4話
「まったく、肝が冷えましたわ」
塵ともそんなこと思っていない口調で、ハンナは嘆かわしそうに首を振った。その隣では、いつものようにシェリがお茶を淹れている。いつもと違うのは、その可愛い可愛いメイドさんが涙目であるということくらいだ。
一連の出来事と、一歩間違えれば自分の主人が石の牢送りになりかけていたことを聞かされたシェリは、子犬のようにキャンキャン泣いて、うろたえて、癇癪を起して今ようやく落ち着いたばかりなのである。些細なことだと慰めても聞く耳を持たない。自分が連れていかれなかったことも相まって、拗ねた子犬のように、口をへの字にしながらお茶の葉が開くのを待っている。
あの場は丸く収まったし、陛下も最終的には大爆笑していたから、不興を買ったわけでもない、と思う。そんなに心配しなくていいのに。せいぜい物珍しい令嬢だと思われたくらいだ。現に、あの場は陛下が笑いを収めてすぐに解散となった。叱責さえなかったのだ。
そうやって宥めても効果無しだった。今日一日は不機嫌かもしれない。そんな様子も可愛いけれども。
「爪の事?それとも尻尾?」
「両方ですわ。お嬢様の面の皮の厚さは十分承知しておりましたが、それでもひやひやいたしました」
「どこかのメイドがしてくれた厚化粧でいつもの3倍は厚かったからね。感謝しないと」
「うふふ」
「はは」
魔女とのいつものやり取りを終えて、シェリが運んできたお茶に口をつける。うんおいしい。シェリは不機嫌でも不機嫌じゃなくても笑っていても泣いていてもお茶を入れることにかけては第一級だ。どんなにまずい茶葉でも見事な味に仕上げる。
お茶を運び終わった子犬は、まだ怒っているんですよと言わんばかりにぷいと顔をそむけて壁際に行ってしまった。
「それで、どうなさるんです?後宮をお抜けに?」
「まさか。こんなにいい条件の後宮を抜けるなんてとんでもない。王様のお渡りは心配しなくていい、好きな時に抜けられる、出た後は未婚で生活できる。奇跡だね。神様の贈りものなんじゃないの?とりあえず、ことが収まるまではここにいるよ」
「けれど、今日の様子から見て、後宮に残るのはお嬢様だけなのでは?それこそめんどうですわ」
「他のお嬢さん方はともかく、プレスコット公爵令嬢はここに残ってくれるよ。あの子が簡単にあきらめるわけないって」
そう、私の心配事は一気に解消されたのである。やれよかった。やれめでたい。あとはプレスコット公爵令嬢が気丈な態度であの獣の王様を愛してさしあげられるかどうかにかかっている。まぁもともとが尋常ではない美丈夫だったのだ。元に戻ることを夢見ながらの新婚生活も悪くはないだろう。もしかしたら美女と野獣のようにお姫様の口付けで元に戻るかもしれないしね!きゃあ破廉恥!
…完全に他力本願だが、みんなが幸せになるにはこの方法が一番なのである。ご容赦願いたいものだ。
「だけどまぁ、自信に満ち溢れてるね、あの王様は。まさか自分が獣になったことを国民に言っちゃうとは思わなかった」
「…自信、なんですか?」
おや。意外にも、拗ねた子犬が興味を示した。
「一歩間違えれば嫌悪されて計画破綻どころか王族追放されかねないからね。自分のとこの国王が獅子になっちゃいましたって、普通に考えて王様の能力不足とか、呪われるほど悪いことしたのかとか、気持ち悪いとか、とにかく侮蔑の対象になるでしょ」
「あ、た、確かに」
「それを全部覆して、国王陛下を傷つけられた怒りに変えられると確信できるほど自信を持ってるわけだ。私にはまねできないね」
他にも、変な噂が尾ひれをつけて独り歩きするくらいならいっそ、みたいな思惑が様々あるだろうが、それは置いとくとして。
普通なら、正気でいることだけでも称賛されるレベルだ。獅子になったことを悲観して、自殺を考えてもおかしくない。もう二度と普通の人間に戻れないかもしれないのだ。その絶望は計り知れない。
それを逆に利用しようとするあの王様は、馬鹿か、相当の切れ者か、盲目的な国家信者か、変態か、動物愛護団体か。いずれにしても深い関係になるのはご遠慮したい人間であることに間違いはなかった。よかったお渡り無くて。そしてこの先も一生無くて。ああよかった。
今夜陛下が私の部屋にお渡りするとの伝言が女官長から下ったのは、その僅か30分後でした。なんでやねん。
なんでやねん。




