I cut all the things which you hate : 10
勾玉《牙を剥く魂》。
その力は《所持者の抱く憤りを正す》。所有者の憤りを元にして所有者に何らかの力を与えるというものらしい。
僕の抱いた憤りは自身の弱さに対するものだったからだろうか。僕の全身に力が漲り、身体能力は日暮とまではいかないものの、それでも降り注ぐ瓦礫を弾き飛ばすことは出来た。また僕の身体能力が上がったことにより六面体が示す選択肢の幅も増えたように思える。先程までは僕の身の安全を優先し逃走や回避など、危険から遠ざかるものしか出さなかったが、今は降り注ぐ天井の間をすり抜けさせたり崩れ落ちた床を飛び越えさせたりと、かなり危険を伴う導きもしてくるようになった。そのお陰で時間は随分短縮出来ている様に思う。
けど、残り時間が短過ぎた。三十秒では階段に辿り着き、下ることしか出来なかった。それでも脱出ルートはこれが最良だったらしい。にも関わらず時間切れとは、やはり僕が最初の導きを蹴った為だろう。
階段を下ると同時、時間が過ぎたことを示すように二つの六面体は僕の手から転げ落ちた。僕は慌ててそれを拾い上げ、そして、目の前に先程までとは比べ物にならないほどの瓦礫が落ちてくるのを見た。もしあのまま進んでいたら押し潰されていたことだろう。
しかし、押し潰されなかったとは言え、僕たちは完全に閉じ込めれたことになる。出入口まではあと数百メートル程度なのに、大量の瓦礫や棚、商品など上のフロアにあったもの全てが此処に集まったのではないかと思える程膨大な量で塞がれてしまった。
「くそ…」
「違う出入口に早く――」
日暮が踵を返し、階段を再び駆け上ろうとするが、
「もっと早い方法があるの。《艮》で壁を斬れば良いの」
その前に路城さんが提案する。確かに僕たちは一階に辿り着いている。なら崩れた方とは逆、外に面していると思われる壁を斬ってしまえばそれで容易に脱出出来るはずだ。
「路城さん、お願いします」
「分かったの」
僕の言葉に路城さんは頷き、腰から黒い日本刀を抜き大きく壁に一閃を走らせる。
が。
「…そんな…」
確かに壁は斬れている。それこそ《艮》の名に恥じない、見事な斬れ味だ。ケーキを切り分ける程簡単に壁には大きな一本線が刻まれている。しかし、壁の向こうにはさらに薄く色付けされた壁が立ち塞がっていた。恐らく崩れ落ちた外壁の一部だろう。外壁が薄く黄色に色付けされていたことを覚えている。崩れ落ちた外壁が一体どれ程の量で、何処まで続いているのかは内側からは窺い知れない。それに、もしかするとこの外壁の上には他の瓦礫などが積み重なっていて、下手にこの外壁を斬り崩すとバランスが崩れて此処に瓦礫が雪崩れ込んで来る可能性もある。
「っ! 日暮、上から他の所に回れるか見て来てくれ」
「うん!」
「路城さんは斬るのを待ってください。《導きの箱》で調べてみます。」
「分かったの」
二人に指示を出し、僕は祈る気持ちを込めて二つの六面体を転がす。
制限時間を越えてしまった。その事で僕たち三人の選択肢は全て潰えてしまったのではないだろうか。そんな不安を無理矢理に押さえつけて縋る様な気持ちで、六面体を床へと放る。
転がり面を出すまでのその数秒も僕には永遠のように感じられた。咽喉が酷く乾き、全身を冷たい汗が滲んでいた。
もしかしたら、六面体はずっと面を出さないのでは無いだろうか。そんな不安が不意に頭を過ぎる。
二つの六面体はゆっくりと転がり、路城さんの足元の周りを転がり続ける。
「…壁を斬って抜け出せってこと…?」
僕の言葉の言葉を肯定するかのように六面体はその場で勝手に跳ねた。
「駄目だよ、時月君。二階から上も崩れ落ちてて移動出来そうに無い!」
二階から戻ってきた日暮は顔を真っ青にしていた。どうやら一階の大部分も既に崩れ、出入り口も全て塞がってしまっていると考えて良さそうだ。無事なのはこの階段部分だけかもしれない。それもいつまでもつと言うわけではないだろうが、摂り合えずは階段だけでも縦に充分なスペースがある為、酸素が無くなる心配は無いと思う。それだけでも不安が解消されたのは良かったと言える。
僕は日暮にも六面体の示すことを伝える。僕たち三人の命は最早壁を崩せるかどうかに懸かっている。
「此処がいつまで保つか教えて欲しいの」
僕が日暮に説明し終わるのを待って、路城さんが口を開く。その額には冷や汗だろうか玉のような汗が浮かんでいた。
「知ってしまうと不安になりませんか。それにもし残り時間が少ないなら《導きの箱》がさっきのように自発的に示してくれると思うんです」
僕は未だに足元に転がる六面体に視線をやるが、残り時間は示していない。ある程度の余裕はあるように思える。
「だから、壁を崩すことに専念しましょう。
