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二十五、二十六「彼岸邸の殺人」

   二十五


 ――やめてっ。私には、私にはお兄ちゃんが――。

 ――私が愛してるのは、お兄ちゃんなのにっ――。

 ――やめて。助けて、お兄ちゃん――。

 あのとき、咲乃は泣き叫びながら抵抗した。

 必死に俺から逃れようとしつつ、兄に助けを求めようとしていた。

 だが俺は知っている。咲乃には兄なんていない。咲乃はひとりっ子だ。俺は彼女のことならなんでも知っているのだ。ずっと彼女だけを見詰め続けていたし、彼女に関することはすべて徹底的に調べ上げ、知り抜いていた。

 俺を拒絶するならまだ良い。良くはないが、納得はできる。

 なのに彼女はいもしない兄を呼ぶのだ。それが俺には腹立たしくてならなかった。侮辱されている気分だった。彼女のことをすべて知っている俺にそんな嘘が通じるわけがないのにそんな行動を取られるというのが、馬鹿にされているとしか思えなかった。

 ――お兄ちゃんっ。お兄ちゃん、助けて――。

 うるさい。黙れ。お前に兄なんていないだろう。俺だけを見ろ。他の男、それも存在しない男の名を叫ばれるなんて、不愉快にもほどがある。だからか? だからそうやって水を差して、俺を思い止まらせようとしているのか?

 ――お兄ちゃ――あ――。

 俺は咲乃の細い首を両手で掴み、締め上げた。お前は黙って、俺にすべてを委ねていれば良いのだ。お前を一番愛しているのは俺なのだから、お前も俺だけを愛さなければならないのだ。俺を見ろ。俺を受け入れろ。愛している。愛しているよ、咲乃。俺はお前を愛している。だからお前を奪うのは、お前を殺すのは俺なんだ。お前の死を手に入れて、俺はお前を完全に支配したことになるんだ。


   二十六


 猛威を振るう嵐の音を聞きながら、俺は階段を下りていく。

 結局のところ、風櫛ちゃんも泡月ちゃんも綿鳥さんも花帯さんも、最後まで俺のことなど見ていなかった。彼女達が見ていたのは、御津川紅郎ではなく白蓮だった。

 同じだ。咲乃もまた、最後までいもしない兄を想っていた。そうやって俺から目を逸らした。俺を見なかったのだ。

 どうしてだ。どうして皆、俺を見ない? 俺に別の誰かを重ねる? そんなに俺を受け入れるのが厭(いや)なのか? そうまでして俺を認めたくないのか? 拒絶したいのか?

 四年前、俺は咲乃を犯した末に殺した。

 受験に失敗して一浪した後にしがない三流大学に入った俺は、親に見放され、大学生活も上手くいっていなかった。幼いころから無理矢理な英才教育を施されていたせいで娯楽の類も友人のつくり方も知らない俺が、ろくな生活を送れるわけがなかった。通っていたのも入学したばかりのころだけで、あとはひたすら部屋に閉じこもって日々を無為に過ごしていた。そんな中、隣に可愛い女の子が越してきたのだ。彼女――咲乃ははじめに俺に挨拶をしてくれて、その時点で俺は恋に落ちていた。彼女は俺の生きる目的となった。

 彼女が部屋にいる間は、壁に耳をつけて生活音を聞きながら、様々に妄想を広げて過ごした。彼女が出て行く際はアパートの前の通りを歩く彼女の姿を窓から見詰めた。彼女が大学に行く時刻はすぐに一週間分把握できたので、それに合わせて家を出ることで……俺が行く先はコンビニか飲食店だが……挨拶をしてもらえるように計らった。やがて俺はこれだけでは満足できなくなり、彼女を尾行して外での行動を陰ながら眺めるようになった。彼女について調べることに躍起になった。俺の生活のすべてが彼女だった。

 それが半年ほど続いて、彼女の夏休みが終わるまでもう少しとなったころ。俺は彼女を自分のもの……自分だけのものにしようと決めた。車をレンタルし、彼女を人里離れた山奥へと連れ去った。直截の交流はほとんどなかったからドライブに誘おうにも警戒されるのが目に見えていたし、このころには彼女も俺のストーカー的な行為に薄々勘づき始めていたため、強引に拉致するしかなかった。手足を縛って口をテープで塞ぎ、後部座席に横たえさせて車を走らせたのだ。

