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断末魔の悲鳴は上がらなかった。
「―――かっ!?」
振り子のように横から迫った鋭利な爪が野盗の首を貫く。
野盗は突然の痛みに叫びを上げようとしたが、串刺しにされた喉から溢れるのは鮮血だけ。
自分の血に溺れながら手足をバタバタと動かして暴れるが、ソレは獲物を決して逃すまいとびくともしない。隠し持っていたナイフを必死に突き立てるも、カツンという硬質な音を立てて弾かれてしまう。
「ぐ、ぎぃ……!!?」
首に刺さった爪が野盗の体を持ち上げ、抵抗虚しくその命を手中に収める。
視界から急速に色が失われていく中で、彼は最後の力を振り絞って上を見た。
感情の窺えない無機質な黒い目玉が顔を覗き込んでいるが、死を悟った彼に恐怖はない。さんざ命を奪ってきたのだ、今度は奪われる側になっただけのこと。
彼は皮肉気に笑うと恐ろしいはずのソレには目もくれず、先に逝っていた仲間たちを見た。
隠れていたところを不意打ちされたのだろう。皆一様に急所を刺し貫かれ、糸で周囲の木に巻き付けられている。自分もこれからその仲間入りをするのだ。
(……苦しまずに死ねるのは、せめてもの救いかね)
霞んでいく視界が回る。
くるりくるりと体が巻かれていき、野盗の視界が暗く閉ざされていった。
「蜘蛛……蟹か?」
食卓で見かける硬質な殻を備えた姿と、捕まえた獲物を膨らんだ腹から出した糸で器用に巻いている手際にどっちかと首を傾げる。
「どっちも外れ……奇居虫です。糸切奇居虫」
外見はジグも勘違いしたように巨大な蟹に近い。
体は艶がある黒い甲殻に包まれており、そこから長い脚が八本伸びて大きな体を支えていた。
蜘蛛を思わせる腹の部分だけは甲殻に覆われておらず、柔らかく動いて次々に糸を吐き出している。
爪は鋭利な細長い形状をしており、鋏を閉じた状態だと太めの鶴嘴のようだ。
頑丈なそれは武器にもなるが、先ほどの糸巻きの手際を見るに細かな作業にも向いているらしい。
「ああやって木に縛り付けて獲物を保存しておくんですけど、どこにしまったのか忘れてしまうんですって。昔は怪奇現象として恐れられていたらしいですよ」
「……木に生った怪しげな繭から死体がぼろぼろ出てきたら、誰だってそう思うだろうさ」
説明を聞いたジグは双刃剣に巻かれた布を解きながら然もありなんと肩を竦める。
餌を綺麗に巻き終えた糸切奇居虫が近くの木に繭を括り付けている。冬季が近づいて肌寒くなってきた今日この頃、突然沢山の餌が現れてくれたせいかどこか機嫌よさげにも見える。
「五等級の魔獣に相応しい頑丈な甲殻と鋭い爪、魔術で作り出す強靭な糸は厄介ですけど……逆に言えばそれだけです。やっちゃいましょう」
「気合が入っているな。うまい相手か?」
「美味い相手です」
せっせと餌を括り付け終えた糸切奇居虫の標的がジグたちへ移る。
頭の固そうな魔獣は”足るを知る”という言葉を知らないようで、十分な保存食を得たのにまだ欲している。長い脚が動いて木々を足場に迫りくる。
「美食家が大枚はたいて依頼を出すこともあるほど美味だそうですよ。私も食べてみたいです」
だがそれはこちらも同じこと。
シアーシャの食欲に満ちた目が相手を獲物と捉えた。相手を喰らうという、ある種原始的な欲求が真正面からぶつかり合う。
ジグは磨き上げられた双刃剣を構えた。
肩口で構えた赤黒い切っ先を異形の魔獣へ向ける。
「恨みはないが、仕事なんでな」
言葉を合図に糸切奇居虫が甲殻を軋ませて速度を上げる。
魔術を行使する匂いを前後から感じ取ったと同時、ジグが駆けだした。
