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二十七「生死の海で死ぬ者、生きる者」

   二十七


 長い長い時間が経ったが、この世の終わりのような雷雨は依然として続いていた。

 突き刺すような雨に打たれ、吹き飛ばすような風に殴られながら、咲乃の死体を抱きかかえた俺は三途の池へと裏庭を歩いている。

 俺は満たされていた。欲望がようやく充足され、この途轍もない悪天候とは裏腹に心中は生まれて初めて雲ひとつなく穏やかだった。俺は咲乃を味わい尽くした。咲乃のすべてを手に入れた。だから今抱えているこの死体は、もう咲乃としての機能をひとつも所有していない、ただの抜け殻である。咲乃はもう俺の中にしかいなくて、金輪際、他の誰の手にも渡らないのだ。

 俺は至りきっていた。自分が永遠の充足の中にあると感じていた。

 三途の池に掛かった橋の中頃までやって来たところで、すっかりくたびれた咲乃の抜け殻をもう一度見た。咲乃という存在を絞り尽くされ、その断片すら残っていない肉塊。もう一度だけ口づけすると、嫌な腐臭が鼻を突いた。やはりこれ以上は、この抜け殻になにも望めない。

 欄干から身を乗り出す。あとは落とすだけ。この抜け殻はこの池の底に沈ませておくのが最も相応しいだろう。無論、彼岸に送ってやろうなんて殊勝な理由ではない。こんな抜け殻はもう咲乃でもなんでもないのだから、それを白蓮にくれてやることでしか意味を為さないと考えたのである。白蓮、せいぜい自分の無力さを思い知るがいい。お前が手にできるのはこんなものだけなのだ。

「あ……」

 あることに思い至った。この抜け殻は俺に嬲られ続けたために満身創痍となっているが、血はもう止まってしまっている。

「そうだよな……彼岸花を枯らしちゃ、いけないよな……」

 俺は抜け殻の喉仏に噛みついて、そのまま渾身の力で噛み千切った。酷い味だ。肉片を吐き出した後、抜け殻の首に開いた空洞をしばし眺める。その中に、ほとんど固形の血液がどろどろと溜まっている。

 これで良い。納得した俺にもう未練はなく、抜け殻を三途の池へと放った。それはたちまち真っ黒な池の底へと沈んでいった。

 達成感……。このなにかを成し遂げたという感覚は、これまでの人生ではついぞ得られなかったものだ。だからこそ今、俺には一片の気掛かりもありはしない……。

 ああ、笑いが込み上げてくる。

 多幸感が飽和して、笑いというかたちで表出するしかない。

 それは混じりけない、心の底からの笑いだった。

「あはははははははははははははははははははははははは――ははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ――――ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――――――」

 俺は天を仰ぎ、耳を(つんざ)く雷鳴や豪風の音にも負けない盛大な哄笑(こうしょう)をした。神羅万象を手中に収めたかのような全能感。ひたすらに愉快で、愉快で愉快で堪らない。

 ――そのとき。

 ――ガシッ、と。

 ――足首を掴まれた。

「は――――?」

 次の瞬間、俺は物凄い力で引っ張られた。欄干の下端にある細い隙間から伸びた手が、俺を池の中へと引きずり込もうとしている。だがその隙間は俺ひとりが通り抜けられるものではない。腰までいかない段階で身体がつっかえた――しかし俺の足を引っ張る手はなおも力を緩めなかった。足が千切れるかのような激痛を覚えたのも束の間、木製の欄干は砕け散った――その木片の数々が宙を舞うのを視界が一瞬だけ捉え、それを認識したときには既にもう、俺は水の中にいた――下方を見た俺は、想像を絶する光景を目にし、肺の中の酸素をあらかた吐き出してしまった。

 池の底は見られない。なぜなら、底は無数の死体に埋め尽くされていたからだ。無数の死体――それらは死体なのに、奇怪に蠢いていた。水の流れのせいで揺れているなんてものじゃない。彼女らは全員、俺に向かって両手を伸ばしているのだ。俺を仰いで、口々にこう云っている。

「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」

 俺の足首を掴んで底へと引っ張っていくのは咲乃だ。底で幾重にも幾重にも折り重なって俺を待っているのは、花帯さん……綿鳥さん……風櫛ちゃん……泡月ちゃん……何人もの彼女達だった。無数の彼女達だった。

 俺は理解した。綿鳥さんが話していたことは、本当だったのだ。白蓮が死に、四人の尼僧達は絶望した。真っ先に命を絶ったのは風櫛ちゃんだった。残った三人が彼女の死体をこの池に投げ込んだところ、彼女は蘇生して戻ってきた。到彼岸を達成できていないのに彼岸に行こうとしたから、送り返された。だから尼僧達は修行に励んだ。自分達だけで悟りを開こうと試みた。そしてそれを果たせたと思うたびに自害し、この池に沈んだ。しかしどうしても帰ってきてしまう。蘇生してしまう。白蓮との再会はまだ叶わない。彼女達はこれを繰り返し、いつしかこれは贖罪的供儀としての側面も持つようになった。白蓮の遺体が埋まっている土の上に咲いた彼岸花畑に血が注がれるという構図から、自然にそういった儀式の特色を帯びたのだ。

 これは遥か昔から繰り返されてきたことだ。四人の尼僧達は修行に努めては自害して三途の池に身を投げ、また蘇生する。彼女達の年齢も身体も、最初に死んだときに止まってしまったのだろうか。おそらくそうだろう。だって彼女達は本来ならとっくに寿命を迎えているはずなのだから。

 白蓮と綿鳥さんが彼岸邸に出家するときに、浮世へおいて行った子供。白蓮が死に、尼僧達が死と蘇生を何度も何度も繰り返している間に、浮世では二人の後裔が脈々と続いていた。その末裔が俺である。だから俺の母親は綿鳥さんに似ていた。俺もまた、白蓮と瓜二つなのだろう。花帯さん達が俺をひと目で白蓮と思うはずである。鏡に映すのと同じように、俺と白蓮の姿は同一なのだから。

 俺は白蓮の子孫であり、この血の中には白蓮の遺伝子がある。ならば俺の良心が白蓮という第二人格を形成したのも至極当然のことであり、俺がこの彼岸邸に導かれたのも実に道理だ。此処において俺の中の白蓮が目を覚ますのは必然だったのである。

「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」「白蓮様」

 天波のそれだけでなく、無数の手が俺の身体を引っ張り始める。皆がそれぞれ勝手に、争うように自分のもとへと引き寄せるのだ。彼女達は全員が白蓮を欲している。それはもう分かりきっていることだった。

 俺の身体は負荷に絶えきれず、とうとう引き裂かれた。広大で深淵な池の中に、俺の中身が、俺の血液が広がっていく。白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様白蓮様――という熱狂の渦が、たちまち真っ赤に真っ赤に染まっていく……。

 この血液は彼岸花に降り注ぐだろう。

 それから彼岸花の下に眠る白蓮の死体に染み渡る。

 乾ききっていたその死体が、ついに潤う。

 咽喉の渇きが、なくなった。

 私は、この血を求めていたのだ……。

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