第80話 狭間の世界
「なんだこれは……!?」
視界に映る光景に、さしものヨハンも驚愕を禁じ得なかった。
世界が、色褪せていた。
踏みしめている地面はおろか、建物も、村を囲う木々も、夜空さえも、灰色に色褪せていた。
つい先程までヨハンたちを照らしていた大松明に至っては、ただ色褪せているだけの騒ぎに留まっていない。
大松明の火は静止していた。
揺らめいて然るべき火が今は微動だにともしておらず、舞い散る火の粉さえも中空で静止していた。
光はおろか、その身に宿した熱さえも発しないまま。
「ヨハンでもわからないの……この状況……?」
傍にいたカルセルが、動揺に揺れた声音で訊ねてくる。
ヨハンとカルセルもそうだが、イリード兄弟も、六人の騎士も、ジーゴも帝国兵も……ミーミル村にいた人間は誰一人として色褪せてはおらず、静止もしていなかった。
「……わからない。少なくとも魔法の〝力〟では、こんな時を止めるような真似はできない。絶対に」
「わからねぇなら、知ってそうな奴に聞くしかねぇな」
ヨハンたちの会話を聞いていたガイが、大剣媒体の切っ先でジーゴを示す。
ジーゴは不敵な笑みを浮かべ、
「教えると思っているのか」
と、答えるも、
「聞くだけ無駄だよ、ガイ。彼、ちょっと前まで馬鹿みたいに口を開けて驚いてたから」
カイの言葉にジーゴの不敵な笑みが引きつり、ガイは鼻を鳴らした。
「はんッ。結局誰も、何が起きたのかわからねぇってこ――……」
言いかけて、ガイは瞠目する。
いや、瞠目しているのはガイだけではない。
ヨハンも、カルセルも、カイも、ジーゴも……この場にいる全ての人間が瞠目していた。
いつの間にか……本当にいつの間にか、ジーゴの傍に、妖艶な美女が佇んでいた。
世界が色褪せた時とは違い、超常的な〝力〟が作用した気配はない。
むしろ気になるのは、そちらの気配ではない。
そこに人がいることを感じる気配。それが著しく希薄なのだ。女を視界に収めていてなお。
現れた時と同様、瞬き一つしている内に忽然と消え失せそうな予感がしたヨハンは、全神経を尖らせながら女を〝視〟る。
女の身は、素肌がほとんど見えない、ローブにも似たゆったりとした着衣に包まれていた。
着衣同様、波のように揺らめく桃色の髪は、右目と膝裏を隠すほどの長さを有している。
色素の薄い肌に、紫水晶の左目、その下にある泣きボクロ、肌に負けず劣らず色素の薄い唇と、男を惑わす要素に事欠かない容貌からは、荒事の気配を微塵も感じられない。はずなのに、〝死〟の気配は、この場にいる誰よりも色濃く醸し出していた。
そして、女性らしい肉感と女性らしい華奢さが同居した身体の内には、この場にいる誰よりも悍ましい〝力〟を秘めている――そんな気がしてならなかった。
女を前にして以降、イリード兄弟さえも額に冷汗を滲ませているところを見るに、おそらくその〝視〟立ては正しいのだろうとヨハンは思う。
女は、場違いなほどおっとりとした所作で周囲を見回し、
「あらあら、これはまた随分と愉快なタイミングで繋げちゃったみたいね~」
困ったように、そのくせどこか楽しげに言った。
(繋げる? 何の話だ?)
