二十四「すべてを捧げた女の末路」
二十四
気が付くと、俺は鍾乳洞の中に倒れていた。雨……天井から滴り落ちる水に打たれて、身体が冷えきっている。震える歯と歯がぶつかってガチガチと音を立てている。
起き上がり、見回す。石灯籠の灯りは点いたままになっていて……ぼんやりと、子供のころに行った神社の夏祭りを思い出した。
彼岸花。白蓮の墓。綿鳥さんの姿はない。
「うっ……」
ひどい頭痛だ。神経のすべてが脳に集められて、それを容赦なくぶっ叩かれているかのようだ。
俺は気絶させられたのか。いつだかのように、頭を殴られて。意識が途切れる寸前の記憶は、綿鳥さんの怯えきった表情……彼女は俺の背後に犯人の姿を見たのだ。俺を殴ったのは綿鳥さんではなかった。犯人は別にいた。
立ち眩みを起こしつつも、俺は屋敷へ戻ることにした。ひと筋の光明もない洞窟の中を、何度も岩壁に身体をぶつけながら、懸命に進んでいく。やっとの思いで梵字に埋め尽くされた部屋まで辿り着くと、外から雷鳴が聞こえた。豪雨は続いており、一段と激しさを増しているのだ。
廊下に出たところで、荒れ狂う雨風の音に紛れて、ギーッ、ギーッ……という妙な音を耳にした。時折迸る雷の閃光によって明滅しているような有様の廊下を歩き、俺は音の出所を知った。
二階へと真っ直ぐ続く階段を、全裸の綿鳥さんを引きずりながら、もう片方の手に日本刀を持った花帯さんが登っている最中であった。
綿鳥さんは死んでいる。ひと目でそうと分かった。派手な外傷は見当たらないが、生気というものが一切ない。もとから生き生きとしている人ではなかったけれど、今の彼女は全身が弛緩して、雑巾みたいにされるがままとなっている。人間としての尊厳が完全に失われたその姿は、死だけを意味していた。
再び稲光。左右に並んだ小窓から入ってくるそれが、階段通路を電流が走り抜けたように錯覚させる。俺はハッとして、自分も階段を上り始めた。豪風に揺れる階段は、まるで荒波に浮かぶ船の上みたいだ。雷鳴や風音に呼応して、屋敷が悲鳴を上げている。
花帯さんに追いついたのは、階段を上りきったところであった。二階の始点、崖のふちにあたる場所だ。
「殺人犯は、貴女だったんですね。花帯さん」
「ええ、そうです」
床に投げ出された綿鳥さんの死体と日本刀とを挟んで俺と向き合った花帯さんは、いつもどおりの丁寧な口調でそう認めた。いつもどおり。いつもどおりなのだ。立ち姿、表情、口調、態度、雰囲気……すべてが最初の晩に俺を歓迎したときとなんら変わらない。彼女はいつだって落ち着いていた。取り乱してもおかしくない状況下で、常に平静を保っていた。
これこそが彼女の異常性だったのだ。歪んだ信者、狂った殺人鬼にはとても見えない、この優美な佇まいこそが、この彼岸邸においては、なによりも常軌を逸している証だった。
「貴女は風櫛ちゃんを殺し、泡月ちゃんを殺し、綿鳥さんを殺した」
風櫛ちゃん殺しも泡月ちゃん殺しも琴糸がキーアイテムとなっていたが、それで琴を弾く綿鳥さんが犯人に限定されはしないじゃないか。花帯さんにだって琴を使った犯罪は可能だ。泡月ちゃんの悲鳴が聞こえたときに、彼女が琴の間にいると俺に云い、俺が真っ先にそこに向かうよう仕向けたのも花帯さんだった。
「それだけじゃない。貴女は天波も殺したんだ」
第一の被害者は風櫛ちゃんではなく、天波だった。風櫛ちゃんに食事を運ばせたときは別だったにしても、土蔵の鍵を持っていたのが花帯さんだったのはまず間違いない。だから彼女にはいつでも天波の殺害が可能だった。
天波の死体を隠したのは、彼女を容疑者に仕立て上げるためだったのだろう。花帯さんは連続殺人を行うと決めていたから、第一の被害者である天波が姿を消したように見せかけて、スケープゴートにしたのだ。現に花帯さんは、風櫛ちゃんの死体を見てすぐに天波の名前を上げた。
