第65話 自覚と決意
地下水路の一件以降、クオンは、任務とは関係なしにヨハンのことが気になって気になって仕方なくなっていた。
たいした用もないのにヨハンの家を訪ねるようになったり、都合がつく限りヨハンと一緒に食事をしたり、ブリック公国軍の任務や調練の際は気がつけばヨハンの背中を探していたり……駄目だとわかっていても、ヨハンのことが気になる気持ちを抑えることができなかった。
このままでは潜入任務に支障が出るかもしれない――そんな危惧とは裏腹に、《終末を招く者》としての仕事ぶりは完璧するほどに完璧だった。
それこそ、クオン自身が驚いてしまうほどに。
公都ヌアーク内を巡回警備する兵士たちの経路と時刻、公都内において余所者が出入りしても不自然ではない地域、ヌアーク城の詳細な見取り図、〝実験〟のために魔法あるいは澱魔によって殺されなければならない人間のリスト……などなど、クオンが公都に潜入してから四ヶ月の間に調べ上げた項目は無数。
ダルニスの手記の写しに関しても、当然の如く手抜かりはなかった。
(支障が出るどころか、むしろ絶好調なくらいですね)
クオンは兵舎の自室で身支度を調えながら、ここ最近の自分をそう評する。
(それに毎日がすごく楽しくて、充実してます。〝妹〟が傍にいないのに、こんな気持ちになったのは初めてですね)
今考えていたことの全てが、ヨハン・ヴァルナスに起因していることは疑いようがなかった。が、だからこそわからなかった。
(わたしが今、ヨハンさんに抱いているこの感情は、いったい何なのでしょう……?)
同年代の少女ならば自明に等しい感情でも、物心ついた時から《終末を招く者》の訓練施設に放り込まれ、日常的に死を目の当たりにする異常な環境で育ったクオンには、難解極まる感情だった。
その感情の存在自体は知識として知っている分、なおさらその正体を難解にさせていた。
なぜならクオンにとってそれは、最も縁遠い感情の一つだったからだ。
(感覚的には〝妹〟と一緒にいる時の感情が最も近い気がしますが……むしろ最も遠いと感じるのはどうしてでしょう……?)
いくら考えても答えは出ず、疑問を棚に上げることに決めたクオンは手早く身支度を済ませ、自室を後にする。
本日の兵士としての任務は、公都を護る外壁の上での哨戒任務。
ヨハンは昨夜、夜番だったため同じ任務に就くどころか顔を合わせる機会すらなく、今はもう家に帰って眠りについている頃なので、一緒に朝食をとることもできない。
表情にこそ出していないが、ヨハンと会える日よりも気分が乗らないのは明白だった。
(気分転換も兼ねて、今日は行ったことがない食堂で朝食をとるとしましょうか)
〝外れ〟だった場合は逆効果になる恐れがあるが、今はあえて考えないことにした。
自分が哨戒を担当する外壁の方角へ向かい、その途上で見つけた食堂の前で足を止める。
入口脇に置かれたメニュースタンドを見る限り、どうやらパスタをメインに扱っている店のようだ。
朝食パスタも悪くない――そう思ったクオンが、食堂の玄関をくぐると、
「あら、クオンじゃない」
食堂中央のテーブル席に座っていたオリビアが、ヒラヒラと手を振ってくる。
オリビアの対面には、やけに顔の濃い男兵士――マイクが座っていた。
オリビアとマイクが恋仲だということは、公国軍兵士の間では周知の事実。
ゆえにクオンは、
「奇遇ですね、オリビアさん」
と応じながらも、他の席へ向かおうとするも、
「あら、気を遣わなくていいわよ。別に今、デートをしているわけじゃないから」
「そういうことだ。折角の偶然だ。楽しまないと損ってもんだろ」
「ふふ……さすがね、マイク。今の言葉、とっても素敵だったわよ」
「よせよ、オリビア。俺は当たり前のことを言っただけさ」
二人のやり取りに、さしものクオンも苦笑するしかなかった。
クオンが同席を避けようとしたのは、気を遣う使わない以前にそういうところに問題があることを、二人は毛ほども気づいていない。
同じ軍服を着ている時点で他人の振りを決め込むこともできないので、クオンは観念してオリビアたちと同じテーブルの席についた。
「わたし、この店に入ったのは初めてなんですけど、お二人はよく来るんですか?」
「ああ。週に一回くらいのペースでな」
「もちろん、わたしも一緒よ」
パチリと、オリビアはウィンクする。
「でしたら、オススメの料理は――」
「トマトソースパスタだな」
「トマトソースパスタね」
クオンが言い切る前に、マイクとオリビアは全く同時に、全く同じ答えを返した。息も嗜好もピッタリな二人に、クオンは再び苦笑する。
(熱々なわけですね)
心の中で、呆れるように感心するように独りごち、
(……あれ? なんでわたし、二人のことが羨ましいだなんて思っているのでしょう?)