 明確な行く当てはなかったけれど、おおよその見当はつけていた。とにかく二人きりになれる場所として、ひたすら鄙びた方向へと進んだ。そうして辿り着いた小さな村から、俺は彼女を連れて山へと分け入った。誰にも邪魔されない山奥で存分に彼女を凌辱するつもりだった。

 だが意に反して、俺は奇妙な屋敷に行き着いた。それが彼岸邸だった。とはいえ、こんなけったいな場所にある屋敷に人が住んでいるとは思えず、ならば好都合と考えて俺達は中に這入った。適当に探索していると錠の掛かった戸があったから壊し、そこで妙な洞窟を見つけたので、さらにその奥へ進んだ。最奥にはこれまた妙な、彼岸花の咲き誇る鍾乳洞があった。けれどその光景がえらく風情があるように映り、なによりも俺はもう我慢しきれなかったから、そこで咲乃を犯した。

 道中は俺がずっと脅していた甲斐あって割合従順にしていた彼女だったが、この段になるとさすがに抵抗した。俺はそれを無理矢理抑え込み、意のままに彼女を嬲(なぶ)った。最後は彼女の首を絞め、彼女の絶命と共に果てた。最初から殺すつもりだった。それが、俺が彼女を手に入れる唯一の方法だったからだ。

 この後のことは記憶がないけれど、おそらく俺は彼女の死体を三途の池に投げ込んで、彼岸邸を出た。それからひとりで下山して、車で帰ったのだ。咲乃は後日行方不明ということで捜索が始まったが、俺が彼女を拉致したのは露見しなかったし、ゆえに彼女と縁もゆかりもないこの山がその対象となることもなかった。俺の犯罪は誰も知る由がなかった。

 しかし、咲乃は死んでいなかったのである。俺は彼女の首を絞めたが、彼女は死ぬまでは至っていなかった。つまり、仮死状態だったのだろう。彼女は三途の池の中で意識を取り戻し、そこから出た。これを花帯さん達は目撃したのだ。俺が咲乃を連れて彼岸邸にやって来て彼女を犯したのは真夜中だったから、その間は彼女達はそれぞれの私室で眠っており、俺は彼岸邸に人が住んでいるとは露知らないまま出て行ったというわけだ。

 咲乃は一度仮死状態に陥ったせいで、記憶障害を起こしていた。花帯さん達は彼女を白蓮の転生した姿と考え、崇め、此処に住まわせた。

 そして四年の歳月が流れ、俺は再び彼岸邸にやって来た。この四年間の俺は、咲乃を殺したことでまた生きる意味を失い、抜け殻のように生きていた。その中で俺の深層心理が彼岸邸に戻るのを渇望したのだろう。俺が咲乃を殺した場所。俺の人生のすべてであった彼女を殺したこの場所が、すなわち俺のすべてだった。戻らなければならない。此処にしか俺の人生はないのだから。渇ききった俺を潤してくれるのは此処だけなのだから。

 そんな内なる欲望……それが顕在した夢に導かれて戻ってきた俺を待っていたのは、記憶を失った咲乃――天波だった。俺は打ち震えた。こんなに喜ばしいことはない。彼女が生きていたなんて、願ってもない僥倖だった。だってそうだろう。これでまた彼女を犯した挙句に殺せるのだから。あの絶頂を再び手に入れられるのだから。

 今度こそ、今度こそ殺す。俺は期待感でどうにかなりそうだった。だが最高のかたちは、彼女に俺を思い出させたうえで、咲乃としての自分を取り戻させたうえで殺すことだった。だから逸(はや)る気持ちを抑え、俺は着実に事を運ぶよう自分に云い聞かせた。俺が欲しいのは天波ではなく、咲乃なのだ。天波を殺してしまったら、もう次の機会は永久にやって来ない。咲乃を待つんだ。咲乃を……。

