22 おぞましい害意にさらされ続ける
「黒髪の令嬢?」
ヴェイセル様が変に間延びした声を出す。
「ちょっと待てよ。やっぱりハルスティンじゃなかったってことか?」
ブランも狼狽をその顔に漂わせる。
放課後。
私たちは午前中のちょっとした策略とその結果出くわした意外な姿の一部始終を、すぐさま二人に説明した。
そして、あの令嬢が去ってすぐ、私の鞄にナイフのようなもので傷がつけられていたことも発見していた。手口からして、昨日ブレザーを切り刻んだ犯人と同一犯だと推測できる。
推測はできるのだけれど、まったく見覚えのない、どこの誰かもわからない相手からのむき出しの悪意に、もはや恐怖を通り越して困惑しかない。走り去る黒髪ストレートの令嬢の背中を何度も思い返しては自分の頭の中の記憶をあちこち探し回るけれど、どうしても見つけることができない。一体彼女は、どこの誰? 何の恨みが、何の目的があって、私に執拗な敵意を向けるのだろう? 私はなぜ、あんなにもおぞましい害意にさらされ続けているのだろう?
「顔は? 見なかったのか?」
「見えなかったのよ。急いで逃げて行ったんだもの」
「私も横顔がちらっと見えた程度で、はっきりとは……」
「そうか……」
私たちの足音が聞こえたのか、黒髪の令嬢は慌てたように教室から飛び出して行った。顔を見られないようにと少し俯き加減で走り去ったんだろうけど、最大の特徴である髪の色にまでは気が回らなかったらしい。
「ねえ」
午前中からずっと、何か考え込むような難しい顔をしていたカティアが意を決したように口を開く。
「私、一人だけ、黒髪の令嬢に心当たりがあるんだけど」
「え、誰だよ?」
ヴェイセル様が弾かれたように、カティアに視線を移す。
「……セシリア・エヴァンス伯爵令嬢」
「セシリア・エヴァンスって……」
「誰だっけ?」
「え、それって、エリアスの……?」
その名前にいまいちピンと来ていないブランを一人置き去りにして、私たち三人の表情は強張り蒼ざめる。
セシリア・エヴァンス伯爵令嬢。
それはエリアスに密かな恋心を抱き、勇気を出して星祭りに誘い、その後順調に交際を続けている一つ年上の令嬢の名前である。
「確かに、彼女はストレートの黒髪だ……」
「会ったことあるの?」
「一度だけ、エリアスに紹介されて……。でも、まさか……」
「黒髪の令嬢なんて、そんなにいないじゃない。それもあれだけ真っすぐなさらさらストレートは、あの人くらいなもんだと思うんだけど」
カティアの言葉に、ヴェイセル様は戸惑いを隠せないらしい。
ここへ来てようやくセシリア・エヴァンス伯爵令嬢が誰なのか気づいたブランが、それでも納得がいかないとでもいうように首を傾げる。
「じゃあ、その令嬢が犯人だとして動機は何なんだ?」
「セシリア・エヴァンス伯爵令嬢って、ルディスに片想いするエリアスを見ていて、いつのまにか好きになってたんでしょう? エリアスもそんなセシリア様にほだされてつきあうようにはなったけど、本当はまだルディスに未練があって、そのことにセシリア様が気づいていたとしたら? ルディスに敵意を向けるようになってもおかしくはないと思うんだけど」
「エリアスって、ほんとはまだルディスに未練があるのか?」
聞き捨てならないといった勢いで、ブランがヴェイセル様に詰め寄る姿勢を見せる。
「……それはちょっと……。俺もわからない」
「おい」
「俺だって、直接エリアスに聞いたわけじゃないからからなんとも……。俺は星祭りの少し前にはセシリア嬢のことをエリアスから聞いていたけど、本当はまだルディスのことが好きなんだろうなと思ってたし……。でもセシリア嬢に告白されて、ルディスのことはすっぱりと諦めてセシリア嬢とのことを真剣に考えようとしてるんだろうなと……」
「エリアスとセシリア嬢はうまくいってるんだろ?」
「傍から見ればな。でもエリアスの本心はわからない。あいつ、ポーカーフェイスだからさ」
私たちは、お互いにうんうんと頷き合う。
