第50話 虚弱聖女と再会
クロラヴィア王国で投獄されていたはずのネルロ様が、今、私の目の前にいる。
一瞬、見間違いかと思った。
何故なら私の記憶にあるネルロ様は、ここまで痩せ細っていなかったからだ。頬は痩け、急激に痩せたからか、輪郭には皮のたるみが見える。目の周りには濃いクマが浮き出ており、肌も青白かった。
この変化は、どう見ても加齢ではない。劣悪な環境による急激な消耗によるものだ。
でも温かな眼差しだけは、初めてネルロ様と出会ったときと全く変わっていなかった。
双眸に熱いものが溢れてくる。溢れたそれが下瞼から零れてしまうと、もう止められなかった。
「ネルロ、さま……っ!」
気づけば、私はネルロ様の胸に飛び込んでいた。
結界の外という過酷な場所を命がけで乗り越え、心身の疲労も限界に達していると理性では分かっていても、溢れ出る感情が私を強く突き動かした。
ネルロ様の腕が――骨が浮き出た冷たい腕が、私の体を抱きしめる。
育ての親のやつれ具合を肌で感じ、さらに胸の奥が締め付けられ、涙が止まらなくなる。
「ネルロ様……ご無事、で……うっ、うぅっ……」
「……セレスティアル、生きていたんだな? 良かった。ほんとうに、良かった……生きていて……ほんとうにほんとう、に……」
私の頭を優しく撫でながら、ネルロ様が何度も「良かった」と呟く。しかしその声は掠れていき、やがて小さな嗚咽に変わっていった。
*
ゆっくりと話をする場として提供された村長の家の一室。
部屋には分厚い絨毯が敷かれており、ネルロ様は壁に体を預けるように座った。私は彼を支えるためにすぐ傍に寄り添い、レイ様とラメンテ、システィーナ様とルゥナ様は、ネルロ様と向き合う形で場所をとっている。
落ち着きを取り戻したネルロ様の声が、部屋に響き渡った。
「わしの名はネルロ。クロラヴィア王国で守護獣シィ様に仕える者。このたびは、セレスティアルを救っていただいたこと、改めて感謝申し上げる」
深々と頭を下げるネルロ様を横目で見ながら、ご事情を知らないシスティーナ様とルゥナ様に説明をした。
「ネルロ様は私の恩人であり、育ての親なのです。そして、シィ様に仕える大神殿の神官長でもあらせられます」
「『元』神官長……ですが。クロラヴィア王家に刃向かったとして、長らく投獄されておりました故」
ネルロ様が自虐的に呟かれた。
システィーナ様が眉根を寄せながら、口を開こうとしたとき、ネルロ様の前に影が落ちた。
レイ様だ。
「礼を言わなければならないのは、俺たちの方だ。セレスティアルのお陰で、ここにいる我が国の守護獣ラメンテが力を取り戻し、ルミテリス王国も蘇った。あなたがセレスティアルを見いだし救ってくださらなければ、我が国はいずれ滅んでいただろう」
そう言いながら、レイ様は絨毯に額がつきそうなくらい深く頭を下げた。
彼のお立場をネルロ様にそっと耳打ちすると、薄紫色の瞳が大きく見開かれるのが見えた。
レイ様の赤い髪がさらりと揺れ、前髪の間から力強い瞳がのぞく。真っ直ぐな眼差しが、ネルロ様に向けられた。
「セレスティアルを慈しみ、育ててきた貴殿に感謝する、ネルロ殿」
裏表のない純粋な賞賛と感謝を告げられたネルロ様の唇が、強く結ばれた。目の光が揺れているように見えるのは、きっとランタンの揺らぎだけではないはず。
ネルロ様の両肩が震え、両手で顔を覆った。
「……ありがとうございます、レイ陛下。セレスティアルは……わしの大切な、娘、なのです……よかった……ほんとう、に……夢なら覚めないで欲しい……」
「夢じゃありません、ネルロ様。私はちゃんとここにいます……」
骨ばった手を握ると、ネルロ様が力強く握り返してくださった。
亡くなった両親を思い出して泣いていたとき、私が落ち着くまでずっと手を握ってくださった思い出が蘇り、胸の奥が切なくなった。
その後、システィーナ様とルゥナ様が自己紹介をした。
ネルロ様は、レイ様がルミテリス国王であること以上に、システィーナ様とルゥナ様の存在に驚いていらっしゃった。
「ま、まさか……ルミテリス王国とクロラヴィア王国以外にも国があるなど……」
「はぁ? お前んとこにも守護獣いるんだろ? そいつが教えてくれなかったのかよ? お前、『元』とはいえ、神官長だったんだろ?」
