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十四「三途の池における儀式」

   十四


 降りしきる雨で赤色が滲む彼岸花畑。

 咲乃……。その背中に近づいていく。彼女が振り向いてくれないのは知っている。もう何度も見ているのだ。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。

 やっぱりだ。その肩に手を伸ばし、彼女の横顔が見える寸前で、情景のすべてがすうっと遥か先の極点に吸い込まれていくかのように消える。

「お目覚めですか、紅郎様」

 顔を横に向けると、花帯さんが正座して、俺を見ていた。

「起こしてしまったでしょうか。申し訳ございません。枕元にお着替えを置いておくのに参っただけなのですが」

「いや……丁度、起きたところですよ」

「そうでしたか。よくお休みになれましたか?」

「はい」

 俺は布団に寝ていた。昨晩は土蔵で寝ようなんても考えたが、結局この部屋に戻ったのだったか。

「……朝餉まで時間がありますので、どうぞもうしばらくお休みになっていてください。では失礼します」

 花帯さんは部屋を出て行った。腕時計の針は八時前を指している。今日は早起きだ。夜に早く寝る此処の生活に、身体が適応してきたのかも知れない。

 身体を起こすと、頭痛がしていた。昨日よりもまた少し酷くなったみたいだ。殴られたせいもあるだろう。俺を殴ったのが誰だったのかは分からないままだ。その目的も……。

 ふと、俺が殴られたのと天波の消失は関係しているのではないかという考えが浮かんだ。俺が殴られたのは裏庭で、これから天波を助けるために花帯さんと直談判しようとしていたときだった。……それ以上の関係も、その意味も、皆目(かいもく)見当が付かないけれど。

 障子窓を開けると、空は曇っていた。このくらいの方が過ごしやすいし、暗鬱とした今の気分には合っている。

「咲乃……」

 彼女と出逢ったのは、俺が大学生になってひとり暮らしをしていたアパートでだった。俺が二年生になる春に、新しく大学生になる彼女は隣の部屋に越してきた。俺は一年浪人していたから、彼女と俺は本来二つ学年が離れていたことになる。彼女の通う大学は俺のそれと場所こそ近かったが、ランクは大きく異なっていた。俺はしがない三流大学で、彼女は知らない人はまずいない優秀な大学。実を云うと、俺が受験して落ちたところだった。

 そんな彼女と俺が恋仲にまでなったのは、ひとえに彼女のおかげだ。親に見放されて大学生活も上手くいっておらず、ただ日々を死んだように過ごしていた俺に、彼女は優しく接してくれた。彼女は俺を嘲りも蔑みもしなかった。俺は彼女に惹かれていき、彼女はそれに応えてくれた。

 ……いけないな。感傷に浸るのはなんとも辛すぎる。

 俺は散歩に出掛けた。と云っても彼岸邸の敷地からは出ず、適当に屋敷の中や崖の下の裏庭や転生の泉がある裏庭なんかをぶらぶら歩くだけだったが、気晴らしにはなった。それで時刻が八時四十五分くらいになり、まだ少し早かったけれど、囲炉裏の間にやって来た。

「紅郎さん、おはよう!」

 泡月ちゃんが既に座っていた。台所では花帯さんが調理をしている。「もうしばらくお待ちください」と云われたので「急がないで結構ですよ。早めに来てしまったので」と答えた。

「紅郎さんはそこに座って。いつもは私の席なんだけどね」

 泡月ちゃんは囲炉裏の南側に座っており、俺が勧められたのはその向かい――北側だった。囲炉裏の四方にはそれぞれ座布団が敷かれていて、泡月ちゃんのいる側だけそれが二つあった。俺が同席すると五人になるため、体格から泡月ちゃんと風櫛ちゃんの二人が並ぶかたちにしたのだろう。もっとも、囲炉裏は割合大きいので、窮屈そうではない。

 泡月ちゃんと他愛ない会話をしていると、じきに綿鳥さんもやって来た。音もなく這入ってこられたので、急に視界に現れて驚いた。彼女は俺から見て左――つまり東側に座った。