心の中で、首を傾げる。
自分でもよくわからない心の動きだった。
このまま思考の海に沈んで理由を究明したいところだが、オリビアたちがいる手前そういうわけにもいかず、内心の疑問を棚上げにし、ウェイターをつかまえてトマトソースパスタを注文した。
疑問から棚上げに至るまでの流れに、ひどい既視感を覚えながら。
そんなクオンをマジマジと見つめながら、マイクが言う。
「しかしまあ、いまだに信じられないな。こんな可愛らしいお嬢さんが、剣を持ったらレグロの次に強いだなんてな」
「あら? 駄目よ、マイク。そんな口説くような言い回しをしちゃ。あなたの魅力にアテられて、この子が本気になったらどうするの?」
「大丈夫だよ、オリビア。いくら俺でも、恋に盲目になっている子は口説けないし、そんな子を口説くなんて無粋な真似もしない」
「あぁ……! あなたの言うとおりだわ。ごめんなさい、マイク。あなたを疑うようなことを言って」
「いや、あんな言い回しをした俺が軽率だった。俺の方こそすまない、オリビア」
互いが互いに、相手が浮気することは絶対にあり得ないと信じ切っているやり取りだった。
この場にヨハンかカルセルがいれば、口から大量の砂糖を吐いていること請け合いである。
そして、クオンといえども苦笑を禁じ得ない場面――のはずだが、今のクオンはマイクの口から出てきたとある言葉が引っかかっていたため、二人の甘ったるいやり取りを気にする余裕はなかった。
顎に手を当てて黙考していたクオンは、お手上げだと言わんばかりにとある言葉を言った本人に訊ねる。
「マイクさん……『恋に盲目になっている』って、誰のことです?」
マイクとオリビアは顔を見合わせ、苦笑する。
「まさしく盲目ね、マイク」
「まさしくどころか想像以上だよ、オリビア」
二人の言葉の意味がわからないクオンの首は、傾く一方だった。
そんなクオンにオリビアは苦笑を深めながら、三ヶ月ほど前にクオンに訊ねた内容と同じ質問を彼女に投げかける。
「あなたとヨハン、付き合っているっていう噂があるけど、本当なの?」
その質問についてしっかりと憶えていたクオンは、思わず、三ヶ月前と同じ返答をしてしまう。
「付き合う? わたしとヨハンさんが?」
その反応を見て、オリビアはますます苦笑を深めた。
質問の意味がわからずキョトンとしていた三ヶ月前のクオンとは違い、表情も声音もやけに嬉しそうなものに変わっていたからだ。
「やはり盲目だな」
訳知り顔で頷くマイクに、オリビアもまた訳知り顔で頷き返す。
「やっぱり盲目ね」
そして、とどめと言わんばかりに、こう付け加えた。
「最近のあなた、傍から見てもヨハンのことが好きで好きでたまらないって感じになってるわよ」
「わたしが……ヨハンさんのことが…………」
うわごとのようにオリビアの言葉を反芻し、
「……え?」
ボンッと音を立てて、クオンの顔が真紅に染まった。
ヨハンに抱いていた感情の正体――それは恋。
わかってしまえば、なんで今までわからなかったのかと思えるほど簡単で、なぜか初めて聞くような響きに充ち満ちた感情だった。
恋を自覚した途端……もう駄目だった。
嬉しさと恥ずかしさと愛おしさが綯い交ぜとなり、クオンの心を渦潮さながらにかき乱し始める。
こうなったら最後の手段とばかりに〝仮面〟を被ろうとするも、恋に盲目になったクオンでは渦潮に飲まれていった〝仮面〟を見つけることはできず、途方に暮れてしまう。
「わた……わた……わたし…………」
真っ赤な顔をそのままに、プルプルと震えると、
「今日は休ませていただきますっ!!」
脱兎さながらに、マイクとオリビアの前から逃げ去っていった。
「確かにマイクの言うとおり、可愛らしいわね~」
オリビアはニヤニヤと笑いながら、食堂を飛び出していくクオンを見送る。
「あの様子だと、休暇報告は出来そうにないな」
「そこは、私たちで報告しておいてあげましょう。可愛い後輩のためだもの」
「そうだな。その見返りに俺たちは――」
マイクは、トレイ片手にこちらのにやってくるウェイターを横目で見やり、
