二十一「混迷を極める惨劇」
二十一
相も変わらず彼岸花畑の夢を見て、その中の咲乃が振り返る寸前で俺は起きた。
彼岸花畑の実在をこの目で確かめてもまだ、この夢は続くらしい。
時刻は八時すぎ。朝餉の時間にはまだ早い。昨日は散歩をしたけれど、今日は雨が降っているから外には……と思いかけて、雨が止んでいるのに気付いた。もっとも一旦降りやんだだけといった様子で、空は一面が分厚い雲で覆われている。
部屋にいたって手持無沙汰なだけだ。俺は今日も簡単な散歩で時間を潰そうと決め、立ち上がった。身体が怠く、頭にも疼痛が続いている。あまり疲れが取れている気がしない。
ゆったりとした歩調でとりあえずは二階に上がり、転生の泉や御堂を回った。
風櫛ちゃん……だけでなく、もしかしたら他にも数人……が底に沈められている池には、この彼岸邸の闇までもが集約され、飲み込まれているふうに思われる。そして、それらは地中、あの彼岸花へと降り注ぐ。白蓮への供物として。
さらに、御堂。華美な内装と、その中に鎮座している三尊像。ただの散歩と割り切って一生懸命に考え込もうとしていなかったのが幸いしたのかも知れない――俺は以前に抱いた三尊像に関する矛盾に説明をつける解釈を思い付いた。
やはりこの仏像こそが、本来の本尊だったのではないだろうか。これは特に風櫛ちゃんと泡月ちゃんにまつわる、白蓮への度を越した信奉心からの発想でもあった。つまり、指導者たる白蓮は自らが生き仏であり、此処の本尊であるなどとは一度も云っていなかったのではないか、ということ。生き仏たる白蓮が本尊なんていう話は、彼の死によって思想的な暴走を起こした尼僧達によって創り出された偽りの縁起なんじゃないか、ということ。
とすれば、なんて愚かしい話なのだろう。彼岸邸の歪みとは白蓮の死に端を発しており、この三尊像はかつて白蓮ありしころの正常な彼岸邸の名残りなのだ。これはたぶん、ある程度正鵠を射ているように思う。なぜなら、御堂の中は埃が溜まっていて、もう使われていない裏付けとなっているからだ。
「……すみません」
居た堪れない気持ちになったためだろうか、なんの義理もないのに、俺は三尊像に向かってそう謝り、礼拝をしていた。仏は物云わない。寛大な心で清濁併せ呑むばかり……いや、しかし俺にはこの仏像が、薄情に感じられた。彼岸邸が、此処の尼僧達が狂っていくのに対し、この仏像はなんの力も顕さなかったのだから。
そういう意味ではたしかに、此処の本尊には白蓮しかなり得ないのだろう……。
一階へ戻る途中、人形の間を覗いた。部屋中を埋め尽くしている人形達が、なにを目的としているのかは分からない。ただ、戸を開けたときに一瞬だけ、俺は違和感に捕らわれた気がした。なんだろう……その正体を言語化する前に感覚が霧消してしまったのだけれど、強いて試みるなら……人形が増えている?