路城さんは、外壁をある程度の大きさで刳り抜くように斬って貰えますか。それなら僕と日暮で運び出せて、路城さんの負担も大分と減るし、何より作業効率が格段に上がります」
「うん、分かったの。瞬君、春音ちゃんも頼んだの」
「はい」「オッケーです」
三人で分厚い壁を崩す事に挑む。路城さんが《艮》を壁に円を描く様に動かして、刳り抜く。目の前の外壁に大きな窪みが出来るが、それでもその先にはまだ壁が立ちはだかっていた。障害物がまだある事は予測も出来ていたが、現実に目にするとやはり心が少しばかり凹んだ。
全身が覆える程大きく刳り抜かれたコンクリートの塊を僕と日暮が抱え上げて、階段の上へと運ぶ。人間の筋力が持ち上げられる限界の重さというものは分からないが、それでも二人掛かりならば何とか持ち上げることが出来た。僕たち三人は目の前が開けるまでその作業を繰り返した。コンクリートを置いておく場所が階段の上しか見当たらなかったとは言え、限界に近い重さの物を抱えて階段を上るというのはかなり辛い。日暮は僕よりも重さには苦労していなかったようだが、階段の上り下りを繰り返すに連れて表情が曇っていった。恐らく黒い影を蹴り砕こうとした時に痛めたのが響くのだろう。けれど今、日暮に休んで貰うとペースがかなり落ちることになってしまう。日暮には悪いが頑張って貰うしかないようだ。日暮だけでは無い。路城さんにも日本刀を振り続けて貰わなければならない。手の肉刺が潰れて血が滴ることになっても僕は路城さんを止めることが出来ない。此処に居る誰か一人の力でも欠けたら、三人皆の安否が保障されなくなってしまう。だから僕は奥歯を噛み締めてでも、静止の言葉を飲み込まなければならない。言葉の代わりに僕はこの悔しさを力に変える。《牙を剥く魂》を遣っても尚足りない自分の無力さを勾玉に注ぎ、僕はコンクリートを抱え階段を駆け上がる。
何度も日暮の苦しそうな声を聞き、何度も路城さんの手から血が滴る姿を目にし、何度も僕は奥歯を噛み締め、漸くその努力は報われた。
「繋がったの!」
全身に玉のような汗を掻いて、それでも決して休まず《艮》を振るい続けてくれた路城さんの歓声が聞こえた。
その時、僕と日暮は階段を下っていた。外と繋がる感動の瞬間に立ち会えなかったのは残念だが、それでも薄暗い階段の踊り場で嬉しそうな路城さんの声を聞けただけでも今までの苦労を吹き飛ばすには充分だった。
「良かった…」
日暮なら飛び上がって喜ぶかと思ったが、日暮は安堵したかのように呟き、階段の踊り場にへたり込んだ。どうやら足の痛みは限界まできていたらしい。非常灯に照らされてズボンの裾から見えた足は黝く変色し、大きく腫れ上がっていた。
「悪かったな。日暮」
僕は無理をさせた日暮に労いと謝罪の言葉を述べて、肩を貸そうと手を差し出した。
けど、僕が日暮の手を取ろうとした瞬間。
ピシ、だったか、ガラ、だったか忘れたが呆気無い音が聞こえたと思ったら、踊り場の天井が僕たち二人目掛けて落ちてきた。
「な!?」「時月君!」
僕は咄嗟に両手を頭の上に突き出し天井を支える。何とか僕の力でも支えることが出来たが、それもぎりぎりで何十分も保ちそうに無い。
僕が支えることによって崩壊することは免れたようだが、これで僕が逃げることは出来なくなってしまった。僕がこの手を離せば一気に天井が崩れ落ちてこの階段も崩落することだろう。
「今、手伝うから」
日暮が慌てて僕を手伝おうと立ち上がるが、僕はそれを丁重に断る。
「日暮…お前は…路城さんと一緒に逃げろ」
「そ、そんなこと出来る訳ないよ!!」
僕の言葉に日暮は当然首を振るが、僕としてもそれを認める訳にはいかない。
「僕…一人だけなら…《導きの箱》で…瓦礫の下からでも脱出…出来るから」
もし運良く瓦礫に押し潰されていなかったらだが。日暮を此処から逃がす為なら嘘も方便だろう。
僕の言葉を聞いても日暮は立ち去らなかった。嘘だと気付いたのだろうか。嘘だと気付いたなら僕の気持ちも酌んでくれ。
ふと、先程路城さんが黒い影の残骸と共に飛び降りようとした時の記憶が蘇る。路城さんも今の僕のように落ち着いた胸中だったのだろうか。死ぬ事さえも怖くないこの気持ちを覚悟というのだろうか。だとしたら嬉しいな。少し前までは誰も信じれることが出来なかった僕が、他人の為に死ぬ覚悟を持てることが出来るなんて。
「日暮…『僕の思う通りに行動して…良い』んだろう?」
僕は笑う。出来る限り穏やかに。
「だったら…あたしも、『時月君が、危なくなったら、絶対に助ける』って約束したよ」
日暮は泣く。大粒の涙を流して、酷く取り乱して訴え掛けるように。
「時月君は、路城さんが飛び降りようとした時、どんな気持ちだったの!? 悲しかったんじゃないの!? 助けたかったんじゃないの!? 届かなくたって、手を伸ばしていたじゃない!!!