 なのに、天波は消えてしまった。彼女が俺をおいて彼岸邸を出て行ってしまい、俺がいかに落胆したのかは表現のしようがない。これ以上ないくらいに高まっていた期待が一気に地に落ち、深い深い失意の底に沈んだ。が、限界まで肥大した欲望はそのまま残っていた。行き場を失ったそれが、俺を駆り立てた。

 だから風櫛ちゃんを殺した。彼女を犯した。咲乃にするはずだった行為を彼女で代用しようと考えた。彼女を選んだのは、彼女が俺を誘惑していたからだ。咲乃を犯すまでは下手な真似はできないと思って手を出さないでいたけれど、本当は彼女を犯したい気持ちでいた。俺は彼女を自分の部屋に連れ込んで、そこで目的を果たした。

 風櫛ちゃんを殺した俺はそのまま眠りについたが、朝にその死体を見つけたのが、俺の部屋を訪れた花帯さんだったのだろう。彼女は死体を一旦隠してから俺を起こした。彼女は俺にそれとなく『よくお休みになれましたか』と訊いて、様子を窺った。そうして俺が風櫛ちゃんを殺したのを憶えていない、あるいは憶えていないことにしようとしているのを知った。それは彼女からしてみれば白蓮の意志であり、また彼女はこのときに自分の役目を見出した。

 白蓮は手ずから自分達を殺し、彼岸に導いていくつもりなのだと彼女は考えたのだ。そのために転生して此処にやって来たのだと。今度は皆を連れて彼岸へと行くのだと。しかし白蓮は、それを自覚していないか、自覚したがっていない。ならば自分の役目とは、その手助けをすること。白蓮自身に対して事実を隠蔽すること。

 これこそが白蓮の意思。自分の役目。ならば風櫛ちゃんの死体が犯された後のそれであるのは、これが白蓮による殺害であり導きなのだと自分に悟らせるため。いくら死体が白蓮が眠る傍らにあったからと云って、それだけでは白蓮がしたという証拠にはならない。だから精液によってそれが示された。彼岸邸には他に男性がいないから。

 花帯さんは風櫛ちゃんの死体を彼女の部屋まで運び、犯された痕跡を綺麗にした後、斧で首を切断した。これは首にあった俺の手の痕をなくすためだ。俺は自分の手で風櫛ちゃんの首を絞めて殺したから、それが死体の首にくっきりと残っていたのである。俺の手は男の手であり、女のそれより明らかに大きい。この手の痕は俺の犯行を指し示してしまうものだった。斧による切断は、切断と云うよりも破壊だ。首の大部分が変形し、大量の血が手の痕を覆い隠す。さらに傷口の周辺そのものが変色するから、これより良いカムフラージュの方法は他にないと云えた。

 次の被害者は翌朝に殺された泡月ちゃんだったが、これについては俺の犯行ではない。泡月ちゃんのことも俺は犯して殺してやりたかったけれど、彼女よりも先に綿鳥さんだと考えていた。だからこの前の晩に綿鳥さんを探したのだ。だが見つけられなかったので、風櫛ちゃんを殺したばかりでもあったし、俺は諦めて誰も殺さずに大人しく寝た。

 泡月ちゃんのあれは自殺だった。と云っても、ただの自殺ではない。彼女は俺――白蓮に自分を殺させたのだ。

 花帯さんは俺がいないときに、泡月ちゃんと綿鳥さんに事情を説明したに違いない。そうしなければ綿鳥さんはどうか分からないが、泡月ちゃんがイレギュラーな行動に出ないとも限らなかったからだ。天波という殺人犯がひそんでいるのではなく、白蓮が直々に自分達を殺して彼岸に導いてくれるのだと教えた方が、状況を落ち着かせることができる。もちろん、白蓮自身に彼の犯行が知られてはならず、自分達がそれに気付いているのを知らせるのもまたしてはならないようだとも教えただろう。

 それで泡月ちゃんは俺に積極的に絡んできたのだ。彼女は俺に殺してもらうのを待ちきれなかったのである。だから遠回しに、早く自分を殺してほしいと伝えていた。けれど俺は彼女を殺さなかった。彼女は相当に気が急いていたのだろう、花帯さんは彼女が突拍子もない行動に出ないように事情を説明したというのに、かえって彼女がなにをやらかすか分からない状態になった。だから花帯さんはそれを回避するために、罠を張るようにして俺に自分を殺させてしまう方法を彼女に提案したのだ。泡月ちゃんが自分で考案した可能性もなくはないが、彼女の性格や能力からすると少し考え難い。

