのを感じる。
自分は、この月にいったい何を見るだろうか。
紫雫久には、両親の記憶がない。
生まれてすぐに向井家の門前へ置き去りにされた彼にとって、心が帰る場所は初めから霧の向こうにあった。
月へ手を伸ばしたくなるような衝動――まだその熱も、その切なさも知らない。
ただ、胸の奥に柔らかく触れては遠ざかる、夢の幕間のような感情だけが残る。
いつか、この月を共に眺めてくれる誰かは訪れるのだろうか。
そうであればいい、と。
淡い祈りのような思いを胸に、紫雫久は静かに目を閉じた。
《第二章:春雷・下》
「第二次試験は、幻迷宮を行う。――全員、整列して座禅を組め!」
翌朝。
剣警試験二日目、大広間には緊張した面持ちの受験者たちが座した。香が焚かれた瞬間、空気が波打つように歪む。その歪みに身を沈めるようにして、幻術の試験が幕を開けた。
“幻迷宮”――
各自が見る幻術の世界で、突如起こる事件を収めていくというもの。
事件の内容も深刻度も受験者ごとに異なり、剣警として民事を裁くに相応しいか、“正義”と“判断力”が問われる試験だ。
酩酊にも似た幻術特有の感覚が薄れ、柚珠葉が目を開けると……そこは、見慣れた向井領の街並みだった。
(異常なし……か?)
幻迷宮で作り出される幻は、本人の記憶や体験を元に構成されている。日常と寸分違わぬ気配に、微かな緊張感が胸をかすめる。
歩き始めた矢先、通りの向こうで椅子が倒れる音、器の割れる音が響く。
「潮路屋」からのようだ。
中では、見覚えのある漁師二人が取っ組み合っている。
昼から酒を出す店で、揉め事は日常茶飯事――現実でも見慣れた光景だ。
「店主、何があった?」
「そりゃまあ、いつも通りさ。金がどうだのツケがどうだの……やるなら外でやれってね」
「……それだけ?」
「それだけって……どうした? ここじゃよくあるだろ?」
あまりにもいつも通り。
試験のための幻術にしては取るに足らない揉め事に拍子抜ける。
(刀も、怪異も、なし……?)
戸惑いながらも、店主に言われるまま取っ組み合いを引き剥がし、事情を整理し、代金の支払いと補填を調停する。
二人は柚珠葉の仲裁に抵抗する様子も、異形のものに取り憑かれた様子も無く話がまとまる。
そうこうしているうち、潮路屋にまた日常の喧噪が戻ってきた。
――その瞬間、視界がぐらりと揺れた。
終わりの印のような揺れ方だった。
まさかこれだけで、何を判断したと言うのか? 当惑する柚珠葉の耳に、猪口を置く音が妙に響いた。
「おう、柚珠葉。お前んとこの紫雫久だがな――」
さっきまで喧嘩していた漁師が、ひとり酒を呷っていた。
その声は妙に遠く、妙に近い。
「紫雫久が……何ですか?」
「聞いたぜ。あいつ、井上っていうんだってな。裏切り者の、井上」
耳鳴りが、どくりと脈打つ。
「それを、どこで……」
「ここらじゃ皆知ってるさ。あいつには裏切り者の血が流れてる。――現におかしいくらい強ぇしなぁ……」
漁師はにたりと口端を歪めた。
「さすが、上を喰った刀――」
「黙れっ!!」
漁師の胸ぐらに掴みかかる。
衝撃で膳が揺れ、倒れた徳利からはしとどに酒がこぼれていく。
「お前に何がわかる!お前なんかに……紫雫久の……!」
「井上紫雫久の何を知っていると言うんだ? 柚珠葉よ」
その声は、さっきまでの漁師のものではなかった。
目の前の顔がぼやけ、輪郭が歪む。
頭の奥が、灼けるように痛い。
音も光も遠のいていく。
「可哀想なお前さんに教えといてやるよ。
――井上紫雫久を信じるな。あいつは必ず、お前を裏切る」
瞬間、何かが耳元でぱちんと弾けた。
「――はっ!!」
気がつくとそこは数刻前と変わらぬ大広間。試験は終わり、現実へ戻っていた。
柚珠葉は荒い息を整え、冷えた水を口に含む。