天波が土蔵から脱出したことにするのに、密室からの消失なんていう不可解な状況をつくってしまったのは、他に仕方がなかったからだ。朝に天波を蔵に入れたときにしっかり施錠をしたのは、他の尼僧達も見ていた。それ以降は花帯さんが鍵を所持していたから、鍵を掛け忘れたせいで天波が脱走したとはできなかった。それをすれば、花帯さんがその手引きをしたと疑われてしまう。ゆえに花帯さんは天波を殺害して死体をどこかに隠した後にまた土蔵の扉を施錠し、風櫛ちゃんに食事を運ばせることによって、錠がずっと掛かっていたと思わせなければならなかった。このときに天波の姿が見当たらないのを不審に思った風櫛ちゃんが蔵の中に這入ってさえいれば、その隙に脱出されたのだという自然な解釈を与えられたが、目論見は外れて風櫛ちゃんはすぐにまた施錠すると花帯さんに指示を仰ぎに来た。このせいで密室からの消失という状況が生まれてしまったのである。それでも花帯さんはやはり、風櫛ちゃんが失態したのだと言外に印象づけるのを忘れてはいなかった。
もちろん、あの昼に裏庭で俺を気絶させたのも花帯さんだ。俺は天波を解放させようとしていたから、天波を始末するまで動きを封じておく必要があった。また、これが天波の殺害が急がれた理由だったのだろう。俺がいなければ、花帯さんはもう少し天波の殺害を待って、彼女の脱走をもっと自然なものに演出できたはずだ。
「動機は粛清……裁きですか?」
風櫛ちゃんが俺に夜這いを掛けた夜、俺の部屋の戸が開いていた。風櫛ちゃんの行為を見ていたのは、花帯さんだったのだ。風櫛ちゃんがしようとしていたことは五戒のうちのひとつ、不邪淫に相当する。また、白蓮との再会を目指す尼僧達がその修行の基盤としているのが六波羅蜜だが、そのうちのひとつが持戒……戒律を守るという徳目だ。風櫛ちゃんは破戒し、波羅蜜をも蔑ろにしたのである。
泡月ちゃんも、まだ明らかな行動には移していなかったとはいえ、俺に迫ろうとしていた。さらに俺は、彼女の死体を前に花帯さんが呟いた言葉を憶えている。『彼女には堪え性がありませんでした』。彼女が我慢強くなかったのは知っている。つまり六波羅蜜のひとつ、忍辱ができていなかったのだ。彼女には尼僧として未熟なところが多々あった。
綿鳥さんはどうだ? 風櫛ちゃんや泡月ちゃんと比べ、特に問題はなかったように思える。強いて挙げるなら、彼女自ら述べていたように不歌舞観聴か。あるいは彼女が白蓮の子を産んだのを花帯さんも知っていたのかも知れない。不邪淫はあくまで不純な性行為の禁止を指すが、在家の信者とは違って出家した者には五戒の他にも多くの戒律が課せられる。そこにおいて不邪淫は不淫となり、すべての性行為が禁じられる場合がある。……しかし、綿鳥さんが白蓮と関係を持ったのは仏門に入る前の話だ。ならどうして?
天波だって殺される謂れは分からない。花帯さんは彼女を罪人と云っていたが、彼女は仏教徒ではなかったのだから破戒もなにもない。これは一体……。
いや、殺される謂れと云うなら、誰にもなかった。それぞれに問題があったのは事実でも、殺されるほどじゃなかった。そこまでの罪は誰も犯してなかった。むしろ罪を犯したのは、花帯さんではないか。四人もの人間を殺した彼女は最大の戒――不殺生を破っている。その寛容さに特徴のある仏教において、破戒した者を裁いてもいいなんて法はないはずだ。
「どうしてですか……」
ひとつだけ分かっているのは、俺の存在が引き金だったということだ。俺が此処に来て、今までぎりぎりの均衡を保ち成り立っていた彼岸邸は決壊した。分からない点だらけとはいえ、俺さえいなければ今回の連続殺人は起きなかったのではないだろうか。
「要するに貴女は、調和を乱した者を次々と殺していったのでしょう。でもその原因は俺じゃないですか。貴女はとうとう皆殺しにしてしまった。どうしてなんですか。俺を殺せば良かったじゃないですか。そうでなくとも、俺を追い出していれば……はじめから屋敷に迎えていなければ……」
そうしたところで、破綻は時間の問題だっただろう。此処の人達は皆がおかしくなってしまっていた。結局いずれは同じ道を辿ることになる。だが俺がそれを加速させてしまったという事実。もしも破局までにもう少しの猶予があれば、どこかで歯止めをかけられた可能性、どこかで引き返せた可能性は零ではない。
花帯さんは賢い女性だ。この若さで皆を取り仕切り、実質的に白蓮の代わりとなってきた人だ。白蓮亡き後に曲がりなりにも皆が結束を保ってこられたのは、彼女の力あってのことだった。なのにどうして、どうして彼女は今回の惨劇を起こしてしまったのだ。どうして俺なんかを迎え入れて……。
「な、なにを、なにを云っているのですか」
