十一「天網恢恢疎にして漏らさず」
十一
目を開ける。俺は薄暗い部屋の中にいた。俺に与えられている、あの部屋だ。畳の上にうつ伏せで寝ていた。
鈍く痛む頭を押さえながら起き上がる。
「紅郎様。夕餉をお持ちしました」
入口の方へ振り向くと、花帯さんが這入ってきた。
「どうされました? もしかして、お眠りになっているところだったでしょうか?」
「……いえ、起きたところです」
俺は頭を殴られて気絶したのだ。その際に誰かが近くに立っているのを見た記憶がある。しかしそれがどんな人物だったかは、靄がかかったように不明瞭だ。
「左様ですか。ではお目覚めになってすぐにお食事と云いますのは……」
「食べれますよ」
「分かりました」
殴ったのは花帯さんではなかったのだろうか。彼女は素知らぬ顔だが、それが演技なのかどうなのかは推し量り難い。俺が意識を取り戻したタイミングでやって来たのが怪しいと云えば怪しいけれど、腕時計を見るに、今が夕餉の時間であるのも事実だ。
俺を殴ったのは誰だ? しかも気絶させた後はご丁寧にこの部屋まで運んで……。
「天波さんは……」
「天波ですか? 土蔵にいますが」
飄々と答える花帯さん。様づけでもなくなっている。
とりあえず漬物に箸をつけながら、俺はどう切り出したものか考えた。無論、天波を土蔵から解放させるための説得だ。
廊下の方から、誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえる。
「は、花帯様」
戸を開けて現れたのは風櫛ちゃんだった。眉を八の字にして、いかにも困っている様子である。
「どうしたのですか」
「天波が蔵にいないのですっ」
花帯さんがぴくりと反応する。風櫛ちゃんは弁解するような調子で続けた。
「と、扉を開けたところ、一見してその姿が見当たらず……名前を呼んでも反応がなく、それで……」
「二階まで上がりましたか」
「い、いえっ……もしや物陰に身をひそめていて、私が中に這入ると同時に逃げ出す魂胆かと思って……だから、その、花帯様のご指示を仰ごうと……」
「錠はまた掛けて来たでしょうね?」
「はい、鍵も此処にあります……」
「正しい判断です。すぐに向かいますから、貴女は綿鳥と泡月を呼んできなさい」
「は、はい」
風櫛ちゃんが小走りで去って行くと、花帯さんはまた俺の方へ向き直った。
「申し訳ありません。というわけですので、私は土蔵へ――」
「俺も行きます」
台詞を遮って云うと、花帯さんはしばし思案する様子を見せた後「分かりました」と認めてくれた。そうでなくとも行ってやるつもりだったが。
俺と花帯さんが土蔵の前まで来てすぐ、風櫛ちゃんも綿鳥さんと泡月ちゃんを連れて駆けつけた。泡月ちゃんは俺を見ると「紅郎さん、こんばんは!」と元気に挨拶した。しかしそれどころではない。
「風櫛、開けなさい」
花帯さんに指示されて、風櫛ちゃんが持っていた鍵で錠前を開ける。続いて扉が開けられると、湿気た空気が漏れ出した。