まだ心臓が、痛いほど脈打っている。
隣では、紫雫久が静かに座禅を組んだまま目を閉じていた。
――あいつは必ず、お前を裏切る。
幻の言葉が、耳の奥で何度も反響する。
「……そんなわけない。あれは幻覚だ」
ふと膝元を見ると、合格を示す赤い折り鶴が置かれていた。
本当にあの程度の揉め事で、試験は終わったらしい。
柚珠葉は鶴を手に取る。
その紙は、触れた瞬間、なぜかひどく冷たく感じた。
「お前も、さっさと終わらせてきなよ」
今は、ただ紫雫久の声が聞きたかった。
その声だけが、幻と現の境目を確かめてくれる気がした。
あれから、二刻経っても三刻経っても、柚珠葉の胸に巣くう不安は晴れなかった。
日暮れはとうに過ぎ、夜四ツに差しかかろうとしている。
「紫雫久、まだ戻っていないの?」
敷居の外から遠慮がちに投げかけられる瑪瑙羽の問いに、柚珠葉は静かに首を振る。
いつもなら「また何かしでかしているのでは」とため息をつくところだが、先ほど見た幻覚の残滓が胸の奥でざらつき、不吉な予感をかき立てていた。
「瑪瑙羽の試験は、どんな内容だった?」
「私? 私は本当に運が良かったよ。ただの失せ物探しだった」
「そうじゃないと、私みたいなのが二次試験まで突破できるわけないじゃない。柚珠葉は?」
「あぁ、私は……似たような……」
返事をしつつも、胸のざわめきは消えない。
試験を終え白い折り鶴を受け取った者たちは次々と屋敷を後にし、残っているのは柚珠葉を含めわずか数名。
明らかに、紫雫久だけが大広間に残されていた。
居ても立っても居られず廊下に出ると、縁側で鴉を飛ばしている澄々の姿が目に入る。
「黒木澄々、試験の内容は何だった?」
「澄々でいいよ。でなんだ、試験? 俺は桔梗座の店番だったが……」
柚珠葉の顔に影が落ちる。
力が抜けかけた身体を澄々が反射的に支え、覗き込むように尋ねた。
「おい、大丈夫か? 体調でも悪いのか? ……って、これはどういう状況だ」
「わ、わからない……でも、紫雫久がまだ戻ってきてないんだって」
「こんな夜中まで? 試験が始まったのは、日が昇ってすぐだったろ」
柚珠葉の指先に、わずかだが確かな力がこもる。
「……やっぱり変だ。紫雫久のところに、行かないと」
大広間へ足を向けたその時。
廊下の奥からざわつく声が伝わってきた。
声の方を見ると、春風をはらんだように髪を揺らし、浮世絵めいた立ち姿で真っ直ぐこちらへ歩む花衣霞がいた。
その腕には——横抱きにされ力なく眠る紫雫久の姿。
「――紫雫久!」
柚珠葉は息を呑み、駆け寄った。近づけば、紫雫久の口元にうっすら血がついている。
「何があった!?」
「試験中、吐血と共に目覚め、そのまま意識を失った」
掴みかからん勢いの柚珠葉に、花衣霞は静かに告げた。
だが、紫雫久を抱える腕は強く、剥がれぬ決意を帯びている。
「幻惑の時間が長すぎた。治癒のため、安静が要る」
そう言うと、花衣霞は紫雫久を部屋へ運び込み、迷いなく襖を閉めた。
締め出された柚珠葉は「なぜ向井に割り当てられた部屋から追い出されなければ」と憤ったが、瑪瑙羽と澄々が肩に手を置き、そっと静めた。
あの時のことを何度問いただされても、紫雫久には「わからない」としか答えようがなかった。
幻術の中に入ってからは、見知らぬ暗がりで息の詰まるような緊張の中、ただひたすらに刀を振るっていた記憶だけが断片的に残っている。一度意識を取り戻した時に吐血したことも、そのまま倒れたことも、まるで他人事のように思えるほど曖昧だ。
だからこそ、あの瞬間なぜ花衣霞が近くにいて助けてくれたのか――それすらも、見当がつかなかった。
けれど今しがた目を覚ました紫雫久の身体は、むしろいつもより軽い。妙なほどに調子が良かった。
「……やっぱり父上が言っていたように、変だよ、この試験」