「彼女が注文した、トマトソースパスタをいただくとしよう」
◇ ◇ ◇
兵舎の自室に戻ったクオンは、軍服姿のままベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて「う~う~」と唸り始める。
埋まり損ねた耳は今だ引く気配のない熱で真っ赤に染まっており、落ち着きを失った足が悶えるようにパタパタと交互に上下する。
(わたし……そうだったんだ……ヨハンさんのことが……す……好…………――――)
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
声にならない声を上げながら、足をパタパタパタパタさせる。
ナンバー90を知る《終末を招く者》の構成員が見たら、自分の目と正気を疑うこと請け合いの場面だった。
全く自覚がなかった――と言えば嘘になる。
なぜならこの数ヶ月の間に、ヨハンのことを大切に想う気持ちが、クオンの中でどんどん大きくなっていくのを感じていたからだ。
そして感じていたからこそ、その気持ちが恋という感情からきていることを理解できなかった。
自分がそんな感情を抱くようになるなんて、夢にも思っていなかったから。
(……いえ……もしかしたら……理解しようとしなかったのかもしれませんね……)
初めて好きになった人を、この手で、必ず、殺さなければならない……そんな現実を受け入れられるほど、わたしの心は強くできていない。
オリビアたちに指摘されるまで恋という答えに行き着けなかったのも、その恋が残酷な結末しか迎えないことがわかりきっていたから、本能が理解を拒んでいたのかもしれない――今にしてみれば、そう思えてならなかった。
事実、クオンはこの数ヶ月の間、ヨハンをこの手で殺さなければならないという現実について、無意識の内に考えないようにしていた。
それこそまさしく、本能が理解を拒んでいた何よりの証拠だった。
天まで飛んでいきそうなほどに浮ついていた心が、急速に沈んでいく。
高鳴っていた胸に、重く、鈍い痛みが伴い始める。
(本当に……どうして……よりにもよって……殺さなければならない人を好きになっちゃたんですか……わたしは)
そもそもわたしは、あのヨハン・ヴァルナスのどこを好きになったんだろう?
魔法が使えないせいかすごく弱くて、剣才がないせいかすごく頼りなくて、そのことにコンプレックスを抱いていて、でもそれらを自覚した上で必死にがんばっていて、その足掻きっぷりがかっこ悪くて、でもよく見たら意外とそうでもなくて、わたしの正体には全然に気づいてなくて、でもわたしの心情には気づいて優しく寄り添ってくれて……
(〝どこが〟とか〝なにが〟とか、そんなつまらない理屈じゃありませんね……)
自嘲混じりに独りごちる。
ヨハンへの想いを、理屈という枠にはめ込む愚かさに気づいたがゆえの自嘲だった。
然う。わたしは、理屈抜きにヨハン・ヴァルナスを好きになってしまったのだ。
〝どこが〟とか〝なにが〟とかではなく、ただただヨハン・ヴァルナスを好きになってしまったのだ。
自覚すればするほどヨハンのことが好きになっていき、自覚すればするほど胸の痛みが増していく。
一瞬、ヨハンに自分の正体を、国崩しのことを打ち明けようかと考えるも、すぐさま〝妹〟の顔が脳裏に浮かび、思いとどまる。
ヘルモーズ帝国を、《終末を招く者》を裏切ることは、〝妹〟をこの手で殺すことと同義。
わたしにとって、〝妹〟の存在そのものが生きる理由そのもの。
たとえヨハンのためといえど、〝妹〟を死に追いやるような真似は絶対にできない。
しかしそれは、ヨハンにも言えることで……。
「……覚悟を、決めるしかなさそうですね」
あえて口に出したそれは、ヨハンを殺す覚悟ではなかった。
ヨハンも〝妹〟も死なせない覚悟だった。
その日一日、クオンは考えて考えて考え抜いた結果、ヨハンの命以外は救えないという残酷な結論に至り、そうとわかってなお実行に移すことを決意した。
ただヨハンに生きていてほしい――その想いだけを、楔のように胸の奥に奥に打ち込んで……。





