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十二、十三「終わらない挫折の話」

   十二


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 …………あれ?

 自分の部屋に戻って畳の上に胡坐(あぐら)をかき、腕を組んで頭を悩ませ続けていた俺は、唐突に違和感を覚えた。

 俺は今、なにを悩んでいたのだ?

 ……そうだ。天波がいなくなってしまったことだ。だって彼女がいないのでは、もう俺はこれからどうすべきか分からない。彼女と共に帰るのが俺の目的だったのだから。

 喪失感。抜け殻になったような気分。四年前にも味わったそれに、俺は再び捕らえられていた。

 だが、悲しもうにも悲しみきれない妙な感じがある。そもそも天波……咲乃が生きていたということ自体が現実感の薄い出来過ぎた話だったし、この彼岸邸も世俗から隔絶された不思議な場所だ。此処に来てからというもの、俺はずっと、夢の中を彷徨っているような曖昧模糊(あいまいもこ)とした感覚でいる。

 さらに、天波がいなくなったというのも、自分の目で確かめておきながら、まだ腑に落ちないのだった。密室からの消失という不可解な謎……。彼女が俺にひと言もなしに出て行ってしまったのだって認めたくない。

「紅郎さーん」

 出し抜けに戸が開き、泡月ちゃんが這入ってきた。肌襦袢だけを身に着けた格好だ。

「花帯さんに食べ終わった夕餉のお皿を下げてこいって云われたから。あと、お風呂空いてるから入ったらって」

「ああ、ありがとう。……あの後、泡月ちゃん達は屋敷中を調べて回ったんだよね。なにか発見はあった?」

「なにもなかったよ。でも、なにもなかったっていうのが発見ではあるかな」

「どういう意味?」

「お屋敷の周りには、天波さんが出て行った痕みたいなのが見つからなかったの。森に囲まれてるから、誰かが分け入った場所は分かるはずでしょ?」

「じゃあ天波さんはまだ屋敷のどこかに?」

 俺は身を乗り出したが、泡月ちゃんは「うーん」と煮え切らない反応だった。

「でもお屋敷の周りって広いし、私達が見落としただけだよ、たぶん。痕を残さないように気を付けながら出て行ったんじゃないかな。だってお屋敷の中にも天波さんはいなかったもん」

「そうか……」

 項垂れた俺に、泡月ちゃんは「それよりさ、見て見て」と元気な声を掛けてくる。顔を上げると、彼女は輪になった紐を持っていた。それを使って彼女が得意気に披露したのは綾取りだった。扇子、箒、盃、天の川と、紐が次々に形を変えていく。

「上手だね」

「えへへ」

「ちょっと貸して」

 俺は紐を受け取って、橋、続いて亀をつくって見せた。子供のころにやって以来だが、意外と憶えているものだ。泡月ちゃんは感嘆の声を上げ、手を叩いた。

「すごーい。さすが白蓮様」

「別に大したことじゃ……」

 俺はぴたと動きを止めた。

「……泡月ちゃん、今、俺のこと白蓮様って呼んだ?」

「え?」

 泡月ちゃんはきょとんとする。その大きな瞳には、呆けたような俺の顔が映っている。

「呼んでないよ?」

「……そう」

 疲れているのだろうか。白蓮様と呼ぶなんて、風櫛ちゃんじゃあるまいし……。

「風呂を借りることにするよ」

「はーい」

 食器の乗った盆を持った泡月ちゃんと俺は二人で部屋を出て、廊下がT字になったところで泡月ちゃんは台所のある左、俺は風呂場のある右へと分かれた。

 脱衣所で裸になり、風呂場に這入る。中は脱衣所にある行灯の明かりが擦り硝子から透けてくるのと、高い位置にある格子窓から月明かりが差し込んでくるだけで、薄暗い。シャワーなんて気の利いたものもなく、身体を流すには桶で湯舟から湯をいちいち掬い取る必要がある。

 壁に掛けられた鏡――この時分では暗いせいで用を為さないが――の前で風呂椅子に座ったところで、脱衣所の方から音がした。振り向くと、擦り硝子の戸を開けて風櫛ちゃんが這入ってきた。