という、以前ラメンテに向けられた疑問がルゥナ様の口から出たことによって、私たちの視線がネルロ様に集まった。
教えて貰わなければ。
ネルロ様を含め、大勢のクロラヴィアの民たちが、祖国から何故逃げてきたのかを――
大きく音を立てて刻む心臓を感じながら、私は静かに訊ねた。
「ネルロ様……クロラヴィア王国で一体何があったのですか? こんなにもたくさんの人々が結界の外に出てくるなんて……尋常なことではありません!」
出来る限り感情を押し殺し、静かに言ったつもりだった。だけど、命からがら逃げてきた亡命者たちの様子を思い出すと、自然と言葉に感情が乗ってしまい、言葉の最後に力が入ってしまった。
とてつもなく恐ろしい予感がする。
ネルロ様の視線が、絨毯の上に落ちた。
眉間に深い皺を作りながら、内側に巻き込んだ唇を噛みしめる。
しかし瞳を伏せ、鼻から大きく息を吸い込むと、両唇の隙間から長く吐き出した。
開かれた薄紫の瞳には、神官長としての荘厳さがあった。
「今、クロラヴィア王国全域で、化け物に若さを奪われるという事態が起こっている。若さを奪われた者は一瞬にして年老い、やがて老衰で死ぬのだ……」
ネルロ様が仰った言葉が、すぐには理解できなかった。
だけど、理解出来なかったのは私だけではないみたい。レイ様もシスティーナ様も目を見開いたまま固まっていたから。
話によると、最初は若い貴族令嬢たちが襲われたらしい。
しかしすぐに若い男性も標的となり、ネルロ様が国を出る頃には、年齢関係なく襲われるようになったのだという。
もちろん、クロラヴィア王家にも混乱は及んでいる。
オズベルト殿下にいたっては行方不明で、生きているかすら分からないらしい。
混乱の中で救い出されたネルロ様は皆と話し合い、ルミテリス王国が今も存在している可能性に賭けて、結界の外に出たのだという。
ネルロ様が嘘を言っているとは思えない。だけど信じるには、あまりにも突拍子すぎた。
若さが奪われるなんて、まるで――
次の瞬間、クロラヴィア王国の聖女の顔が――知らずに生命力を捧げさせられている彼女たちの顔が過った。
ゾッとした。
まさか……
「それで……化け物とやらの正体は分かっているのか?」
私の疑問を読み取ったかのように、レイ様が淡々とした口調で問う。
ネルロ様は硬い表情で頷いた。
「人々から若さを奪う化け物の正体は……キアラという我が国の聖女です」
「キアラが!? な、何かの間違いではないのですか!?」
声を震わせながらネルロ様に訊ねた。キアラと化け物が全く結びつかなかったからだ。
貴族令嬢として、聖女として美しく、名高い彼女だ。オズベルト殿下からも一目置かれていたはず。
化け物になる理由が見つからない。
否定して欲しかった。
しかし、現実は残酷だった。
「……わしも、実際見るまでは信じられなかった。だが……この目で見てしまったのだ。『約束』だの、『国のため』だの、支離滅裂なうわごとを呟きながら無数の触手で人々を襲う、キアラ嬢を……あれはもう、人間ではない」
「そん、な……」
私の全身から力が抜けた。
どうして、という疑問が頭の中をぐるぐる回る。
今この瞬間も、たくさんの人々がキアラの手によって命を奪われている。
このままだとクロラヴィア王国は間違いなく――滅ぶ。
そのとき、
”私が死んだ後も、どうかこの国を守って……約束、よ”
”約束、する……約束……するから、だから……”
夢の中で聞く声――女性の声と泣きそうな声が、耳の奥に蘇った。
いつもなら気にしなかった。
しかし、二つの声が続けて聞こえたことによって、とあることに気づく。
どうして今まで気づかなかったのかと思うほど、恐ろしく簡単なことに。
この二つの声は――会話だ。
そう認識した瞬間、目の前の風景が揺らいだ。
白い何かがいる。
私の視界の端に、痩せ細った腕と手が映った。その手は目の前の白い影に触れ、そっと撫でた。
”早く元気になって……ウルシラ……大好き、だよ……”
白い影が、知らない名で私を呼んだ。
なのに、私の口元が緩む。
なのに、私の唇が勝手に動く。
”私も……大好き……これからもずっと一緒にいたい……”
影の輪郭が次第にハッキリしていく。
私の口から、夢と同じ女性の声が零れた。
ラメンテと同じ姿になった、白い存在の名が――
”――シィ”