「そうか?まぁ、柚が無事なら問題ないんじゃない?」
紫雫久は、ほっけの開きの背骨を箸先でつまみ上げながら気楽な声を出す。
「一番危ない目に遭ってる人が何を言ってるの……。今日で全部終わりなんだから、ほんとに無理だけはしないでよ」
「平気平気。むしろ絶好調だって。――あ、そういえばさ。そこに置いてた羽織、どっか行った?」
「羽織? 知らないけど」
一日目の試験が終わった夜。月を眺めながらうたた寝していた紫雫久の肩に、気づけば見覚えのない羽織がそっとかけられていた。
おかげで冷えずにすんだと礼を言うつもりで持ち帰り、部屋の隅に丁寧に畳んでいたはずのものだ。
それが、今朝には跡形もなく消えていた。
柚珠葉が知らないとなれば、この部屋に入った者は――あとひとり。
「大事なものだった?」
「いや、別に。俺のものじゃないしな」
紫雫久は、喉に引っかかる小骨を白米で流し込むようにひと口かき込みながら答える。
大事かどうかはわからない。ただ、あれを口実に、話ができればと――その思いだけが、喉の奥にかすかに残った。
「最終試験は――影剋戦を行う」
中庭に集められた受験者は、数十名ほどにまで減っていた。初日には百名を超えていたことを思えば、この三日での脱落者は想像以上だ。
初日と同じ集合場所に紫雫久は「ここ立ってたらまた沈むんじゃね?」と、緊張感の欠片もない声で柚珠葉の肩を肘でつついた。
“影剋戦”――
舞台に現れる己を写した影と相対し、技も癖も、弱さすらも複製された存在と正面から戦い抜く試練。
己を知り、己を超えること。剣道においてそれ以上の修行はない。
「準備が整った者から影顕台へ上がり、戦闘を開始せよ。
己の影に勝利した者から順に、剣警の資格を授与する。――始め!」
号令と同時に、受験者たちは一斉に舞台へ駆け出した。
煌羅嘉や澄々も迷いなく先陣を切る。
そして意外にも、瑪瑙羽が真っ先に影顕台へと上がるのが見えた。普段は消極的と見られがちなだけに、紫雫久は驚いて柚珠葉の耳へ口を寄せた。
舞台上では、影と剣士の斬撃が次々と火花を散らし、風圧が渦を巻く。
影は本人の技をそのまま写すため、癖も速度も同じ。ゆえに間合いの読みが一手ずれるだけで斬られてしまう。
技量のある者ほど影も鋭利になり、戦場は一瞬一瞬が命のやり取りに等しく緊張していく。
中でも煌羅嘉は目を引いた。
金密陀の髪を揺らし、覇鋼を振るうたびに稲光のような残光が奔る。
影の斬撃と煌羅嘉の斬撃が交錯すると、まるで金屏風に描かれた龍が躍ったように見えた。
その隣では澄々が影と渡り合っていた。
だが、腰の刀は抜かれていない。拳だけで影の斬撃を払い、足さばきで距離を制し、影の刃をすれすれでいなしていく。
「澄々、ステゴロで突破する気か?珍しいな」
「木氏の刀は幽鈴でしょ。暗闇が本分なんだし、こんなに開けた場所じゃ相性最悪だよ」
「あぁ、なるほど」
紫雫久は、魔境走での澄々を思い返し納得した。
それでも相手に間合いを読ませぬ幽歩の足運びは、陽光の下でもどこか不気味な静けさをまとっている。
こうして木氏伝統の型を見るたび、紫雫久は「やっぱり一度くらい鴉の邪魔をしてやればよかった」と後悔した。
「ところで紫雫久は行かないの?」
「いや、俺と戦うのに誰か巻き込まれないか心配でさぁ……。減るまで待つ。柚は?」
「一旦、様子見。やっぱり……ただの試験には見えないから」
「気にしすぎ――おっと」
突風。
舞台の余波で瓦礫が飛散し、柚珠葉に向かって木片が吹き飛んでくる。
紫雫久は反射的に前へ踏み込み、鞘でそれを弾き返した。軽いはずの破片が、ぶつかれば骨の一本は折りかねない勢いだ。
出所へ目を向けると――
「高瀬煌羅嘉、合格――!」