 箪笥の抽斗と抽斗の間に挟んだ日本刀と囲炉裏の間の戸を糸で繋ぎ、俺に戸を開けさせる。泡月ちゃんは刃を首に当てた状態で叫び声を上げれば、間接的にとはいえ確かに、俺に殺してもらえる。そう、彼女は彼岸花の毒で動きを封じられてなんていなかった。大体、それでは彼女があの時間に目覚めるとも限らないし、いくら中枢神経が麻痺していても横に倒れるくらいできたはずである。だから実際は、彼女は自ら俺に殺されるように行動していた。俺――白蓮の名を叫び、糸が引っ張られると自らも日本刀の刃に首を押し付けた。彼女は白蓮に殺される――導かれる幸せを噛み締めながら死んだ。

 花帯さんと綿鳥さんはこれに協力していて、俺が琴の間に駆け付けるまでに糸を回収したのも共同作業だったのだろう。彼女達、特に花帯さんにとっては、俺に俺が泡月ちゃんを殺したのだと知られるのはあってはならないことだった。彼女がこの方法を提案した最大の理由がそれなのだから。『彼女には堪え性がありませんでした』……まったくそのとおりである。もうしばらく待っていれば、ちゃんと俺が、白蓮ではなく俺が、君を殺してあげたのに。

 と、泡月ちゃんを殺せなかった……殺せはしたが、まったく不本意なやり方だった……俺だけれど、綿鳥さんについては望みどおりに犯し、殺せた。行為を終えた俺は束の間の眠りに落ち、その間に花帯さんがまたも三途の池に投げ込む役割を担うために死体を運んでいった。

 ところで、綿鳥さんは俺の、御津川紅郎という人間の秘密に気が付いていた。

 幼いころからずっと欲望のすべてを抑え込んで生きてきた俺は、そういったものを禁忌と見做して潜在の領域に抑え込む超自我を形成した。無意識の中で欲望は常人ならざるそれに変容し、しばしば夢の中だけで顕在した。が、そんな仮初めの欲望充足では満たされなくなった俺は、いつしか狂気を帯びるようになった。

 夢と狂気の混同。なおかつ、それらの忘却。詰まる所、俺という人間のからくりとはこれである。

 俺は夢の中だけでは飽き足らず、現実においても自らの欲望を充足させる行動を取るようになった。しかし狂気に支配されたこの状態の記憶は、夢のそれと同様に平常時の俺には意識されない。俺の認識においては両者ともが等価で、区別できないままに無意識へと封じ込まれる。俺の記憶が稀に欠落するのは、こういう仕組みであった。

 また、自分の欲望にまつわる記憶が抜け落ちたぶんについて、都合良く辻褄を合わせてもいた。無意識のうちに超自我がそれをおこなっていた。検閲と改竄(かいざん)だ。俺は咲乃と相思相愛の恋仲と思い込んでいて、俺が彼女を殺したなんて考えるはずもなかった。俺のすべての犯罪は俺に対して完璧に隠蔽された。微かな残滓が残るのは仕方ないが、そこから真相を推測しようとすれば無意識が巧妙にそれを妨げる。親が期待する健全さを維持するためにこんな段取りを幼少期からずっと繰り返してきた俺は、とっくに熟練し、精通し、完成していた。

 俺が自らの本性と真の記憶を意識できるのは、検閲の働きが鈍る夢の中か、こうして欲望の赴くままに行動する狂気の状態にあるときだけだ。それでも細部があやふやになったり抜け落ちたりはするけれど、一切の制約を受けないこの俺は俺のすべてを包括している。

 階段を下りきった俺は、さてどうしようかと考える。足元で絶命している花帯さん。屍姦は経験がないのだが、試してみてもいいか……。

 ふと正面に顔を向けると、硝子戸に自分が映り込んでいた。本性を現した俺の形相は一切合財の醜さを曝け出しており、世にも恐ろしい様になっている。たしかにこれを見せられたら、綿鳥さんがあんなに恐れ戦くのも頷ける。それにしても、あの後に彼女を徹底的に甚振ってやった快楽のほどは、まさに極上だった。だって彼女は白蓮の女だったのだ。それを踏みにじってやれるなんて、なににも勝る愉悦ではないか。