あるいはそこに、この状況について識るヒントが、帝国がミーミルを陣取っている理由が隠されているのかもしれないと考えていると、
「そ~れ~に~」
女から怖気を振るうような流し目を向けられたヨハンは、半ば強制的に思考を打ち切り、身構える。
「〝翁〟から随分面倒な頼まれ事されちゃったな~とか思っていたけれど……まさか、こ~んな愉快な出会いがあるなんてね~。ヨハン・ヴァルナスちゃん」
今ので大凡の察しはついたが、ヨハンはあえて女に訊ねる。
「そういうお前は何者だ?」
「何者……何者ね~……」
独りごちるように呟きながら、傍にいる、若干後ずさり気味のジーゴを見やった後、ヨハンに向かってクスリと笑う。
「いいわ。答えてあげる。どうやら、味方の方も私が誰だかわかってないみたいだし」
そして女は、ある意味では予想外で、ある意味では納得できる答えを高らかに告げた。
「私は《終末を招く者》七至徒が第四位、ルナリア・シャンリー。だからそこの軍団長ちゃん――でいいかしら? とにかく、時間が来るまで私がお手伝いしてあげるわ」
唐突すぎる七至徒との邂逅に誰も彼もが瞠目する中、ルナリアは右掌を天に掲げ、唄うように魔名を唱える。
「〝シルフィーオーケストラ〟」
直後、翠風がルナリアに、ジーゴに、三〇人強残っていた帝国兵士たちに纏わり付く。そのあまりにもあり得ない出来事を前に、ヨハンは一も二もなく補助魔法を発動した。
「舞い踊れ、風の精よ――〝シルフィーロンド〟!」
「てめぇ! 何魔法使って――」
「ゴチャゴチャ言ってる暇があったら構えろ! ここはもうすでに死地だ!」
ガイの怒声を、ヨハンがさらなる怒声でかき消す様子に笑みを浮かべながら、ルナリアはジーゴと兵士たちに告げる。
「風属性魔法であなたたちの機動力を強化したわ。多少無茶な動き方をしても翠風が護ってくれるから存分に戦いなさい。今なら、グラムの騎士さん相手でも渡り合うことができるわよ~」
ルナリアの言葉に兵士たちが戸惑いを見せる中、ジーゴは迷うことなく地を蹴り、まさしく疾風の如き速さでガイに飛びかかる。そして、飛翔の勢いをそのままに、戦斧媒体でガイの首を刎ね飛ばそうとするも、
「……ッらぁ!」
ガイは劇的な反応で大剣媒体を振り上げ、戦斧媒体の一閃を受け止める。と同時に、力任せにさらに振り上げ、ジーゴを中空に弾き飛ばした。
宙を舞ったジーゴの巨体は、翠風に導かれるように手近の建物の上に流れていく。少しバランスを崩しながら屋根の上に着地したジーゴは、兵士たちに向かって声を張り上げた。
「見たか貴様らッ!! ルナリア殿の言うとおり、翠風の力を借りれば、我々でもグラムの騎士と対等に戦うことができるッ!! ここが踏ん張りどころだッ!! 戦えぇええぇええぇええッ!!」
窮地に追い込まれていたところで世界が静止し、唐突に現れた味方に補助魔法をかけられ、困惑する一方だった兵士たちが指揮官であるジーゴの一声で奮起し、騎士たちに襲いかかり始める。
「体を張ることで無理矢理統制を取るとはね。軍団長を務めているのは伊達じゃないってことか」
「感心してる場合か、カイ! 来るぞ!」
ガイは叫びながらも、疾風となって斬りかかってきた兵士の剣撃を受け止めた。
一気に場が混戦の様相を呈する中、ルナリアは不思議とよく通る声でジーゴたちに言う。
「ヨハンちゃんの相手は私がするわ。たぶんちょっと派手な戦いになると思うから、あんまり近づかないようにしてね♪」
その言葉は、こちらにも向けたものであることに気づいたヨハンは、カルセルに言う。
「聞いてのとおりだ。あの女の相手は僕がする。カルセルは苦戦している騎士の援護に向かってくれ」
ヨハンが魔法で戦うことを、自分が傍にいてはヨハンが存分に魔法を振るえないことを察したカルセルは、素直に「わかった」と応じ、苦戦している六人の騎士たちのもとへ向かった。
カルセルが充分に離れるまでの時間を稼ごうと思ったヨハンは、いつ戦いが始まってもいいよう気構えながら、ルナリアに話しかける。
「一口に魔力と言っても、体格や五感のように、その質には個人差がある。そして、他人に補助魔法をかける場合は、対象となった人間の魔力の質を完璧に把握しておかなければ補助魔法の効果を阻害されてしまうため、他人に補助魔法を、それも何十人も同時にかけるなんて芸当は……僕にもできない。それこそ、そんなことができるのは父上くらいだろうな」
「あら。大陸一と謳われた魔法士と同じことができるだなんて光栄ね~」
「そう言うお前は、帝国一の魔法士といったところか」
「あらあら。どうして、そう言い切れるの?」
「たった一分野とはいえ、この僕を凌駕する魔法士が只者であるはずがないと思っただけだ」
「あらあらあら~。良いわね~その傲慢さ。実に魔法士らしいわ」
「そう言うお前も、大概に傲慢に見えるがな」
「ご明察♪」
直後、翠風の力を借りたヨハンとルナリアは、全く同時に空高く飛び上がる。
灰色の空に目がけて左掌を掲げ、詠唱を省略した魔法を発動したのも、全く同時のことだった。
「〝グレイシアファランクス〟!」
「〝イフリートノヴァ〟」
ヨハンの周囲に百を超える氷の攻城矢が具現し、ルナリアの周囲に百を超える炎の球体が具象する。
二人が左手を振り下ろした刹那、百の攻城矢が、百の炎球から放たれた極太の熱線が撃ち放たれる。
攻城矢と熱線は互いに撃ち漏らすことなくぶつかり合い、それによって生じた衝撃波が落下中のヨハンとルナリアを揺らす。
その身に纏う翠風がなければ、お互い衝撃波に吹き飛ばされていたところだった。
(これでルナリアは二つ、詠唱を省略した魔法を使った……! 〝シルフィーオーケストラ〟は補助魔法だから〝イフリートノヴァ〟さえ警戒していれば……!)