宣言が響き、今回の試験で最初の合格者となった煌羅嘉が、澄ました顔を崩さず影顕台を降りていく。
続けて、
「黒木澄々、合格――!」
汗に濡れる髪をかきあげ、どこか晴れやかな表情で澄々は舞台を後にした。
勝敗より、早く帰路に就けることの方が嬉しいのだろう。
合格者が続き、脱落者も運び出され、舞台上はだいぶ見晴らしが良くなってきた。
その時、紫雫久は影と対峙する瑪瑙羽の姿に気づく。
瑪瑙羽は明らかに怯えていた。
影が一歩踏み出すたび、肩が震え、握る刀の切っ先は頼りなく揺れる。
「――ひっ!」
影が静かに間合いを詰めた瞬間、瑪瑙羽は目をぎゅっと閉じ、胸の前で刀を抱えるように構えた。
紫雫久は内心、「これはさすがに無理だ」と思った。
しかし次の瞬間――
影は瑪瑙羽の剣先をそっと掴むと、
そのまま刃を自らの胸へ導き、
ためらいなく――突き刺した。
「……え、な、どうして」
手に伝わった何かを貫いた感触に、瑪瑙羽の顔から血の気が引く。
影は反応する間もなく崩れ、砂のようにさらさらと消えていった。
「福田瑪瑙羽、合格――!」
宣言に最も驚いていたのは当の本人だった。
だが戦いを見ていた柚珠葉も、表情をこわばらせる。
(影顕台で生まれる影は、剣技のみを映すはず……。
自分から死を選ぶ影なんて、聞いたことがない……)
「行こう、紫雫久。
五参家は――すでに、罠に嵌っているのかもしれない……」
柚珠葉の読みは、やはり正しかった。
影顕台に足を踏み入れた瞬間、足元の影は伸び、ぶくりと脈打ち輪郭を得てゆく。
そこに立ち上がったのは、自分と寸分違わぬ姿――だが、向けてくる剣技は、かつて向井の家で共に研鑽した技とは別物だった。動きは似ているのに、どこか薄く、どこか弱い。
(細工だ……五参家の人間を合格させるための。最初は、“若芽を潰すため”だと思っていたけど)
影から放たれる斬撃。それをいなすのに、柚珠葉は一切の力を要さなかった。
半歩踏み込めば、切先がかすめる。
頬、首筋、手首、足首――急所の筋を、柚珠葉は淡々と、音もなく断ち切る。
影は致命傷こそ負わぬが、動ける範囲を徐々に奪われ、逃げ場を失っていく。しかし柚珠葉は、そんな影の窮地を気にも留めず、ただ思考の底に沈んでいた。
(わざと五参家の子息を剣警に置く……人質を取るための、高瀬の策だ)
ついには刀を握る力すら失った影が、手首を押さえ、膝をつく。
斬撃の音は無い。ただ、水底に引きずり込まれるような、静謐すぎる一閃。
影は抵抗もなく、淡い煙のように消えていった。
本来ならここで、紫雫久から「またねちっこい戦い方してる……」と呆れた声が飛んでくるはずだった。
だが、それがない。
(五参家が狙いなら……紫雫久は――)
胸の奥を、冷たい予感が滑り落ちていく。
舞台上に視線を走らせた瞬間、見慣れた紫烏色が目に飛び込んだ。
地面に流れる髪。
紫雫久は膝をつき、眼前には、真っ黒な刀の切先がぴたりと突きつけられていた。
「――お前は、誰だ……?」
紫雫久の喉から、困惑が滴り落ちた。舌で唇を湿らせても味がしない。乾いた呼吸だけが胸に引っかかる。
柚珠葉の後に続いて影顕台へ上がった紫雫久にも、他と同じように影は現れた。
だが、最初の一撃を受けた瞬間――違和感が、骨の内側へ刺さる。
型も動きも似ている。速さも重さも、自分と遜色はない。
だが“戦っている者”の判断と、間合いの取り方が完全に違っていた。
そして刀に乗っているのは、濁りきった殺意。
紫雫久は、殺意を剣に乗せてはならぬと教え込まれてきた。
だからこそ、この重さは知らない。
知らぬはずのものが、自分の影に宿っている――その異様さが息を奪った。
影剋戦では起こるはずのない動き。その原因を探ろうとして気が散ったのか、右脇腹を深く斬り抉られる。
「――ゔッ」
