21 いつの間にか蝕まれる
スヴェンに案内されて中庭に出ると、池の周りを取り囲むようにたくさんの生徒たちが群がっていた。
それをかき分けて奥まで進むと、中等部の先生が二人待ち構えている。池から引き上げられたらしいずぶ濡れのブレザーは、水際の岩の上に置かれていた。しかも、そのブレザーは。
「何これ……」
カティアの引きつった声が戦慄する。
ブレザーは刃物のようなもので傷がつけられ、あちこち引き裂かれていた。無残にも、原形を留めてはいない。
「え、なんで……」
「ルディス……!」
中等部の女性の先生がすかさず近づいてきて、「大丈夫?」と心配そうに私の顔を窺う。黙って頷くと、隣に立つブランの手が優しく肩に触れて、少しほっとする。
ついこの間までお世話になっていた中等部の先生たちは、駆けつけた私たち四人に状況を説明してくれた。
「テストが終わって帰ろうとしていた中等部の生徒の何人かが、池に何かが落ちていると気づいて教えにきたんだ。見てすぐに制服のブレザーだとわかったから、引き上げたんだが」
「ブレザーにあなたの名前があったから、スヴェンに呼びに行ってもらったの。あなたのブレザーで間違いない?」
私は岩の上に置かれたずぶ濡れのブレザーに手をかける。裏ポケットに自分の名前があることを目の当たりにして、今更ながらにぞわりと震えが来てしまう。
「……私のです……」
「じゃあ、ちょっと職員室で詳しい話を教えてもらえるかしら? 高等部の先生たちにも話さなきゃならないし」
「……はい」
「大丈夫か? ルディ」
ブランの青墨色の瞳が、ふわりと柔らかく私の顔を覗き込む。
「う、うん……」
「これ、着てろ」
「え?」
言うが早いか、ブランは自分が着ていたブレザーをさっと脱いで私の肩にかける。
「震えてるだろ」
「あ……」
「いいから着てろ。職員室には俺も行くから。大丈夫だから」
「うん……」
否応なしに涙が出そうになって、慌ててこらえる。
結局、カティアやヴェイセル様も職員室についてきてくれて、これまでのことをすべて話すことになった。
ノートや教科書が次々になくなったこと、ハルスティン・ベランノール侯爵令息が騎士科の校舎で見つけてくれたこと、そしてブレザーの紛失。
話し終えると、職員室の先生たちも一様に厳しい顔つきになる。
でもハルスティン・ベランノール侯爵令息が怪しいと睨んでいる私たちとは違って、先生たちは彼を犯人だとは思っていないようだった。理由は簡単、ヴェイセル様の指摘通り「騎士科の生徒には恐らく無理だろうから」。むしろ彼は善意の人間だと評価されることになり、私たちは鼻白んだ。
「それにしても、ノートや教科書のことはもちろんこのブレザーに関してはだいぶ深刻ですよね」
「同一犯と見てまず間違いないでしょうな」
「悪質すぎますね。卑劣極まりない」
引き裂かれてびしょびしょのブレザーだった『何か』は、一旦職員室で預かってもらうことになった。見知らぬ誰かの悪意の象徴は、どす黒く陰湿な存在感を放っている。
怖くて、目を覆いたくなる。
「とにかく明日、生徒全員に何か知っている人はいないか確認してみるから。もしかしたら目撃者がいるかもしれないし」
「何かあったら、私たちにもすぐに知らせにきて。いいわね?」
何人もの先生たちが、心配して声をかけてくれる。たくさんの人たちの善意と温かさに触れても、私の震えが止まることはなかった。
◇◆◇◆◇
「それ、貸すよ」
「え?」
「無期限で」
なんだかいつもより、密着している気がする馬車の中。
ブランはなぜか当たり前のように、私の手を握っている。しかも、指と指とが絡み合ういわゆる『恋人つなぎ』である。なんで? と問いかける隙も与えてはくれない。
「ブレザー、また新しく作り直すとしても時間がかかるだろ?」
「でも、そしたらブランの着るものが……」
「これから暑くなって着る機会は減るだろうし、どうせすぐ夏休みになるし、騎士科にはほかにも乗馬服とかジャージとかいろいろあるからさ」
「でも……」
「それよりさ」
改めて私のほうに向き直ったブランは、痛いくらいの視線で私をじっと見据える。
「ごめん」
「え……?」
「絶対に守るって言ったくせに、傷つけさせないって言ったくせに、怖い思いさせた」
「あ……」
「怖かったよな? ごめんな」
優しさしかない声に、こらえていたものが一気に溢れ出す。
ブランはこの前と同じように、ただ黙って私を抱き寄せた。私もなすがまま、なされるがままにその腕の中にすっぽりと収まって泣きじゃくる。
理由もわからず、誰のものかもわからず、唐突に向けられた執拗で邪な悪意。その悪意にいつの間にか蝕まれ、毒されて固くなっていたものがブランの温かさでゆっくりと緩んで溶かされる。そして涙と一緒に、落ちて流れていく。
私が泣き止むまで、ブランは何も言わなかった。
「……ありがとう、ブラン」
泣き止んで顔を上げると、ブランが愛おしさと申し訳なさとが入り混じったなんとも言えない顔をする。そして「大丈夫か?」と言いながら、その親指で涙の滲むまぶたを拭う。
「お前にこんな思いさせたやつ、俺は絶対に許さないからな」
「……うん」
「必ず俺が捕まえて、百倍怖い思いさせてやるよ」