糸切奇居虫は突然前進を止めると、身をくの字に曲げながら腹の先をこちらに向けて糸を吐きかけてきた。
勢いよく発射された糸。
見ただけではその脅威を判断できない武器だが、曲がりなりにも五等級の魔獣が攻撃の手段として選んだのだ。見た目以上の危険を孕んでいると思った方がいい。
ギリギリではなく余裕を持って射線から身を外したジグだが、糸切奇居虫は腹を揺らして糸を撓らせた。突如軌道を変えた糸が横薙ぎに迫る。
「芸達者な……がっ!?」
糸を手甲で受け止めたジグは想像以上の威力に目を瞠る。
耳鳴りがするほどの破裂音が鼓膜を叩き、手甲から腕に伝わる威力は肩に痺れが残るほどの衝撃を伴っていた。
鞭の原理……撓りを通じて運動力が効率的に伝播され、根元から先端になるにつれ細くなる形状を利用した力の一点集中。魔獣の力で生み出されたその威力は計り知れない。
同じ魔獣の素材で作られていなかったら腕ごと捥げていたであろう威力を受けたジグが体勢を崩した。
肩越しにくわんと揺らされた脳が眩暈を引き起こす。
「チッ」
ジグは揺れる視界と崩れた体勢も直らぬまま身を投げ、転がりながら木を盾にして追撃を躱した。
立木を叩いた糸は激しい破裂音をさせて幹を深く抉ると、その勢いを失う。糸切奇居虫はその体型から何度も振り回して攻撃できるわけではないらしく、糸を切って接近してくる。
魔術で作り出す糸は粘着性か否かを任意で選べるようで、鞭のように振るった糸は張り付かず地に落ちていた。
ジグへ接近していた魔獣に詠唱を終えたシアーシャの魔術が発動する。
勢いよくせり出した鋭い杭が左右の脚を貫き、中ほどから砕かれた脚が落下する。
しかし八本ある脚の二本を落とされた程度で糸切奇居虫は止まらない。
痛覚がないのか獲物を前に興奮しているのか、残る脚でジグへ肉薄する。
シアーシャが岩槍を放つも流線型かつ頑丈な甲殻に逸らされて致命傷には遠い。
「ジグさん!」
鶴嘴状の爪が風を切り、未だ体勢の整わぬジグへ迫る。
「問題ない」
横薙ぎの爪撃は、しかし獲物の喉元へ突き立てられることはなかった。
一歩前へ。
それだけで直撃を回避したジグは、同時に双刃剣の切っ先を横に構えて薙ぐ軌道の腕を受け止めていた。脆い関節部で双刃剣の先端部を強かに叩いた糸切奇居虫の腕から異音が鳴る。
「迂闊だな」
関節部を砕かれてだらりと動かなくなった相手の腕から剣を抜き、脇を締めた鋭いショートアッパーを叩き込む。新たな魔石を補充されて復活したバトルグローブの衝撃波は、半壊していた糸切奇居虫の腕を完全に圧し折った。
腕が宙を舞うより先にジグは踏み込み、餌に釣られて自身の間合いに入った相手へ反撃に出る。
咄嗟に糸を放とうとした糸切奇居虫の腹に蒼金剛の指弾を放つ。
魔力を分解する作用のある硬貨が魔術で作り出す糸の生成を一瞬阻害し、致命的な隙を作りだした。
「はぁ!!」
ジグが強く踏み鳴らした大地が大きく削れる。
回転する勢いを込めた力が膝から腰へ、肩から腕、剣先へと伝播していく。
全身を利用して打ち出された暴風が如き威力を秘めた螺旋突きが、魔獣の頭部目掛け繰り出される。
自らの命を脅かす一撃に、本能に忠実な糸切奇居虫は揺るがない。
目視することすら難しい速度の剣先を、なんと残る爪で挟み込んでみせた。文字通り人外の反射神経と、二本の爪で糸巻きをこなす器用さを併せ持った魔獣ならではの曲芸であった。
「芸達者だな……だが」
先と同じ台詞を口にしながらも、その結果は真逆。
挟み込む頑丈なはずの爪は、触れた傍から小枝を折るように蹴散らされていく。
「これを止められるものか」
いとも容易く防御を貫いた螺旋突きは威力を減衰させることなく、糸切奇居虫の頭部を粉砕した。