「風櫛が遅いですね。泡月、呼んできなさい」

 朝餉の支度が大方済んだところで花帯さんがそう云い、泡月ちゃんはとたとたと駆けていった。囲炉裏の間には柱時計があって、九時を指していた。

 風櫛ちゃんはもしかして、昨夜のことを気にしているのではないだろうか。俺と顔を合わせたくないと考えても仕方ない。俺は彼女を拒絶したうえ、暴言を吐いてしまった。散歩なんてしている暇があったら、彼女の心境を慮って謝りに行くくらいすべきだったか。

 遠くから、泡月ちゃんの叫び声が聞こえた。

 続いて、廊下を慌ただしく駆けてくる足音。戸を開けるなり、血相を変えた彼女は開口一番、

「風櫛様が死んでるの!」

 なんだって? 俺は聞き違えかと訝しんだが、こんな単純な台詞、聞き違えようがない。

 唖然としている俺と違い、花帯さんは「部屋でですか」ともう対応していた。泡月ちゃんは首肯して、さらに「首が切れてるの!」とつけ加える。花帯さんは「分かりました」と云い、動き出す。綿鳥さんも無言で立ち上がり、彼女に続く。それらはまるで映画のワンシーンであるかのように現実感を伴わずに流れていったが、傍観していた俺も遅ればせながら彼女達について囲炉裏の間を出た。

「紅郎さん……」

 一番後ろを歩いていた泡月ちゃんまで追いつくと、彼女は俺の法衣の袖を摘まみ、心細げに見上げてきた。しかし状況を飲み込めていない俺では、なんの気が利いた反応もできない。

 風櫛ちゃんの部屋――回廊の東側に連なる四つの部屋のうち、南から二番目――の戸は開いたままになっていた。花帯さんの「これはもとから開いていたのですか」という問い掛けに、泡月ちゃんは「ううん。私が開けっ放しで戻ってきちゃっただけ」と答える。花帯さんは「そうですか」と頷き、中に這入っていった。綿鳥さん、俺、泡月ちゃんと続く。

「うわっ」

 それを見た俺は、思わず仰け反ってしまった。

 物がほとんどない寂しい部屋の中央に、風櫛ちゃんは仰向けで横たわっていた。

 彼女の首は胴体と完全に切り離されていた。流れ出た血液が畳に赤い染みを広げている。

 首が切れていると泡月ちゃんは云っていたけれど、まさか完全に切断されているとは……。首と胴体は十五センチくらいの隙間を空けて置かれている。事切れているのは火を見るより明らかだ。その顔は醜く歪んだまま止まっていて、大きく見開かれた瞳は生前の控えめな彼女が一度も見せなかったものだった。

 それからもうひとつ。彼女は裸だった。色白で線の細い肢体が、なんの恥じらいもなく晒されている。

 俺は目を背けた。これ以上見ていられないというのもあったし、その姿を見ていることが死者に対する冒涜であるかのようにも思われた。

「殺されたようですね」

 花帯さんはこの期に及んでまだ冷静さを保っている。綿鳥さんは無言だが、彼女もさして動揺しているふうではない。これは尼僧としての修行の賜物なのか? 気を鎮め、心が乱れないようにする……それが悟りに至るための実戦徳目、波羅蜜のひとつ……。いや、それでもこれは、おかしい。風櫛ちゃんは彼女達の家族のような存在だったのではないのか? その死体を前にこうも落ち着いているというのは、本当にあるべき姿なのか? 理屈じゃない、道徳以前の問題として、俺は彼女らがひどく歪に、不気味に見えた。

「自殺じゃないの?」

 俺の法衣の袖を摘まんだままの泡月ちゃんがそう発言した。

「違うでしょう。自ら首を完全に切断するというのは、まずできそうにありません。それにご覧なさい、切断に用いた凶器が見当たりません。持ち去った者がいるということです」

 気になって、俺は薄目を開けるようにしながらもう一度死体を見た。切断面は案外きれいなもので、手間取った様子はない。首と胴体の隙間にあたる部分の畳が抉れていて、中身の藁が覗いているが――凶器を振り下ろした際にできた痕跡に違いない――、それも一回だけのものと分かる。さらに、首にしろ胴体にしろ、その切断面の付近は切断と云うより、いっそ潰されたかのような豪快な観がある。