中は真っ暗だ。そこで風櫛ちゃんが行灯に燐寸で火を灯し、一歩中に這入った。這入ってすぐの床に夕餉の乗った盆が置かれているのを見て、なるほど、彼女は天波に食事を運んだところだったのかと納得する。
「たしかに姿が見えませんね」
土蔵は物置と化しており、耕作の道具や掃除用具、使われなくなった箪笥や棚、紐で束ねられた薪、予備の瓦に割れた瓦、その他葛籠や木箱や骨董品なんかが雑多に収められていた。こんな場所に天波を閉じ込めるなんて……。ただ、一階の奥の部分が手前の土間より少し高くなっていて、そこは畳敷きとなっていた。二階と云うのは奥半分だけで、梯子で上り下りするかたちの、いわばロフトのようなそれだった。
風櫛ちゃんが報告したとおり、天波がいる気配はない。
「貴女は此処を開けたとき、一歩も中には這入りませんでしたか?」
「這入りませんでした。天波がいないことにはすぐに気付きましたし、それで怖くなってしまって……。夕餉は一旦床に置いて、扉を閉めて施錠して花帯様のところに……」
「錠はずっと掛かったままだったんだよね?」
俺が訊くと風櫛ちゃんはびくっと肩を震わせてから、視線を左右にきょろきょろさせつつ「掛かってました。私が先程来たときにも、確かに掛かったままでした……」と答えた。
それなら天波に此処を抜け出せたはずはない。今もこの中にいるということになる。
「中を調べます。綿鳥と泡月は此処に立って、姿を現した天波が逃げ出していけないように見張っていなさい」
花帯さんが這入る――それより先に、俺も土蔵の中に這入った。身体が勝手に動くようだった。
「手伝います」
返事も聞かないうちに、俺は早速手前の方から順々に調べ始める。風櫛ちゃんは奥、花帯さんは二階へと梯子を上がった。
大小様々な物で溢れた土蔵の中は、それだけ人の隠れられるスペースが存在している。物陰はもちろん、木箱や葛籠も物によっては中に人ひとりくらい入ることができる。おまけにそういう場所は暗い。明かりは風櫛ちゃんが持つ行灯と、もうひとつ、花帯さんが中で見つけた提灯に同じく火を灯したそれだけだ。俺達は細い隙間も含めて、念入りに調べる必要があった。
しかし、どうして天波はこんな真似を? 俺は彼女の意図が分からなかった。彼女にとってみれば、俺がつい先程まで気絶させられていたことは知る由もない。俺が助けると宣言したにも拘わらず一向に動きがなく、とうとう夕方にまでなってしまったから自ら脱出のための行動に出たのか? でもこれは、彼女には悪いけれど、悪足掻きのようにしか思えなかった。一時だけ動揺は誘えたかも知れないが、それだけである。それほど広くもないこの土蔵の中で隠れ通せないのは明白だし、そうでなくても土蔵を出ることには繋がらない。まさかそれが分からないなんてことはないはずだ……。
ズキズキと、殴られた頭部が痛む。そうだ、俺を殴った者はこの場にいる誰かなのだ。花帯さんか、綿鳥さんか、風櫛ちゃんか、泡月ちゃん。彼岸邸には他に人はいないのだから、当然そうなる。順々に彼女達の顔を窺う。泡月ちゃんだけが俺と目が合って、どうしたのとでも云うように首を傾げた。彼女が犯人だとは思えない。ならば、やはり花帯さんなのか?