「……どうやって?」
「え? どうやってって……」
特に何のプランもなかったらしく、ブランドがわかりやすく言葉に詰まる。「あー」とか「そうだなー」とか言ってるけど何も頭に浮かんでいないのがわかるから、可笑しくなってついふふ、と笑ってしまう。
「ありがとう、ブラン」
「何がだよ」
「全部」
「……お前なあ」
ため息まじりにそう言って、ブランはまたがばっと私を抱きしめる。
「可愛すぎるんだよ……!」
「は? 何言ってんの、そんなこと――」
「うるさい! 黙って抱かれてろ」
「え」
ブランにぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、こんな非常事態に幸せを感じてしまっている不謹慎な自分がいることをブランに明かす日はそう遠くない気がしていた。
◇◆◇◆◇
翌日。
朝一番に先生が昨日の騒動について話したことで、私のブレザーが無残な最期を遂げた経緯は学園中に知れ渡った。
それなのに、なぜか私は見るからにぶかぶかで大きめで、明らかに男物とわかるブレザーを着ている。というか着せられている。
今日はそれほど寒くないし、ブレザーがなくても大丈夫と言ったのに、ブランときたら
「いいから着ていけよ」
「いや、いいよ」
「着ていけって」
「大丈夫だって」
「いいから……!」
必死の形相で強めに押し切られて、断り切れなかったのである。
昨日の経緯が公になったことで、私がブランのものと思われるブレザーを着ていても誰にも何も言われないし、むしろ生暖かい目で見守られている気がしないでもない。
そこはかとなく気恥ずかしさを感じつつも、ブランのブレザーに残るほのかな香りに包まれるのは正直言って多幸感しかない。しかも、無駄にすんすん匂いを嗅いでしまう変態と化している自分がいる。やばい。なんだかんだ言って愛情表現過多ぎみなブランにすっかり溺れている気がしないでもない。
学期末テストも終わって、夏休みまではあと一週間余り。授業は午前のみになり、長期休暇を間近に控えた高揚感もあって学園全体がふわふわと浮き足立っている。
「昨日、ヴェイセルとも話してたんだけど」
そんなうきうきした雰囲気の中、教室移動のために廊下を歩くカティアが場違いに声のトーンを下げる。
「ブレザーにあんなことしたのも、教科書やノートのときと同じようにベランノール侯爵令息だと思う?」
珍しく真面目な表情をするカティアに、今朝馬車の中でブランが話していたことを思い出す。
ブランは「教科書とノートがなくなったのはハルスティンの仕業だと思うけど、ブレザーの件はあいつじゃない気がする」と言っていた。果たしてそこまでの恨みつらみがあるだろうか、そこまでの狂気を私に向ける必要があるのだろうか、と。
「ブランもさっき同じことを言ってたの。ベランノール侯爵令息の標的はあくまでもブランなんだし、教科書とかノートを隠すくらいの嫌がらせはしても、私のブレザーをダメにするところまでやるかなって」
「そうなのよ。もしやるとしても、ブランドのブレザーを切り刻むんじゃない?」
「じゃあ、教科書やノートを持ち出した犯人とブレザーの犯人は違うってこと?」
「うーん、そこがよくわからないのよねえ」
先生たちも「同一犯では?」と話していたし、昨日までの流れを考えればその結論が導き出されても不思議ではない。でも昨日は気が動転していて頭が回らなかったけど、よくよく考えたらやっぱりどこか腑に落ちない気もする。
「でね、私思うんだけど」
「うん」
「ルディスの持ち物がなくなるときって、多分教室に誰もいなくなるときじゃない? こういう教室移動のときとか、ランチの時間とか」
「まあ、そうよね、多分」
「ということは、このあとまた何かがなくなる可能性が高いと思わない?」
「え?」
驚いた拍子に立ち止まると、カティアはむしろこの状況を楽しんでいるかのようににやりと微笑む。
「ちょっと待ってよ。昨日の今日で? また?」
「昨日の今日だからよ。あのブレザー見たでしょ?」
「う、うん」
「狂気というか憎悪というか、そういう負の感情の塊みたいなものを感じなかった?」
「うん、まあ」
「それが今日にはこんな大騒ぎになって、ルディスは可哀想な被害者になってみんなに守られてる。犯人からしたら相当面白くないと思うのよ。それに、ここまで大ごとになってしまったら犯人はしばらく大人しくしているだろうとみんなが思うでしょう? その油断を逆についてくる可能性もあるんじゃないかって」
「……カティア、まさかあなたが犯人だってことはないわよね?」
「は? なんでよ」
「犯罪者の心理に詳しすぎない?」
そんなカティアの提案で、私たちは授業が終わったら即座に教室へ戻ることにしたのである。
それはほんの軽い気持ち、言ってみれば「試しにやってみよう」くらいの軽いノリだった。
授業終了のチャイムが鳴るか鳴らないかで廊下に出た私たちは、およそ貴族令嬢らしからぬ行動に出る。競うように走り出し、誰もいないはずの自分たちの教室に滑り込むと。
――――手に光る何かを隠した黒髪の令嬢の背中が、逃げるように走り去った。
この世界に「ジャージ」という概念を持ち出すかどうかで、だいぶ悩みました。