確かではない。目に見えて変化が分かるわけではない。これだけの数があっては、数体ぐらいの差では変わらないも同然だ。なんとなく、なんとなくなのだ……。
人形はすべて手造りで、よく観察すると一体一体が微妙に違う。それでもいくつかの種類に分けられそうだが、ずっと見ていると部屋中に満ちている偏執的な空気に圧迫感を感じて堪らなくなったので、もう戸を閉めた。
一階に下りた俺は、今度は土蔵のある裏庭に出た。なんの気なしに土蔵の周りを一周しようとして、裏まで来たとき、視界がそれを捉えた。
この裏庭は東側が森になっており、それがすなわち境界となっている。その、俺が立っている土蔵の裏手と小さな畑を挟んだ向こう側に、俺の注意を惹くものがあった。
近づいて見ると、もう否定のしようはなかった。森の中に誰かが分け入った痕跡が残されているのだ。腰のあたりまで伸びた雑草を掻き分け踏み分け、むっとする森林の臭いと暗闇とが支配する奥へと……。
天波? しかし、泡月ちゃんは天波が森へ這入っていったような痕は発見できなかったと云っていた。花帯さんが風櫛ちゃん殺しの犯人として天波を疑っているのも、それゆえというのがひとつあったはずだ。にも拘わらず、こうしてその痕跡が俺の前にある。
見落とした……なんてわけはない。見つける気のなかった俺でも簡単に見つけてしまったのだし、天波が出て行った痕を探すにあたって土蔵のあるこの裏庭こそ最も重点が置かれたに違いないのだから。ならこの痕は、天波探しの最中に花帯さん達の中の誰かがつけたそれなのだろうか。だが見回してみてもこれ以外にそんな痕はないし、この痕だけが奥へ続いているのはおかしい。
では天波は土蔵を脱した後はしばらく屋敷内に身をひそめており、捜索が終わってから出て行った……? いずれにしても、彼女は確かに此処から……。
「なにをしているのですか」
その声に跳び上がりつつ振り返ったが、誰の姿もなかった。今の声は、綿鳥さんのものだったと思う。声量はあまりないのに、凛としていて不思議とよく通る声。なのに、肝心の本人がいない。
また消失か? 落ち着かない恐怖心を覚えながら、土蔵の陰かもと疑って歩いていく。そこにまた「こちらです」と声がした。
見上げて、土蔵の二階にある窓から俺を見下ろしている綿鳥さんを発見できた。外側に格子が嵌っているせいで、顔そのものはほとんど窓から出ていなかったのだ。
「天波さんが森の中に分け入ったらしい痕を見つけたんです」
「その痕については、私も既に知っています」
大発見のつもりで話したのに、呆気なくそう返されてしまった。
「そろそろ朝餉の時間です」
綿鳥さんはそう云うと、窓辺から下がって見えなくなった。今から囲炉裏の間まで一緒に行こうという誘いだろうか? 相変わらず意図を判じかねるが、俺は土蔵の正面へ向かう。そうしながら、考えた……綿鳥さんは天波――つまり咲乃に似ていると。
土蔵の裏手に立つ俺と窓から顔を見せた彼女、という位置関係が前に天波とも一度あったから、この考えが浮かんだのかも知れない。たしかに綿鳥さんは髪型もそうだし、シルエットが咲乃に似ている。年齢も同じくらいだ。顔立ちもどこか似ていなくもないように思う。
だが、俺が綿鳥さんをひと目見たときから覚えた引っ掛かりの答えにはそぐわない。疑問が晴れた感じが全然しない。綿鳥さんは、咲乃ではなくてもっと別の……。
土蔵の正面で綿鳥さんと合流する。既に屋敷に向かって歩いていたから、俺を待っていてくれたのではないらしい。
「あの痕を綿鳥さんも知っていたというのは、どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
「天波さんが蔵から消えた直後の捜索では、あの痕は見つけられなかったんですよね?」
「ないものを見つけることはできません」
「じゃあ、あの痕はいつから?」
「私が見つけたのは今朝です。それで土蔵にいました」
「……あの痕を見て、土蔵に? どうしてですか?」
「確かめたいことがありました。結果、確かめられました」
「なにをでしょうか?」
草履を脱いで回廊へと上がった彼女は、一段高いそこから俺を見下ろした。
「分かるはずです」
「……分かりませんよ」
「なら貴方には分からないのでしょう」
背を向けて、歩いていってしまう彼女。暖簾に腕押しとはこのことだ。
それでも、俺がまた隣まで追いつくと彼女は続けて口を開いた。
「あの状況下において天波を土蔵から出すには、方法はひとつしかありませんでした」
俺は戸惑い、足を止めた。綿鳥さんは先に進み、囲炉裏の間へと這入っていった。
……天波を土蔵から出す? 天波が土蔵から出る、ではなくて?