花帯さんは俺の眼前で、激しい狼狽を露わにした。殺人犯だと指摘してもなお揺るがなかった彼女が、なぜか今初めて、こんなにも動揺していた。本気で理解できないもの、絶対に信じられないものを見たかのような、悲壮な感すら漂う混乱の仕方だった。
「わ、私が、白蓮様を追い出すなど……ま、ましてや殺すなど、あり得るはずがないじゃ、ありませんか」
どこかで雷が落ちた。この一瞬の時間が稲光によって切り取られ、それが俺の体感の中で何倍にも引き延ばされた。そうして生まれた無限の中で、あるひとつの答えが別の答えを喚起し、連続し、数珠繋ぎのように次々と結び付いていった。
風櫛ちゃんと泡月ちゃんだけじゃなかった。花帯さんもまた、俺を白蓮と信じていたのだ。はじめからずっと、俺を白蓮と信じ続けていたのだ。
花帯さんが皆を殺した理由は、粛清や裁きなんて大層なものではなかった。彼女はただ単に白蓮を、俺を独占したかっただけなのだ。俺と打ち解けようとする女を殺していただけだったのだ。
ああ、なんと云うことだ。大いなる真相……俺は今こそ、それを知った。
花帯さん達にとって俺は白蓮だった。白蓮が転生した姿だった。これを事実として固定し、今回起こった数々の事象の始点としてしまえば、すべてがたちまち紐解かれる。
俺がやって来る以前に白蓮と考えられていたのが、天波だったのだ。天波――咲乃は山で遭難した挙句に此処に辿り着いたが、その際に三途の池に落ちたのだろう。そしてそこから出てくるところを、花帯さん達が目撃した。三途の池は此岸と彼岸……彼女達と白蓮を繋ぐ生死の海だった。そこから出てきた咲乃を彼女達が白蓮と捉えたのは無理もない。姿や性別すら異なるが、白蓮が転生して戻ってきてくれたことに彼女達は歓喜した。咲乃が記憶喪失であったのも、白蓮の転生という考えを補強するように作用した。
天波は白蓮の代わりだったのではない。白蓮そのものだったのである。ゆえに花帯さん達は彼女を崇め奉った。白蓮の部屋に住まわせ、精一杯の奉仕をした。なお、このときに三途の池は転生の泉と呼び改められた。白蓮の転生した天波が湧いて出たために。
四年間はそれで平穏が続いていた。しかし、そこに現れたのが、俺だった。
俺を見た花帯さん達は、俺こそを白蓮と見做した。四年間ずっと天波を白蓮と信じ続けていたにも拘わらず、俺を前にして撤回した。俺が白蓮であるということは、天波が白蓮でないということを意味する。四年分の信奉心は、それと同じ、否、それ以上の憎悪に転じた。天波の罪とは、花帯さん達を騙して自分が白蓮だと信じ込ませたことだった。もっとも天波にそんなつもりなんて毛頭なくて、花帯さん達が勝手にそう思い込んだだけだが、当人達にそんな理屈は求められない。
花帯さん達は天波への信奉をさっぱり取りやめて、あんな土蔵に移した。天波が土蔵へと移されたのは早朝だったが、この前夜、俺が花帯さんに天波のことを訊ねたのを憶えている。花帯さん達の天波への態度が明らかに一変したのは、この夜が境だった。俺は記憶を失った咲乃である天波について詮索しただけだったけれど、花帯さんはあれを、俺――白蓮が、花帯さん達が自分以外の者を崇めていることに対してお怒りになっていると取ったのだろう。それが決定打だったのだ。
「白蓮様……」
花帯さんは腰を折って前傾し、俺の胸板に手を当てて、縋るように、媚びるように俺を見上げていた。よく見れば彼女は髪も乱れているし、頬はこけて、目の下には隈ができていた。震える両足はもう立っているのもやっとという具合で、いかにも哀れだ。いつもの優雅さはどこかに消えてしまって、彼女は死期の近い病人のような有様だった。ずっと苦労してきたのだろう。やつれてしまっても仕方ない。気丈に振る舞うのもいい加減に限界だったのだ。疲弊を湛えたその表情にはしかしもうひとつ、期待の色が混じっていた。
「白蓮様……私をお導きください……」
これまでの働きに、俺が褒美を与えると考えているのか。ようやく報われると考えているのか。
「ああ、白蓮様……」
花帯さんは両手を俺の肩に移動させると、倒れ掛かってきた。俺が抱き留めてくれると思っているのだ。白蓮が自分を受け入れてくれると。救ってくれると。
――冗談じゃない。
俺は花帯さんを突き飛ばした。体勢を崩した彼女は、階段を転がり落ちていった。長い長い階段の下まで行き着いた彼女はそこでぐったりと伸び、動かなくなった。
雷の音が終幕を告げた。