 俺がいると知らなかったのだろうかと慌てたけれど、すぐにどうやら違うらしいと分かった。風櫛ちゃんは微塵も動揺していないし、胸の上から手拭いを巻いて身体を隠していた。

「お背中、流させていただいていいですか?」

 庇護欲をそそるような少し震えた声で、彼女はそう訊いた。此処まで這入ってこられては、遠慮もしづらい。俺は戸惑いながらも「じゃあ、お願いするよ」と答え、俺にもひとつ手拭いを取ってもらい、腰に巻いた。薄暗いとはいえ、互いの姿は見えてしまう……むしろ薄暗いために色っぽい雰囲気を纏って。

「昨晩は勝手な真似をして、済みませんでした……」

 風櫛ちゃんは俺の背後に膝立ちして、手拭いに石鹸を泡立てる。

「昨日も云ったけど、気にしないでいいよ。寝惚けてたんだよね」

「……いえ、寝惚けてなんかいませんよ、私」

 風櫛ちゃんはそう云うと、照れを隠すように手拭いを俺の背中に当てて丁寧に洗い始めた。この話題を続けることに一抹の不安を覚えた俺は、やや強引に「天波さんが土蔵から抜け出した方法はまだ分からないままなの?」と別の話を振った。

「そうですね。でも、もう逃げられてしまったんですから、考えてみても意味がないと思います……」

「まあ、そのとおりか」

 不思議な現象だったので気を取られがちになっていたけれど、脱出の方法なんてさして重要でもないのだ。重要なのは、天波が脱走してしまったという結果の方。しかし、花帯さん達四人はそれも大して問題視していないふしがある。逃げたところで山で遭難して死ぬだけ……とは分かっていても、閉じ込めていた相手が脱走してしまったのだから、もっと動揺してもいいんじゃないだろうか。

「どうして風櫛ちゃん達は、いきなり天波さんを土蔵に閉じ込めることにしたの?」

「……ごめんなさい。私の一存でお教えしていいのか、ちょっと分からないです……」

「いや、謝らないでいいよ」

 これについては、おそらく花帯さんに当たらなければ知ることはできないだろう。風櫛ちゃんが平常よりも落ち着いて喋ってくれているから(暗い場所だと話しやすくなるのだろうか?)訊ねてみたが、もとより解答は期待していなかった。

 それよりも、先程から俺の身体を洗う手つきがどこかいやらしい感じがするのだが……。

 話が途切れて、しばらくは手拭いが肌を擦る音だけが風呂場に響いていた。風櫛ちゃんは背中だけに留まらず上半身を隅々まで丁寧に洗い、湯を掛けて泡を流してくれた。

「ありがとう、風櫛ちゃん」

「いえ、お礼なんて……」

 彼女はしかし、風呂場を出て行こうとしなかった。まだ俺の背後に膝立ちしている。その意図が俺にはなんとなく分かっていた。身体を洗われながら、もしやと考えていたことだ。

「あの……」

「なに?」

 風櫛ちゃんの手が、俺の肩に置かれる。

「今晩……一緒に寝させてもらっても、いいですか?」

 予期していたとおりだった。だが、俺は答えられない。迷っているのだ。

「お願いします……」

 風櫛ちゃんはその細い腕を俺の首に絡ませ、俺の背中に身を任せてくる。手拭い越しでも、彼女の身体の感触が伝わる。

 昨夜は突然のことで驚き、彼女を拒んだ。そうでなくても、彼女とそういった行為に及ぶなんてあり得なかったことだ。俺が愛しているのは咲乃であり、風櫛ちゃんと関係を持つのは咲乃に対する裏切りであり、同時に風櫛ちゃんに対しても不誠実になる。だから少しも揺らぎはしなかった。

 だが、咲乃……天波は俺を置いて、出て行ってしまった。記憶を失ったかつての咲乃と、俺はもう会えるかどうか分からない。彼女が今度こそ山の中で死ぬという可能性も低くない。今の俺は心のうちを滅茶苦茶に掻き乱され、いっそ自暴自棄になってしまいたい気持ちだった。少なくとも今晩だけは、なにもかも忘れてしまいたい。風櫛ちゃんと寝るというのは、悪くない……そう思われた。受け入れてしまいたくなる、甘美な誘いだと。