開く肉の感触に、片膝が崩れる。
影は間髪入れず踏み込み、切先を喉元へ寄せた。
(……くそ、ここ数日、運の巡りが最悪じゃねぇか)
額を脂汗が伝う。腹筋を締めて痛みをごまかし、手のひらで血を抑えつつ、迫る影へ神経を張り詰める。
切先が微かに揺れた。「来る」と判断し右手に力を込めた、その瞬間――視界を血煙が覆った。
「――!?」
影も驚いたように身をひねり、回避する。
頬に生温い血が貼りついた瞬間、記憶の底の何かがきしんだ。
この動き――前にもやった。
回避の旋回、左腕を軸に立ち上がるまでの一連の流れ。知っているはずのない戦い方が、体に刻まれている。
ぞっとして頭を振った先で、花衣霞と目が合う。
あの血煙は、今しがた合格を告げられた彼によるものだと気付く。
(助かった……)
短く息を吐いて刀を握り直すと、それを確認した花衣霞は何も言わず舞台を降りた。
体勢は整えたが、影の“謎”は解けないままだった。
太刀筋は井氏の滄洌返しを基にしている。だが構えが違う。
井氏は水平に構えることで精密さを生む流派だ。しかし影は、常に切先を下に垂らして構えている。
そんな型、井氏には存在しない。
だというのに――見れば見るほど理にかなっている。
光が一筋、視界を裂いた。
反射で受けるが、すぐさま次の斬撃が降りそそぐ。
(この戦い……確かに俺は…………)
剣戟の合間に、断片的な記憶が濃く滲み出す。
一瞬視界が揺れ、影が右へ振り抜く“未来”が見えた。
次の瞬間、その通りに影が振り抜いた。
紫雫久は迷わず脇腹へ一閃。
すれ違いざま手首を返し、背へも斬撃を叩き込む。
「さっきのお返しだ。おまけもつけといてやるよ」
にたりと笑えば、影も同じ角度で笑う。
鏡像のように笑い合うふたり――その異様さに、周囲の空気がぞわりと濁った。
笑いを止めると同時に、両者は構えも取らず踏み込む。
鍔迫り合いの瞬間、風が一筋、舞台を駆け抜ける。
影の刀を近くで見ると、その刃文が赤黒く、まるで水面に漂う血溜まりのように蠢いていた。
その刀も、先の剣筋も見覚えがあった。
――昨日の幻迷宮の闇の中で、戦い続けた相手だ。
斬撃を交わしながら、紫雫久は幻迷宮の記憶を手繰り寄せていく。
暗闇で戦っていたのは、この赤黒い刀の影で間違いない。
確信は交錯する刃のたびに強くなった。
(あれは……洞窟だった。しかも人の手が入った、どこか神域みてぇな……)
洞窟の札。
守護されるように封じられた入り口。
奥にあった神殿めいた空間。
(幻で見せるにはあまりにも覚えが無い。どこだ、あれは……殿上院か?)
答え合わせはできても、正解はわからない。
その苛立ちと積み重なる疑問は疲労となり、肺が焼けるように熱い。
(幻迷宮の時もそうだったが……こいつ、本当に隙がねぇ)
潮流一拍を放ち急所を狙ってもその全てを受け流される。
速さを上げても、踏み込んでも、懐には届かない。
だが、どんな達人でも癖はある。そう信じ、紫雫久はじっと観察を続ける。
その瞳はどこか熱に濡れていた。
影の太刀筋は一滴の波紋のように優雅で、軽やかだ。
だがその斬撃は手首を破壊するほど重い。下手に受ければ、高氏の覇鋼にすら匹敵する威力だろう。
しかも構えは緩く、予備動作はほぼ皆無。それでも斬撃の強弱は自在――読み切れない。
(……せめて、次が読めれば――いや、待てよ)
振り下ろされる刃を受け流しつつ、刃の軌跡を凝視する。
切先が視界の端へ流れる直前、すいと揺れた。
(――二発!)
左から斬り上げ、手首を返して下から掬う連続斬撃。
紫雫久は斬撃のすべてを正確に受け止めた。
刃と刃が擦れる音に、背筋がぞくりと粟立つ。
読める。
反射じゃない。
狙いも、意志も、全部わかる。
(予備動作が無いんじゃねぇ、始まるのが早すぎただけ……!)
