二十「丑三つ時の幽かな彼女」
二十
強烈な咽喉の渇きに、俺は目を覚ました。真夜中……いわゆる丑三つ時である。
風櫛ちゃんと泡月ちゃんが俺に対して抱いていた――今も抱いている恐ろしい誤解を知って、俺は自分の道化っぷりと云うか、惨めさに怒りさえ覚えた。それで俺がしたことと云えばしかし、単なる不貞寝だった。眠るのがあまり好きではない俺だが、気分の問題だけでなく、身体が睡眠を要求したというのもあった。常軌を逸した事柄ばかりを考えさせられて、主に脳の疲弊が限界に達しようとしていたのだ。夕方に一度うたた寝したのもそう長い時間ではなかったし、俺はすぐ眠りに落ちた。
そして今、無性に咽喉が渇いている。不貞寝したせいで枕元に水の用意はない。井戸のある台所まで行かなければならない。
行灯に火を灯す。皆が寝静まった時間では屋敷の各所に据え置かれた行灯の火も点いていないから(おそらく花帯さんが寝る前に消しているのだ)、自分で携帯する必要がある。
部屋を出ようとして、出入り口が箪笥で阻まれているのに気付いた。殺人事件が起こって物騒なうえ、泡月ちゃんも俺に対して夜這いまではいかないまでも、なにかしてきそうな気配があったから、簡単に戸を塞いでおいたのだったか。よく憶えてはいないけれど。
面倒に思いつつも箪笥をどけて、今度こそ部屋を出る。一刻も早く咽喉を潤したい。すっかり嗄れ果てた咽喉の奥がヒリヒリしており、手を思いきり突っ込んで掻き毟ってやりたいくらいなのだ。
台所に辿り着いた俺は井戸の水を汲み、お椀に注ぐのももどかしく釣瓶に口をつけてぐびぐびと飲み干した。襦袢の胸元に溢れた水が掛かったが、気にしなかった。続けて水をもう一度汲んでは飲み干し、汲んでは飲み干しして、ようやく落ち着いた。
咽喉の渇きばかりに気を取られて今まで分からないでいたが、外は雨が降っていた。台所の窓を雨滴が叩きつけている。割と強い雨だ。
さっきまでの咽喉の渇きは、なんだったのだろう……。今になって些か不思議に思えてきた。一心不乱に井戸水を汲んでいた自分が、ちょっと恥ずかしい。
部屋に戻ろうと台所を出たとき、ギーッと床板の軋む音がした。俺の足元からではない。そう云えばこの屋敷はだいぶ古そうだけれど、これまで廊下を歩いていてそんな音がしているのは一度も意識しなかった……そんなことを思いつつ右に視線を向け、俺は心臓が口から飛び出そうになるくらいぎょっとした。
丸窓のあるあたりに、こちらに背中を向けた髪の長い女性が立っていた。俺が竦み上がったのは幽霊でも見たかと思ったからだ。しかしよく見てみれば、綿鳥さんと分かった。こんな時間に行灯も提げずに、なにをしているのだろう……。
「綿鳥――」
彼女は素早く振り返った。今までに見た彼女の動作の中で、それは一番俊敏だった。
「――あっ、いや、綿鳥さん」
と、不注意にも呼び捨てしてしまったのを改めた瞬間だった。瞬きを一度したかしなかったかくらいのひと刹那の間だった。
綿鳥さんは消失した。
「えっ……」
どこにもいない。俺は驚きもできず、呆気に取られた。確かにいたはずなのだ。確かにあの丸窓のあたりにいたはずなのに、もう影も形もない。名前を呼んだ途端だ。彼女はすっと消え失せてしまった。俺の持つ行灯の明かりは奥までは届かず、そこは暗闇に沈んでいるものの、今の消え方は移動してそうなったという感じではなかった。まさに消失と云うしかない……。
俺は目を凝らしながら、彼女がいた方向へ歩き始めた。ギーッ、ギーッと微かに廊下が軋む。こんな暗闇の中だから、こういう普段は気に留めない音が際立って聞こえるのだろうか。
丸窓まで着いて、玄関のある方向も見たけれど誰もいない。綿鳥さんは存在感が希薄で、ふとした瞬間にその動作が注意から外れて見失ってしまうようなことは何度かあった……でもさっきのは……。
回廊の曲がり角まで来て、俺はさらに左へ進んだ。中庭では雨が玉砂利に打ちつける音が小気味良く響いている。
綿鳥さんの部屋は南から三番目。俺はその戸を開け、中に行灯をかざした。ぼうっと照らされた室内は風櫛ちゃんのそれと同じく殺風景で、綿鳥さんはいないばかりか、布団さえ敷かれていなかった。
「綿鳥さん……」
俺ははじめ見たときから彼女が気になっていたのだ。あの幽玄な佇まいには、根源的に惹きつけられるものを感じる。彼女と話したい。彼女についてもっと知りたい。……けれど今はもう、諦めて帰るしかないだろう。
特に考えもなくだが、俺は隣の風櫛ちゃんの部屋の戸も開けた。風櫛ちゃんはもういない。主を失った部屋には、床にその血痕が残っているのみ。
首を切られた彼女。彼女はうなじが綺麗だったよな、と他愛ないことを思い出した。