「斧、でしょうか」

 そんな意見が口から出た。大振りな斧による一撃……風櫛ちゃんの顔は苦悶に歪んでいるけれど、ならば死の苦痛そのものはあまり味わわずに済んだのだろうか。

「斧は土蔵に一挺あったはずです。ただ、昨日探したときにあったかどうか……」

 花帯さんが考える仕草を取った。俺はその言葉の真意がしばらく分からなかったが、気付くや否や声を上げた。

「天波っ――天波さんが犯人だって云うんですか!」

「考えられる可能性のひとつではあるでしょう。彼女は姿を消しましたが、此処から出て行ったとは限りません」

「でも、どうして……」

 復讐? 自分を閉じ込めたことに対しての? ……閉じ込めたと云っても、丸一日すら持たなかったじゃないか。彼女が昨日に行方をくらませての今日この殺人では、そこに関係性を疑いたくなる気持ちも分からないではないが、俺には彼女がこんな凶行を働くとは思えない。

 しかし、誰が風櫛ちゃんを殺したのだ? 容疑者は絞られている。花帯さん、綿鳥さん、泡月ちゃん……この中に……。

 俺は寒気に襲われた。自然、三人から距離を取る。泡月ちゃんの指が袖から離れる。不思議そうに俺を見上げる彼女が、得体の知れないなにかであるように映る。

「考えるのは後回しとしましょう。今はまず、風櫛を送り出します」

 花帯さんが妙なことを云った。すると三人の尼僧は示し合わせたように動いた。花帯さんが死体の両脇に手を回し、綿鳥さんが両足を抱え、そのまま持ち上げる。泡月ちゃんは首を逆さにして――切断面が上になるようにだろう――持った。血はほぼ止まっていたけれど、それでも少量が滴った。

「どこに運ぶんですか?」

 訊ねると、花帯さんは「転生の泉です」と答えた。次いで泡月ちゃんが、

「転生の泉に投げ込むんだよ」

「は?」

 俺はさぞかし鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしていることだろう。泡月ちゃんの台詞はそのくらい突拍子がなく感じられた。

 転生の泉……あの池に風櫛ちゃんを投げ込む? 一体どういうつもりだ?

 水葬……ということだろうか。でもどうして水葬? 日本では火葬が一般的だし、仏教と関連して云うなら尚更だ。ましてやあんな、所詮(しょせん)は個人が所有する庭に収まる程度の池に水葬だなんて、聞いたことがない。

 だが急な展開が続いていい加減に胸焼けを覚えつつも、俺は三人について行くしかなかった。俺はあくまで部外者であり、郷に入っては郷に従えの言ではないが、この状況下では無闇に口出しできる立場にない。なら彼女達がやることをこの目で見て確認するしか、選択肢は残されていないのだ。

 階段を上がってさらに進み、突き当たりまで来たところで花帯さんが「泡月はあれを持ってきなさい」と指示を出した。それでだろう、胴体を持つ花帯さんと綿鳥さんは左へ、首を持つ泡月ちゃんは右へと分かれる。泡月ちゃんは天波が使っていた部屋の右隣のそれへ這入っていった。すぐ追いついてくるのだろうと考え、俺は花帯さん達の方へついて行った。

 転生の泉がある裏庭に出る。満月の晩に天波と共に来たときは風流な眺めと思った此処も、暗雲の下で死体を運ぶ花帯さん達と共にでは見方が違ってくる。重たい曇り空を映した転生の泉はさながら黄泉の門が口を開けているかのよう……そう云えば、この池は以前は三途の池と呼ばれていたのだったか。

 花帯さんと綿鳥さんは池をおよそ二等分するように掛けられている橋を真ん中あたりまで渡り、そこでやっと足を止めた。死体を欄干の上に乗せて、落ちないように手で支える。

 俺は一歩ひいた位置から、なんとも名状し難い心情で見守る。本当に池に投げ込むつもりなのだ……しかし、奇妙な点を挙げればきりがないけれど、俺がここで気になったのはどうして彼女らがこうも首尾よく動けているのかということだった。花帯さんは必要最小限にすら及ばない程度の指示しか述べていないのに、綿鳥さんも泡月ちゃんもその意図を解して適切な行動ができているようである。まるで打ち合わせでもしていたみたいじゃないか。彼女達の間に俺の知らない暗黙の了解があるのは間違いないが、それでも風櫛ちゃんの死は不測の事態であるはずなのに……。

 一旦別れた泡月ちゃんが、遅れて裏庭に出てきた。その姿を見て俺はぎょっとした。彼女は風櫛ちゃんの首を抱えているのとは別の手に、ひと振りの日本刀を携えているのだ。花帯さんが持ってこいと云った『あれ』とは日本刀だったのか……?