 ――そのとき、雷の光が視界を真っ白に塗り潰し、ひと刹那のうちにまた薄闇に戻った。

 しかし硝子戸に映っている俺の表情が変わっていた。表面上は落ち着き払っているが、その裏側に怒りをひそめているような一種真剣な面持ち。これは俺か? 自分の犯した罪の数々なんて知る由もない健全な俺……いや、違う。俺はまだ狂気の中にいるままだ。

「ああ……」

 納得した。なるほど、そういうことだったのか。

「お前が白蓮だな」

 鏡に映った俺――白蓮は頷いた。

「お前は本当に俺の身体を借りていたのか。道理で、花帯さん達が俺を白蓮と信じ込んだはずだ。だってそれは半分においては真だったんだからな」

 やっと姿を現したか――と思ったが、違う。俺と白蓮がこうして相見えるのは、これが初めてではない。

「天波を逃がしたのはお前だろ」

 首肯する白蓮。やはりそうだったか。俺が天波を逃げ出させるわけはないが、俺の身体を借りた白蓮ならば事情は変わる。こいつは無関係の天波を巻き込みたくなかったのだ。なんの罪もないというのに、これから花帯さん達に酷い扱いを受けることになり、さらに俺によって殺されることになる彼女を不憫に思ってあんな真似をしたのだ。

 俺が裏庭で気絶したとき、俺は今と同じように、硝子戸に映った自分――白蓮を見た。そして硝子戸に正面から激突し、俺と白蓮は切り替わった。白蓮は踵を返してまた土蔵に行き、天波に指示を伝えた。そうしておいて俺の部屋に戻って眠った。

 白蓮が天波を、花帯さん達からも俺からも逃がしてみせるためには、ひとつしか方法はなかった……綿鳥さんが云っていたとおりだ。

 俺達が土蔵の中を探したとき、天波はまだそこに隠れていたのである。俺が率先して検めた場所……あのとき、身体が勝手に動くような感覚に捕らわれたのは、白蓮に操作されていたのだ。俺は天波を目にしておきながらも――それが箪笥の陰だったのか木箱の中だったのかは知らないが――、彼女はいないと証言した。俺は本当にそう思っていた。天波が隠れた場所は白蓮が指示した場所だったのだろうし、そこを覗いたときだけ俺は白蓮に切り替わっていたのだろう。途中に俺の意識がなんだか散漫になっていたのはそのせいだった。

 天波が土蔵から消えたと思い込んだ俺達は、その後は外を探索した。天波は頃合を見計らって逃げ出した。彼女が山に分け入った痕が後になって発見された理由はこれである。

「邪魔しやがって」

 俺がありったけの憎悪を籠めて云っても、鏡の中の白蓮は堂々と俺を睨み返している。責めるような眼差し。なんてふてぶてしい奴だ。こいつさえいなければ、俺は天波を、咲乃を手に入れられたのに。

「四年前に咲乃を三途の池に投げ込ませたのも、お前だったんだな」

 俺にはその記憶だけがない。だからあれは白蓮の仕業だったに違いない。こいつは咲乃が仮死状態にあると気付いて、俺にそんな行動を取らせた。そうすれば花帯さん達が咲乃を介抱してくれると、迎え入れてくれると知っていたからか? つくづく余計な介入をしてくる奴だ。

 検閲と改竄に一切縛られないはずであるこの状態の俺にも抜け落ちている記憶がいくつかあるのは、こいつが原因だったのだ。俺の身体は俺だけのものではなく、こいつのものでもあった。平常時の俺からしてみれば、白蓮と化していた間の記憶は狂気に支配されていた間のそれと区別されずに空白となる。俺の意識が飛ぶとき、俺の他にも俺の身体を使っている奴がいたということ。その記憶については、この俺でも知り得ない。しかしいくつかの残滓はどうしても残るわけで、俺がいつの間にか仏教について心当たりのない知識を身に着けていたり、白蓮と綿鳥さんが恋仲だったのを知っていたりしたのはそれゆえだった。