「どうする?」
ブランがひと際凪いだ目で、でも探るように私を見つめる。
「一番の被害者はルディだ。ルディがそいつを叩き潰してほしいって言うなら、明日にでもそうするけど」
「え」
「まったく同じ目に遭わせてやってもいいし。そいつのブレザーも鞄も、ギッタギタに切り刻んでやるけど?」
「いやいや、そこまでは望んでないから」
「じゃあ、どうする?」
もう一度凪いだ目で、私を見つめるブラン。
私は大きく息を吐いて、すっと顔を上げる。
「そりゃもちろん、直接対決でしょ」
◇◆◇◆◇
翌日の午後。
授業が終わったタイミングで、エリアスはセシリア・エヴァンス伯爵令嬢を連れてきてくれた。
エリアスには、実はおおよそのことを伝えてある。「信じられない、そんなことするはずがない」と即座に言ったエリアスは、むしろセシリア様の身の潔白を証明したいと協力を申し出てくれたのだ。
恐らく、ほとんど何の説明もなしに私たちの教室へ連れてこられたセシリア様は、それでも凛とした佇まいを崩すことなく静かに椅子に座った。真っすぐに流れる黒髪は目を見張るほど美しく、ついつい見惚れてしまう。でも外見も背格好も昨日目にした令嬢そのままで、ますます疑念が深まってしまう。
ひと通り挨拶をして、私たちはすぐに本題に入った。ブレザーの件はセシリア様ももちろん知っていたから、加えて教科書やノートがなくなっていたことを話し、そして昨日の一件について率直に尋ねる。
「昨日の午前中の時間、この教室にこっそり忍び込んで私の鞄に傷をつけたのは、あなたですか?」
真正面から、そのオリーブ色の瞳を捉える。
セシリア様は驚いて顔色を失い、でも力強く首を横に振った。
「私じゃありません」
「でも私たち、あなたが教室から慌てて逃げ去るところを見てるんですよ?」
「そんなわけはありません。その時間なら自分の教室で授業を受けていましたし、昨日は教室移動もなくてずっと自分の教室にいましたから。先生やクラスの人たちに確認してもらえばわかることです」
「……ほんとですか?」
もう一度その瞳を試すように見つめても、凛とした輝きは失われない。
先生やクラスの人たちに聞けなんて堂々と言うくらいなんだから、多分事実なのだろう。アリバイを証明する人たちがいるのなら、犯人ではない可能性が高い。
「じゃあ、昨日の令嬢は誰なのよ……?」
独り言ちるカティアの苛立った声を聞きながら、私はふと違和感を覚える。
目の前に座るセシリア様の髪色は、確かに真っすぐに落ちる漆黒。昨日目の前を走り去った令嬢のものと、寸分違わない。容姿や風貌だって変わらないはずなのに、でも、なんだろう。この違和感。何かが違う。何かが。
そして少し視線を下げた瞬間、唐突に違和感の正体に思い当たる。
「セシリア様」
私は思い切って、ひと息に言った。
「もしかして、セシリア様には妹がいたりしませんか?」
「……え?」
「昨日私たちが見た令嬢は、確かにあなたと同じストレートの黒髪でした。でも、制服のリボンの色がミントグリーンだったんです」
「え……」
「は? どういうことよ、ルディス」
「今、セシリア様を見ていて思い出したの。逃げた令嬢の顔はきちんと見えなかったけど、制服のリボンがちらっと見えたのよ。確かにミントグリーンだった。あれは中等部の制服よ」
セシリア様が息を呑む。
「セシリア……?」
エリアスが心配そうな顔をして、迷いなくセシリア様の手を握った。
「あ、あの……」
「セシリア。頼むから話してくれよ。大事なことなんだ」
「エリアス……」
セシリア様が、一瞬で苦悶に満ちた表情になる。
どこかただならぬ雰囲気を背負う二人の様子を固唾を飲んで見守っていると、セシリア様がゆっくりと口を開いた。
「妹は、います……」
「え?」
「何年生ですか?」
「……中等部の三年生です」
「……じゃあ」
セシリア様は、少し怯えたような暗いまなざしで頷いた。
「昨日お二人が見たのは、多分妹のミアだと思います」