俺が前に考えたとおり、花帯さん達が天波を逃がしてやったのだと云うのか? 鍵を持っていたのは彼女達なのだから、可能なのは確かだけれど……でも天波を閉じ込めたのも彼女達ではなかったか。どうしてそれを逃がして、しかも俺に対しては密室からの消失なんて不可解な演出をして見せたのだ? その茶番にどんな意味がある? 天波が逃げ出した痕が今朝になって発見された(もっと前からあったかも分からないが)のはどうしてだ?
疑問は次々と湧き上がる一方。いくつかが解けたところで、それがまたより多くの謎を生み出す。際限のない……云うなれば、底なしの泉。
俺はこめかみを押さえながら、囲炉裏の間に這入った。
「紅郎様、おはようございます」
「おはようございます、花帯さん」
囲炉裏の周りには、綿鳥さんと花帯さんが正座して待っていた。
「泡月ちゃんは……?」
柱時計が九時を指し示している。
花帯さんは「まだ来ておりません」と申し訳なさそうに答えた。昨日は一番乗り――料理を拵える花帯さんは別として――だったのに。
「すぐに来ると思われます。彼女のことは気にせず、紅郎様はお召し上がりください」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
腰を下ろし、玄米粥に箸をつける。そう云えば、こういった食材なんかはどうしているのだろうか。裏庭には畑があったけれど小さいものだし、すべてを自給自足で賄っているとは思えない。また、日用品の類はほとんどないものの、それでも他に必要なものが出てくることだってあるはずだ。此処に蓄えてあるぶんだけで都合するのは無理がある。
彼岸邸には外界との交流が一切ないとばかり考えていたけれど、実際は月に何度か……そうでなくとも年に何度かは花帯さん達が行き来しているのか? もしくは誰か、必要なものを届けてくれる人間がいるのか。……なら、そこに此処を出るヒントが見出せる。此処を出て、無事に下山するヒントが。
「花帯さ――」
きゃああああああああっ、と。
遠くから叫び声が聞こえてきた。
「助けて! 助けてええええええええ!」
聞こえる。喉が張り裂けんばかりの絶叫で以て、助けを求めている。
泡月ちゃんの声だ。
「琴の間の方からですっ」
花帯さんがそう云って、俺は咄嗟に立ち上がった。戸に一番近い位置にいるのは俺だ。
「白蓮様ああああああっ! 白蓮様あああああああああああっ!」
泡月ちゃんの叫びは、白蓮の名を呼んでいる――が、今はそんなことに頓着してはいられない。只ならぬ事態だと察せてあまりある。俺は戸を開ける。建て付けが悪いのか、開きづらいのがもどかしい。廊下に出ると、琴の間に向かって駆けた。
右に折れてすぐに到着し、琴の間の戸を勢い良く開け放つ。手前の八畳間には誰もおらず、襖が閉まっているために奥の八畳間までは見通せない。躊躇いなく進んで襖を開けて、俺は息を呑んだ。
泡月ちゃんは血溜まりの中に沈み、事切れていた。
死んでいる。間違いなく死んでいる。つい先刻まであんなに元気良く叫んでいたのに、俺が駆けつけるまでの間に絶命したのだ。まさに死んだばかり……ゆえに今も、首から真っ赤な鮮血が惜しみなく溢れ出ている。
首。泡月ちゃんもまた、首を切られていた。しかし、風櫛ちゃんと違って完全に切断されているのではない。右側から、半ばまでを切られている。もっとも致命傷であるのに相違はなく、しかも死後に切断された風櫛ちゃんと違って――彼女の首の切断はやはり死後だったのだ――泡月ちゃんは生きているところを切られたために、血が豪快に噴き出したのだと分かった。奥の壁まで届いており、背後の箪笥も赤色に染め上げられている。まだ酸化していないそれらは、畳まで垂れていく最中だった。