「二階にはいません」
その花帯さんの声が聞こえて、俺は我に返った。「もう少しで調べ終わりますけど……私も今のところは……」と云う風櫛ちゃんに合わせて「俺も同じです」と応答する。
てっきりすぐに発見されるものと思っていたが……。俺は最後に鏡の割れた鏡台の下部についた大きな抽斗を開けて、そこにも天波がいないのを確かめた。
「俺が探したところにもいませんね」
すると風櫛ちゃんが「えっ」と引きつった声を出した。それから彼女は恐る恐るといったふうに、
「私も調べ終えたんですけど……結局どこにも……」
しばらく、場は静寂に支配された。それを破ったのは泡月ちゃんの「皆が探してる最中に天波さんが動いたなら、私が見逃さなかったはずだよ」という自信ありげな声だった。綿鳥さんも「此処から見ていた限り、捜索に抜かりはありませんでした」と続けた。
「二階の窓は内側から施錠されたままです。加えてこの窓は高所にありますし、格子も嵌っています」
花帯さんが梯子を下りながら云う。俺はまた手近な物陰を覗いたりしたが、それで見つかるわけもない。一度調べた場所だ。
「風櫛、貴女が来たとき、確かに錠は掛かっていたのですか? 本当は数秒ほど、中に這入っていたのではないですか?」
花帯さんは風櫛ちゃんを疑い始めていた。そりゃあそうだろう。彼女に落ち度があったのでなければ、この状況に説明がつかない。土蔵は俗に云う密室状態というやつで、天波に脱出するすべはなかった。なのに天波は此処から姿を消した。いくら物が多いと云っても所詮はこの程度の土蔵だ。今の捜索に見落としがなかったのは、俺達自身が充分に理解している。
「ほ、本当ですっ……私、自分の失態を隠そうとして嘘をついてなんていませんっ。し、信じてくださいっ」
風櫛ちゃんは首を小刻みに横に振りながら、痛切な声でそう云った。パニックに陥ってしまったらしく、顔は真っ赤になり、はらはらと涙を流している。
それで花帯さんが信じたかは定かでないが、彼女は風櫛ちゃんが担当していた範囲を自分でも簡単に見て回った後に「どのような方法を使ったのか……。天波には逃げられてしまったようです」と結論を下した。綿鳥さんがそれを受けて「天網恢恢疎にして漏らさず」と謎の呟きをした。
俺は信じられない思いで、土蔵の中を再度見回した。造り自体は単純だ。どう見たってなにかトリックが入り込む余地はない。現象はまるで脱出マジックのそれだけれど、この蔵には掛け値なしに種も仕掛けもない。
「とはいえ、敷地内の捜索はしましょう。私は崖の上全域、綿鳥は――」
花帯さんはもう外に出て、皆にそんな分担を伝えていた。俺はそれとは別に単身、屋敷の中に戻った。腑に落ちないことばかりで、なにを考えたらいいのかすら見失っている。
天波はもう彼岸邸から出て行ってしまったのか? 俺を置き去りにして? 俺が気絶させられていたのを知らなかったにしても、もう少し待っていてくれても良かったじゃないか。もう少し信用してくれても、良かったじゃないか。
いや、分かっている。俺は彼女が咲乃だと知っていて、自分が彼女の恋人であったと知っているからそう思うだけなのだ。彼女からすれば、それは違う。俺は昨晩に彼女との距離が縮まったと……俺の知る咲乃に再会できる時というものに近づいたと、めでたくもそう信じ込んでいたけれど、彼女にとって俺はまだ会話もろくに交わしたことのない他人でしかなかったのだ。彼女は俺に失望し、ひとりで消えてしまった。
俺は玄関を出て、前庭に来ていた。正門と石垣を潰した巨大な菩提樹はまだ横たわったままだ。それでもよじ登って越えられないことはないし、此処からでなくとも出て行くのは可能だが……、だが俺は、あることに気が付いた。
此処を出て、それからどうするのだ?
この彼岸邸は人里離れた山奥にぽつんと孤立している。周りには人が通る道なんてない。此処から出たところで、山から下りられる望みは薄い。それはまさにこの山の中で遭難した俺が身を以て思い知らされた。天波だって承知していたし、いざ山に分け入っていこうとすればすぐにそうと知れるはずである。
彼岸邸から出て行くには、麓まで下りられる人間が一緒でなければならない。俺は今頃になってようやく気付いた。俺だって同じく、ひとりでは帰れないのだ。
俺はその場に立ち竦んだ。
天波は本当に此処を出て行ったのか? もしそうなら、彼女は山の中で野垂れ死ぬに違いない。俺が今から後を追おうにも、合流できる可能性は限りなく零であり、野垂れ死にする人間がひとり増えるだけだ。
花帯さん達は天波の脱出を不思議がってはいたが、焦っているような様子は全然なかった。きっと彼女達は知っていたからだ。此処から逃げ出しても、決して助からないと。
天網恢恢疎にして漏らさず……。
しかし、天波が犯した罪とはなんだ?