「どうぞ」

 俺が唖然として眺めるなか、泡月ちゃんは花帯さんに日本刀を手渡した。日本刀を受け取った花帯さんは死体を押さえる手を離し、代わって泡月ちゃんが首を抱えながらもその役割を担う。花帯さんは洗練された仕草で鞘から刀を抜き取ると、鞘は足元に投げ出して両手で柄を握った。

「ちょ、ちょっと待ってください。なにをするつもりですか?」

 進行に水を差したくはなかったけれど、堪らずそう訊ねた。花帯さんは特に気を害した様子もなく、淡々と「彼岸花に血を注ぐのです」と返答した。

「彼岸花?」

 俺は呆けたように固まってしまった。このタイミングでその花の名前が出るなんて……しかも相変わらず、その意味はまったく分からない。

 俺の無言を容認と受け取られたのか、花帯さんは動きを再開した。彼女は頭上高く刀を掲げると、その切っ先を真下へと向けた。そして一歩前――欄干に乗せられた風櫛ちゃんの胴体の直前まで歩み寄り、その腹部に刀を突き刺した。

 声を上げるのすら忘れるほど、それは自然な動作だった。

 花帯さんは風櫛ちゃんの腹に埋まった刀身を、そのままツーっと胸のあたりまで移動させる。刀の切れ味は鋭く、無抵抗に腹は切り開かれた。血が溢れ出し――死んでから時間が経っているためか、派手に吹き出しはしない――、中身まで零れ出しそうになる。するとすかさず、今まで死体を支えていた綿鳥さんと泡月ちゃんが手を離した――いや、死体が池に落ちるように押し出したのだ。どぼん、という音が響いた。

 俺は慌てて欄干まで駆け寄り、池を見下ろした。既に風櫛ちゃんの胴体は沈んだ後だった。血色の波紋のみが残っていて、同心円状に広がっていく。鉛色の暗雲を反射している池の水は決して濁ってはいないのだが、どういうわけか、底までは見られない。深淵……。そこに泡月ちゃんが、胴体を追い掛けさせるように首を放り込んだ。首もまた、すぐに沈み、消えてしまう。束の間残留した赤黒い血が池の水に混ざっていく様が、なんとも凄惨(せいさん)な眺めだ……。

 奇妙な、あまりにも奇妙な余韻……。

「……どういうことなんですか、これは」

 声が震えている。欄干に手を着いていなければ、倒れてしまいそうだ。

「こんな死者の弔い方、あるんですか……。意味が、意味が分かりません……」

 そんな俺を見遣る花帯さんは、異常な儀式をした後だと云うのに、やはりどこまでも落ち着いている。

「この転生の泉は、此岸と彼岸とを結んでいるのです」

 此岸と彼岸……すなわち、この世とあの世を結ぶ池……。ゆえの三途の池という呼称だった、というわけか……?

「風櫛は死にました。ならば彼女が彼岸に到達できるよう、その死体を此処に投げ込むことが必要となるのです」

 俺はまた水面を見た。この池を通って、風櫛ちゃんは彼岸に……? 無論、鵜呑みにはできない。できないし、仮にそれを認めたところで、説明のつかない事柄はまだある。

「腹を切ったのは、どうして……」

 花帯さんが手に持った日本刀の刃には、風櫛ちゃんの血がねっとりと絡み付いたままだ。俺はそこに血だらけの口で笑う獣の如き獰猛さを感じ、身が竦んだ。

「先程も申したとおり、彼岸花に血を注ぐためです」

 分からない。花帯さんの使っている言語は、偶然にも聞こえが日本語に似ているだけで、実際は俺の知らない未知のそれなんじゃないだろうか。そうとでも考えない限り……。

 俺が困り果てているのを悟ったのだろう、花帯さんは綿鳥さんに「紅郎様をご案内して差し上げなさい」と告げ、懐から取り出したなにかを手渡した。綿鳥さんは頷いて、俺と一瞬だけ視線を合わせると歩き始めた。

「どこに行くんですか……?」

 綿鳥さんに問い掛けたのだが、花帯さんが答えた。

「白蓮様がいらっしゃる場所です」

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