翠風の力で緩慢に落下しながら、ルナリアの手札を頭に叩き込み、次の一手を思案する。
だが、相手は七至徒第四位。
そんな暇を与えてくれるほど甘い相手ではなく、ヨハンの常識に付き合ってくれるほど優しい相手でもなかった。
ルナリアが手刀の形で右手を掲げた瞬間、言い知れぬ悪寒を覚えたヨハンは即座に防御魔法を詠唱する。
「安らぎの翠風よ――」
「〝エメラルドブレイド〟」
刹那、三つ目の詠唱を省略した魔法を放ったルナリアが手刀を振り下ろし、その軌跡をなぞるようにして具象した三日月型の風刃が、ヨハンを強襲する。
「――〝グリーンサンクタス〟!」
すんでの所で発動した風の結界が風の刃を受け止め、ヨハンは安堵の吐息をつく。が、
「〝グリーンガスト〟」
駄目押しの四つ目。
ルナリアの左掌から、魔名のみで発動した翠色の突風が放たれ、いよいよヨハンは瞠目する。
「ぐ……ッ」
突風は風の結界ごとヨハンを吹き飛ばし、同時に、その圧力をもって結界とせめぎ合っていた風刃を中へ中へと押し込んでいく。
このままでは翠風の結界が破られると判断したヨハンは、迷うことなく改編魔法の使用を決断した。
「連なり纏いし安らぎよ、その翠碧を以て我を護れ――〝グリーンホーリネス〟!」
翠風の結界が風刃に打ち破られると同時に、翠碧の輝きを放つ風の結界が新たに展開される。
結界は〝エメラルドブレイド〟と〝グリーンガスト〟を真っ向から受け止め、一瞬もせめぎ合うことなくまとめて弾き飛ばした。
追撃がないことを確認したヨハンは〝グリーンホーリネス〟を解除し、地面に降り立つ。
先の攻防で少し吹き飛ばされたせいか、着地地点は村の入口手前。カルセルたちが戦う村の中央からは引き離された形になってしまっていた。
ヨハンに遅れて、その身に纏った翠風の力でゆっくりと着地したルナリアが、興味深そうに訊ねてくる。
「さっきの防御魔法、もしかして、噂の呪文の改編というやつかしら?」
「質問したいのはこちらの方だ。詠唱を省略した魔法を三つも四つも使えたのは、いったいどういうカラクリだ?」
「そ・れ・は・ね~……先に私の質問に答えてくれたら教えてあげる」
呪文の改編について、帝国内で噂になっていることは甚だ遺憾だが、知られたところで特段問題はない。
いや……仮に問題があったとしても、自分はルナリアの質問に答えることを選んだだろう。
ヨハンの父であり、ミドガルド大陸最高の魔法士であるダルニスでも、両掌分――二つ以上の詠唱省略の魔法陣を刻むことはできない。
骨の髄まで魔法士であるヨハンには、多少の損得よりも、未知なる魔法の技術を知りたいという欲求の方がはるかに強かった。
「どう噂になっているのかは知らないが、確かに、先程使った〝グリーンホーリネス〟は〝グリーンサンクタス〟を改編した魔法だ」
「なるほどね~。ちなみにだけど改編魔法って、普通に魔法を使うよりも世界の理を歪めちゃったりする感じなのかしら?」
「父上が言うには、だがな。それがどうかしたか?」
「いやね~、ヨハンちゃんが改編魔法を使った際、静止しているはずの〈狭間の世界〉の空が一瞬だけ歪んだのよね~」
「……〈狭間の世界〉?」
思わず、聞き返してしまう。
すると、今の今まで「焦る」という言葉とは無縁だったルナリアが、にわかに慌て始めた。
「あららら~……今のはナシ。聞かなかったことにしてくれないかしら~……?」
好奇心から乗った話だったが、思いがけず重要そうな情報を得られたことにヨハンはほくそ笑む。
そんなヨハンの表情を目の当たりにしたせいか、
「そ、そうだ~。私がどうして詠唱を省略をした魔法を、いくつも使えるのかって話だったわね~」
露骨に話題を変える、ルナリア。
また向こうが口を滑らさない限り、これ以上の情報を引き出すのは難しいと判断したヨハンは、無理に追及はせずに、話を続けるよう無言で促した。