「俺が知らないうちに綿鳥さんと話していたのもお前だろ」

 綿鳥さんは度々、俺の目の前で不可解な消失を遂げていた。あれは単に、白蓮が俺の身体を使っている間だけ俺の意識が飛んでいたからに過ぎない。他の尼僧達にも何度かあったのかも知れないけれど、特に綿鳥さんに顕著だったのは、それだけ機会が多かったからだろう。かつての恋人として、白蓮は綿鳥さんに最も入れ込んでいて、信頼していたらしい。綿鳥さんが事の真相を把握しているふうだったのも、そんな入れ知恵があったからか……。

「でも残念だったな。俺は全員殺したぞ。お前の大事なものを全部ぶっ壊してやったんだ」

 こいつがいくら頑張ろうと、この身体は俺の身体である。こいつができる介入なんて最初から高が知れていた。それでは足りなかったのだ。俺を完全に封じ込めることも、花帯さん達を完全に救うこともできなかったのだ。

 俺は高らかに笑った。これが俺の勝利宣言だった。

「……天波さんだけは救うことができた。貴様のような狂人の手からひとりでも逃れさせられたなら、私の行為も無駄ではなかった」

 白蓮は初めて口を利いた。悟りを開いた者らしい済んだ声音だった。それが俺の癪に障って仕方なかった。

「負け惜しみだ! お前は誰も救えてなんていない! 誰ひとりとしてだ! 天波は山の中を彷徨ってくたばっただろうさ! 認めろよ、お前は俺に一矢報いることすらできなかったんだよ!」

 俺は硝子戸を思いきり殴った。硝子は砕け散り、白蓮もまた砕け散った。破片が突き刺さって血塗れとなった拳を強く握り締め、俺はひとり歯を食いしばった。

 屈辱だ……。女を何人犯して何人殺したところで、それは咲乃ひとりに遠く及ばない。咲乃でなければ、俺が真に満たされることはない。分かっている。俺が欲しいのはあの身体なのだ。白蓮はそれを知っていて、彼女を逃がしたのだ。

 やり場のない苛立ちに、俺は花帯さんの死体を踏み付けた。何度も何度も踏み付け、内臓が破裂したためにその口から大量の血が溢れ始めてもやめなかった。どいつもこいつも邪魔ばかりしやがって。どうして誰も、俺の思いどおりにさせてくれないんだ。どうして俺を認めてくれないんだ……。

「あ、あの……」

 鈴を転がすような声が聞こえて、俺はそちらに振り向いた。

「あの、紅郎……さん?」

「咲乃!」

 そこに咲乃が立っていた。不安げに俺の様子を窺う彼女の、なんと可憐な姿……。

「や、やっぱり私ひとりで逃げるなんて、できなくて……。それで、その……」

 戻ってきてくれたのか? 俺のために?

 俺は駆け足で彼女に迫り、その華奢な身体を抱き締めた。ああ、懐かしい、咲乃の感触。咲乃の匂い。これこそが、俺が欲していたものだ……。

「あの、これはどういう、ことなんですか? 花帯さんは、どうして……」

「そんなことはどうだっていい」

 俺は身を離して、彼女を正面から見据えた。小さく震え、混乱しているその様子が愛おしい。ゾクゾクと嗜虐心をそそられる。

 その肩を強く押すと、彼女は「きゃっ」と叫んで後ろ向きに倒れた。床に尻を着いた彼女は、よりいっそうの困惑を露わにして俺を見上げた。

「咲乃、お前だけなんだ。俺が求めてるのも、愛してるのも、お前だけなんだ」

 理解できないと云うような咲乃の顔。大丈夫だ。心配しなくていい。これから存分に理解させてやる。俺にお前のすべてを手に入れさせてくれ。今度こそ俺にお前を殺させてくれ。

 ああ、傑作じゃないか。見ているか、白蓮。お前はやっぱり誰も救えなかった。俺を妨げることなんてできなかったんだよ。

「愛しているよ、咲乃」

 俺は咲乃に覆い被さった。

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