路城さんを助けることを諦められなかったからだよね? あたしも、諦められないんだよ。時月君を置いて、逃げ出す事なんてあたしには出来ない」
「…私に言えた義理では無いのだけど、時月君は一人で残るべきでは無いの…」
狭い階段内に路城さんの声が反響した。いつまで経っても下りて来ない僕たちを心配して来たのだろう。小さな子供に諭すように穏やかな口調で路城さんは僕の前に立つ。
「瞬君も知っている通り、私は昔友達を救えなかったの。とってもとっても大好きな友達だったのに、その友達が自分ではどうしようもないくらい困っていたのに助けてあげられなかった。自分で自分を制御出来ずに苦しんでいたのに友達を止めてあげられなかった」
ずきりと心に痛みが走った。路城さんの言う『友達』、今は僕の憤りを糧にして力を行使する勾玉の感情が僕にも伝わってくるようだ。
「そんな友達は取り返しのつかない罪を犯してしまったの。私は『私がその子を止めることが出来なかったから、その子が罪を犯した』のだと自分を責めて、その子と一緒に死ぬ事で償おうとしたの。瞬君にも春音ちゃんにも沢山迷惑を掛けてしまったの。今考えると償い方はもっと他にもあったのに、私が死ぬ事で償おうと思ったのは、私が友達の事を信じられなくなってしまったからだと思うの。もう昔とは変わってしまって、『その子は死を迎えるまで暴れ回るから。だけどこの子だけじゃなくて私にも責任があるから』と、そう思ってしまったからなの。
だけど、その子は決して変わってなんかいなかったの。
その子は飛び降りた私を護ろうと、包み込んでくれたの。
私に『死んじゃ駄目だ』って叱ってくれたの。
役に立てなかった私に『心配してくれて有難う』って、初めて会った時と同じように優しく言葉を掛けてくれたの。
その時、私は悟ったの。
友達だからこそ、私はその子が罪を償うまでずっと待ち続けなければいけないって。
ちゃんと生き残って、その子が帰って来た時に『お帰り』って言わないといけないし、その子がお礼の言葉を口にしたら『どう致しまして』って返さないといけないの。
その子を迎える時はね。瞬君も、春音ちゃんも、淡雪ちゃんも、かすみさんも、出来る限り大勢で出迎えてあげたいの。私にもこれだけ多くの友達が出来たんだって、その子がいたから私にもこれだけ多くの人と友達になれたんだよって自慢したいの。
貴方がいてくれたから、私にも友達が出来たんだよって、有難うってお礼を言いたいの。
だから、瞬君。瞬君にも無事に脱出して貰わないと困るの。死ぬことを覚悟するなんて許さないの。そんな覚悟では私も春音ちゃんも瞬君を置いて脱出できないの。皆が全て幸せになれる、そんな優しい結末しか私は認めないの」
その為なら、と言葉を区切り、
「どんな悲しい道程にも、どんな切ない過程にも、どんな厳しい現実にも負けはしないの。私は、私の友達を信じて続けるの」
と勇ましく、彼女はそう言い切った。
『強くなったね』と声が聞こえた。
そうなのか、と僕は訊ねた。
『けど変わらなく優しい』と声が続けた。
それは分かる、と僕も返す。
『だからこの結末も今の彼女なら耐えられる』と僕へと思考を送る。
それでお前は満足なのか、と声へと言葉を投げ掛ける。
『月耶はもう一人じゃないから』。答えになってない。『《導きの箱》があるなら不可能じゃない』。それでも何年も掛かるかもしれないだろう。『芸術作品にとって数年なんてあっと言う間だよ』。分かった、納得しているなら良い。『うん』。何か路城さんに伝える言葉はあるか。『それは自分で伝えるから良い』。そうだな、それが良い。『けど、少しだけ待っててって伝えて欲しい』。分かった、伝えておく。『じゃあ』。ああ、始めよう。
僕は目の前に立つ、ツインテールにジャージ姿の少女と黒々とした長髪に巫女服姿の女性に向かって口を開く。
こいつの覚悟を伝える為に。