「お願いします……」

 風櫛ちゃんはもう一度、俺の耳元で囁いた。そのか細い声を聞くと、尚更(なおさら)応えてやりたくなる。考えてみれば……これは風櫛ちゃんだけに限ったことではないが……、彼女はずっと男のいない環境で暮らしてきたのだ。彼女の歳は十七や十八あたりと思われる……多感な年頃をこんな山奥で、しかも禁欲的とさえ云える質素な暮らしぶりで過ごしてきて、身体を持て余していたことだろう。彼女がこうやって俺に迫るのも無理はない。

 俺は風櫛ちゃんの手に自分の手を重ねた。そして彼女の頼みを受け入れる返事をしようとしたそのとき、

「白蓮様……」

「――ッ!」

 俺は彼女の手を振り解いて立ち上がり、身を翻して彼女を見下ろした。

「駄目だ」

 彼女の表情が悲しげに歪む。俺は構わず、今度は俺が彼女の肩を掴んだ。彼女の口から「い、痛いっ……」と声が洩れたが、これも気にしてはいられない。

「どうして君は俺を白蓮と呼ぶんだ!」

 彼女は答えない。口をぎゅっと噤み、大粒の涙を溜めた瞳で俺を見るだけだ。

「俺は白蓮じゃない! 白蓮はもういないんだよ! 白蓮は君達を此処に置いて出て行ったんだ! 君達は見捨てられたんだよ!」

「……ち、違うっ……違いますっ……そんな、そんな……う、ううううう」

 彼女は泣き出してしまった。それを見て、俺もさすがに自分がしていることの残酷さに気が付いた。肩を掴んでいた力を緩めると、風櫛ちゃんは立ち上がり、何度か転びそうになりながら風呂場を出て行った。

 俺は遣り場のない苛立ちをどうすればいいか分からず、頭を掻き毟った。天波がいなくなってしまって、俺は精神的に参っているのだ。風櫛ちゃんの誘いに乗ろうとするのだって、彼女に酷い言葉を浴びせるのだって、普通だったら絶対にやらないことである。

 桶で湯舟の湯を掬って頭から浴び、俺も少し泣いた。


   十三


 風呂から上がった俺は部屋には戻らず、土蔵にやって来た。夕涼みと洒落込むつもりでもないが、同じようなものかも知れない。

 土蔵の扉は開いたままになっていたので中に這入れた。埃っぽい空気に思わず()せながらも、梯子を上って二階へ。

 窓を開けて外を覗く。格子はしっかりと嵌っていて、此処から人が出入りできないのは考えるまでもなく分かる。昼間、天波は此処から俺と会話した……しかし、板張りの床に彼女の温もりが残っているわけもない。

 煙草が吸いたいな、と思った。金銭の余裕がないために去年から禁煙していて、最近ではもう吸いたくなることもなくなっていたのだが。

 金か……。咲乃を探しに来る前にバイトは辞めてしまった。車を借りたり、その他にも準備を整えるにあたって、わずかばかりの貯金も底をついた。このまま戻っても、また苦しい日々が待っているだけだ。大学も中退してしまったし、この先、俺の人生には希望がない。

 どこでこうなってしまったのか。大学受験に失敗し、浪人したあたりからだろうか。でも予兆は随分と前からあった。あまり裕福でもない家庭のくせに両親は俺に厳しい英才教育を施し、多大な期待を掛けていた。俺は幼いころからそれに応えるのに必死で、あらゆる娯楽を我慢してきた。しかし俺はもとから才能がなかったのである。だから大学受験のときにとうとう破綻した。親はそれでも俺を優秀な大学に行かせようとしたが、一浪した俺が合格したのは滑り止めと云って受けさせてもらった三流大学だけだった。そこで親も俺に失望した。自分達の息子が優秀でないことをようやく悟ったのだ。

「はあ……」

 何度目かの溜息。俺はなにをやっているんだろう。なにをすればいいんだろう。

 もうこのまま此処で眠ってしまおうか。

 そう云えば、俺は今晩もまた彼岸花畑に佇む咲乃の夢を見るのだろうか? 彼女がいなくなってしまっても……。

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