プロローグ
大手警備会社『S/F』の最高執行責任者を父親に持ち――若くしてすでに「後継者」として人生を決められていた城瀬透也。まだ大学生だった彼は、父親の思惑で「自分の利益と城瀬家の肩書きしか見ていない女たち」ばかりを連日相手にさせられていた。
今日は邸宅にプライベート・ケータリングを呼んで立食形式の集まりだったが、透也は心底うんざりしていた。
父――城瀬和馬が声をかける。
「透也、今日は私の友人の娘が来ている。向こうのテラスにいる白いドレスの子だ」
「……別に、子どもの相手がしたいわけじゃない」
透也はジャケットの釦を外し、椅子へ深く座り込んだ。
「先ほども言ったが、――“大事な友人”の令嬢だ」
ここでまた別の女の相手をするよりはマシか、と透也はしぶしぶ立ち上がった。
「……少し、風にあたってくる」
父親の含みを持たせた「友人」という言葉の響きに、小さく息を吐く。どうせまた父の人脈の一つだ。透也は喧騒の続くホールを後にした。
選び抜かれた芳醇なワインの香り。そして、計算高い香水の残り香──。そのすべてが、今の透也には酷く鼻について不快だった。
重いガラス扉を押し開け、夜風が吹き抜けるテラスへと足を踏み入れる。
夜の帳が下りかけた静かな空間の端。いくつも並んだテラコッタの器に美しく咲き誇る、色とりどりの小さな花々を楽しそうに眺めている少女がいた。父親の言う通り、まだ小さな「子ども」だった。背中に大きなリボンをあしらった白いシルクタフタのドレスを揺らし、こちらの気配に気づいて振り返る。
ただ純粋な驚きを湛えて自分を見返す瞳。そこには、値踏みも、媚びも、計算もなかった。
透也は、一瞬言葉を失った。
そんな彼に、少女――紗奈は微笑む。
「こんにちは。早川紗奈と言います」
スカートの裾をもって丁寧なお辞儀をする。きっと、そう教えられて大切に育てられてきたのだろう。
「透也だ。……ここで何をしている」
とりあえず、自分が怪しい人間ではないことを示すための言葉だった。
けれど、どこかそれが気に入らなくて、苗字は口にしなかった。
少女は小さく首を傾ける。
「とうや……さん」
小さな声が、自分の名前の形を確かめるように歪む。
透也は一瞬だけ目を細めると、彼女と同じ高さになるようにしゃがみ込んだ。
その瞬間だった。
紗奈が小さな手を透也の首にまわし、ぎゅっと抱きついてきたのは。
彼女から野に咲く花の香りがした。
柔らかく、無防備で、圧倒的に純粋な香り。
「王子様を待っていたの」
透也は、軽い眩暈を覚えた――
青年が、九歳の少女を錨にすることを決めた夜。
それが、すべての始まりだった。
この幸福そうに笑う少女の家が、もう元には戻らない形になること。
十二歳になった彼女を、透也が自らの箱庭の奥へと隠すこと。
そして十八歳になった紗奈が、かつてとは違う重さで、その名を呼ぶことになる未来を――
まだ、誰もその形を知らない。