背後の箪笥……泡月ちゃんが倒れているのは、部屋の右側、その半ばあたりで壁に背をつけている箪笥の前だった。箪笥と琴に挟まれた位置で、手足を投げ出している。座って琴を弾くなり調整するなりしていたところを襲われたのだろう……首の右側を斬りつけられて、左向きに倒れたのだ。
凶器は残されていた。倒れた泡月ちゃんの頭の傍に無造作に放り出されたままになっているそれは、日本刀だ。血に濡れた刃は剥き出しで、鞘は見当たらない。
「逃げられた後ですか」
別段落胆しているふうでもない、ただの状況確認以上の感情が籠っていない、花帯さんの声。俺より一歩ひいたところに、彼女と綿鳥さんは並んでいる。
……逃げられた後。中庭に面した窓が開いたままになっていた。今更そこに駆け寄って外に顔を出しても、犯人はいないだろう。
重要なのは別の点。花帯さんと綿鳥さんは犯人ではないということだ。
泡月ちゃんが助けを求めて叫んだとき、俺と花帯さんと綿鳥さんは囲炉裏の間にいた。それから俺が真っ先に駆けつけたが、泡月ちゃんは殺されており、犯人は逃げ去った後だった。深く考えるまでもない。俺達三人は犯人ではあり得ない。
俺達の他に、彼岸邸にひそんでいる人間がいる。風櫛ちゃんを殺し、泡月ちゃんを殺した犯人が。
天波? 今朝に彼女が此処を出て行った痕跡を見つけたばかりで、そこにこの展開というのはまた背理だが……。しかし俺は、それとは別のある反転を脳内で起こしていた。
「花帯さん」
風櫛ちゃんが殺され、泡月ちゃんが殺され、俺と花帯さんと綿鳥さんは潔白が証明され、その他に犯人なり得る人物は天波だけ? いいや、違う。
「白蓮は本当に死んでいるんですか?」
花帯さんの見開かれた目が、俺を見詰める。
白蓮が生きていて、今、この連続殺人をおこなっているという可能性。俺はずっと白蓮がいない、ひいては既に死亡していると思い込んでいた。もしもそれが、白蓮なんていないんじゃないか、という疑惑から段階を踏んで、そう思い込むように誘導されていたのだとしたら? 花帯さんが白蓮がいると主張していたのも、それが彼の代替である彼岸花を指していると後に教えられたとき、ある種逆説的に俺が受け入れてしまうよう計算された企みだったのだとしたら?
白蓮が尼僧達を殺していく動機は、復讐か。綿鳥さんが云った贖罪的供儀という言葉から、花帯さん達には白蓮に対して償いたい罪があると分かる。それが白蓮側から見たときに復讐の理由となる。
泡月ちゃんは殺される寸前に叫んでいた。力の限り、白蓮の名を叫んでいた。あれが白蓮に助けを求めたのではなく、白蓮が犯人だと告発していたのだとしたら。あるいは許しを乞うていたのだとしたら――
――と、俺の思考はひと刹那のうちにここまで展開したが、
「白蓮様は、死にました」
他の誰でもない、花帯さんがそう認めた。白蓮の死を一度も口に出しては云わなかった彼女が、である。実に彼女らしい毅然とした態度で以て。
「でも――」
俺が食い下がろうとしたとき、窓の外で激しい閃光の瞬きが起きた。続いて大地を轟かす雷鳴が響き、バケツをひっくり返したような雨が始まった。
「……そうですか」
気勢を削がれた俺は、口論にもつれ込むのはよそうと思い直した。それに、白蓮に襲われている当の花帯さん達が、俺に対して彼の犯罪を隠すようなブラフ――それも恐ろしいほどに入念なブラフを、まだ犯罪が起きないうちから撒いていたなんて、俺だって信じたくはなかった。
「……泡月を、三途の池に沈めます」
花帯さんは俺から視線を逸して、そう云った。転生の泉ではなく、三途の池と。
さらにひと言、
「彼女には堪え性がありませんでした……」
その言葉がひどく印象に残った。