戦場の空気が一段、二段と熱を増していく。
防戦一方だった紫雫久の刃が影に触れ始める。徐々に、確実に迫っていく。
さらに、紫雫久は影の癖そのものを取り込み始めた。
“自分には読めないのに、相手はこちらを読んでいる”
戦場で最も恐ろしい型が紫雫久の中に芽吹き始めていた。
枷が外れたように、紫雫久の剣は自由に舞いはじめる。太刀筋はしなやかで、流麗で、淀みがない。
頬が熱を帯び、呼吸が深まり、高揚が胸の奥で膨らむ。
疲労も、傷口の痛みも、もう意識に入らなかった。
今まで二回転までが限界だった技は、三回転、四回転と途切れない。
潮鳴りが渦を巻き、影を呑み込む渦潮そのものと化す。
(あぁ……ずっと戦ってられんな、これ……)
そう思った、その瞬間――つきん、と耳の奥を針が刺した。
苦悶の一瞬を、影が逃すはずがない。
――澪断冰式
ぞくりと肌が総毛立つ。
咄嗟に滄洌返しを構えたが、半歩遅い。
「――い゙……ッ!」
重い一撃が刀をへし折り、そのまま左肩を深く切断した。
鎖骨にまで食い込む痛みに、息が千切れる。
それでも紫雫久は、震える左腕で影の後頭部を掴み寄せ、
右手の折れた刀を心臓へ無理矢理叩き込んだ。
距離を詰めたせいで、肩の傷がさらに深くなるのも厭わずに。
どく、どく――微かな鼓動。
影はそのまま静かに霧散していった。
「――はぁっ!……い゙…っぐ…………は、はぁ…………」
支えを失ってうずくまり、地面へ崩れ落ちる。
遠くで自分の名を宣言する試験官の声がゆらゆら揺れる。
影顕台の影は幻ではない。
負った傷は現実に刻まれる。
荒い呼吸を必死につなぎ止める。
左肩は燃えるように熱く、血が止まらない。
脈動がそこに心臓でもあるかのように痛みを撃ち続けた。
「紫雫久、顔を上げて。傷が見えない」
水面を震わせるような低い声が、どこか遠くで響いたように聞こえた。
だが今は耳に入ってこない。
脈打つ痛みが全身を支配し、息さえ掠れる。
どうにか楽にならないかと、紫雫久は喉の奥で小さく唸った。
「紫雫久、大丈夫だから」
肩に触れる指先。
それが二の腕へと滑り、起こそうとする力がかかる。
「――いっ! あ゙、やめ……っ、うご、かさないで……いた……い……ッ」
「大丈夫。すぐ終わるから」
「やだ……やだ、うぅ……っ」
涙を堪えるように鼻をすすった。
熱は上がり、頭の中は痛い、辛い、怖い、それだけ。
さっきからいやなことをするこいつは誰なんだ――そんな子どもじみた思考しか浮かばない。
うずくまる頬に、そっと手が添えられる。
ひやりとした温度が、灼けるような体温をすっと奪った。
その冷たさに身を預けると、手はゆっくりと紫雫久の顎を掬い上げた。
伏せていた視界に淡い光が差し込み、眩しさに目を細める。
そこにいたのは――花衣霞だった。
「……さ、とう……かいか……?」
「うん」
澄みきった空を閉じ込めたような瞳が、揺らぐ紫雫久をまっすぐに捉えている。
その視線だけで、痛みが少しずつ沈んでいく気がした。
頬に置かれた手が熱を吸うようにひんやりと心地よく、脈打つ傷の痛みすら和らぐ。
「大丈夫、紫雫久。痛いのはもう終わりだから」
「――ぇ?」
白百合を思わせる端正な顔がゆっくりと近づき――そのまま唇が柔らかく触れた。
薄く開いた唇の間に、ぬるりと舌が滑り込む。
息が詰まり、反射的に身を引こうとするが、今の身体にそんな力はない。
逃げようとすれば舌が追い、触れたところから絡め取られていく。
窮屈な口内では思うように動けず、むしろ自分の方が求めてしまっているような錯覚さえ覚えた。
唾液が溢れ、口の端から零れそうになる頃――花衣霞はゆっくりと舌を抜く。零れかけた雫をちゅ、と掬い、名残惜しげに離れた。
紫雫久がぼんやりと喉を鳴らした瞬間、薬特有の苦い味が口内に広がる。
ぐら、と視界が傾き、全身から力が抜け落ちる。
何も考えられない。ただ黒い布をかぶせられたように意識が沈んでいく。
「ゆっくり……おやすみ」
彼に助けられたのは、何度目か。
礼を言わなければ――そう思って手を伸ばし、花衣霞の濃墨の髪を一筋掴んだところで、
ぷつり、
意識は落ちた。