「少しサービスして教えちゃうと、ちょっとヘマして失った右目の代わりに、私が研究していたある物を埋め込んでみたら体質が変化しちゃって、掌以外に詠唱省略の魔法陣を描いても機能するようになったのよね~。あ、どこに魔法陣を描いてるかは、ベッドに連れ込んだ女の子にしか教える気はないから、ヨハンちゃんは、ダ・メ・よ♪」
あのジスファーと同じ七至徒とは思えない、あまりにも緊張感のないルナリアを前に、ヨハンは今にも緩みそうな気を引き締め直す。
ルナリアの、魔法士としての実力は本物。
父ダルニスを除けば、ヨハンが今まで出会った魔法士の中で随一と言っていい。
それに、サービスで教えてくれた右目の代わりに埋め込んだある物についても、警戒をしておく必要がある。
七至徒である以上、ルナリアもまた人外の〝力〟を有していると仮定――いや、断定して戦いに臨むべきだ。
「さて、お喋りはこれくらいにしてっと……〝イフリートノヴァ〟♪」
おっとりと唐突に戦闘を再開したルナリアが、先程〝グレイシアファランクス〟と撃ち合った最上級火属性魔法を発動する。
ルナリアの周囲に百の炎球が具象した瞬間、ヨハンは翠風の力を借りながら全力で真横に飛んだ。
そのわずか半瞬後、炎球から放たれた百の熱線が、ヨハンがいなくなった空間を圧し、村の建物に直撃する。
レティアたちの村の建物が、熱線の餌食になる様を幻視したヨハンは舌打ちを漏らしかけるも、
「!?」
木造の建物はおろか、石造の建物でさえも容易く消し飛ばす熱線が直撃したにもかかわらず、消し飛ぶどころか焼き目一つつかなかったことに、ヨハンは目を見開く。
(まさか、この……〈狭間の世界〉だったか……とにかく、この世界の中で色褪せている物質は、何をしても壊れないようになっているのか?)
〈狭間の世界〉という呼称と、色褪せた物質が時が止まったように静止していることを鑑みるに、色褪せた物質は自分たちとは別々の次元に存在し、〝狭間〟ゆえに触れることはできてもそれ以上の干渉はできないのかもしれないと、ヨハンは推――
「あらあら、考え事とは余裕ね~〝ライトニンググラベル〟」
ルナリアは左掌をかざし、無数としか形容しようがない数の雷の飛礫を、ヨハンに向かって発射する。
ヨハンは色褪せた物質が壊れない性質を利用し、建物の蔭に飛び込んで盾にすることで〝ライトニンググラベル〟をやり過ごした。
「氷の女王よ、その威厳を以て彼の者を閉ざせ――〝ブリザードグリム〟!」
カルセルたちとの距離が離れているのをいいことに、広範囲に吹雪を吹き荒れさせる魔法を発動する。
「寒いのは苦手なのよね~」
と言いつつも、
「〝クリムゾントルネード〟♪ 〝クリムゾントルネード〟♪ 〝クリムゾントルネード〟♪」
炎の旋風を連発し、その熱をもって吹雪を吹き散らす。
ルナリアの応手は、ヨハンが歯噛みするほどに的確だった。
いまだ一度も呪文を詠唱していないルナリアにますます脅威を覚えながらも、ヨハンは建物の蔭から短銃媒体でルナリアを牽制しつつ、彼我の実力を分析する。
(認めたくはないが、ルナリアの魔法士としての実力は、僕とほぼ同等。七至徒である以上、魔法以外の〝何か〟もあると思った方がいい。そして、魔法士としての実力が同等である以上、その〝何か〟を使われたら……十中八九、僕は負ける)
当然、敗北を受け入れるつもりはない。
復讐を果たすまでは、誰にも負けるつもりは……ない!
(クオン相手に使える〝手〟ではなかったから試してすらいないが……ちょうどいい機会かもしれないな)
モニア平原の決戦後、ヨハンはただベッドの上で寝ていたわけではない。
療養に努めながらも、少しでも強くなるために、己が魔法を少しでも進化させる術を模索していた。
その術とは、魔法陣なしでは発動できない特殊な魔法を、呪文を改編することで、魔法陣なしで発動するというもの。
まさしくそれを行使することを決断したヨハンは、今一度短銃媒体でルナリアを牽制してから建物の蔭から飛び出し、粛々と呪文を唱えた。
「全てを焼滅せし獄炎を、我が呼び声に従い、我が敵を焼き尽くせ――〝ルイーナイグニス〟」





