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乙女の戦い

 コンスタンスが寄宿舎の大部屋に戻ると、シモーヌが駆け寄ってきた。


「ああ、コンスタンス、良かった、心配したのよ!」


 両手を取って涙ぐむシモーヌに、コンスタンスは驚いて目をぱちくりさせた。


「はっ、こいつがこっそり逃げ出すようなタマかよ」

「ミレイユ!」


 慌てて振り返ったシモーヌが、ミレーユを睨みつける。

 それには構わず、ミレイユはコンスタンスの腕を取った。


「ちょっとこっち来なよ」

「何? ミレイユ」

「いいから」


 大して親しくもないミレイユに意味ありげに微笑まれ、コンスタンスは不審に思いながらも彼女について廊下に出た。


 左右を見回し、人がいないことを確かめると、ミレイユはスカートを大胆にまくり上げ、腿の間から三冊の帳面を取り出した。


「帳簿って、これだろ?」


 コンスタンスは大きく口をあけ、両手でそれをおおう。


「ミレイユ! あなた!」

「こんなのちょろまかすなんて、朝飯前さ」


 コンスタンスの手に帳面を投げ渡すと、ミレイユは笑って言った。


「あたしだって、薬代とかいってしょっちゅう給金差し引かれて腹立ってんだ。上手いことやっとくれ」


「あ、ありがとう、ミレイユ」


 帳面を両手で胸に抱きしめ、コンスタンスはミレイユを感謝を込めて見つめた。恥ずかしげに鼻の下を指でこすると、肩をすくめてミレイユは大部屋に帰った。


 その日から、コンスタンスは仕事が終わると帳面を読み続けた。消灯後もベッドの下に潜り込み、蝋燭をつかって、ひたすらに読み続けた。


 工場長が帳面が無くなったことに気づき騒ぎ出すまでどれだけかかるか。一週間か、それとも明日か。時間との競争だった。


 蝋燭の揺れる火を頼りに、帳面の一行一行を指で押さえて読み続ける。シモーヌの名前があるところを、別の紙に書き写す。


 ――ねえ、ジャン=リュック、あなたの言った通りです。


 数ヶ月の薬代を並べてみれば、不当に給金を差し引かれているのは明らかだった。ジャン=リュックが世間にそんなことがあると教えてくれなければコンスタンスは知りもしないことだった。彼にもっと色々と教えてほしかった。


 正義感と怒りに燃えて情熱的に部屋を歩き回って話し続けるジャン=リュックが目に浮かんだ。


 ――会いたい。


 自ら別れを告げた婚約者になぜそんな勝手なことを思うのだろう。目に滲む涙をこすって、コンスタンスは帳面を読み続けた。




***




 帳面を手に入れて四日目の終業後、女工たちは工場長ブノワ氏に呼び集められた。表彰の日でもないのに呼ばれたことに女工たちは不安を隠せない。


 見るからに不機嫌なブノワ氏は、両手を後ろに組むと、女工たちの前を行ったり来たり歩きながら、一人一人をねめつけた。


「とんでもないことが起こった。ありうべからざる不祥事だ」


 怒りに震える工場長に、女工たちは顔を伏せ身を寄せ合った。


「事務所から帳面が無くなった。どこを探しても出てこない。きれいさっぱり消え失せた。なぜかわかるか? ああ?」


 答えるものは誰もいなかった。


「盗んだ奴がいる! ここの誰かだ!」


 その怒鳴り声に、女工たちは怯えて肩を震わせた。

 太った体を揺らしながら、ブノワ氏はコンスタンスの前に立った。顔を近づけ、ぎょろりと睨む。


「コンスタンス、お前だろう」


 吐く息さえ届くブノワ氏の顔には目も向けず、スカートのポケットから、折りたたんだ紙を取り出し、真っすぐに前を見たままコンスタンスは言い放った。


「ここにこの一年のシモーヌの医療費の一覧があります。そしてこちらが私の一ヶ月の医療費です」


 高々と掲げた紙にはびっしりと数字が書かれていた。

 女工たちは息をのんでコンスタンスを見つめる。


「合計すると、シモーヌの医療費は私のわずかに二倍です。期間は十二倍であるにも関わらず。このような安い値段の薬、多く使おうが、少し使おうが大して金額は変わらないのです」


 女工たちが一斉に騒ぎ出す。


「えっ、私の薬代はどうなっているの?」

「取られすぎじゃないの?」


 ブノワ氏はそのざわめきをかき消すように大声で叫んだ。


「盗人の言うことはきかんぞ!」


 女工一人一人を脅すように睨みつけ指をさす。


「お前ら、仕事を失いたいのか! 前金をもらった奴は全部借金なんだぞ! 借金のカタに売り飛ばされたいか!」


 顔を青くして女工たちは震えた。

 その人垣の奥から、ふてぶてしい声があがった。


「くだらねえ」


 ミレイユが女工たちをかき分けて前にでると、同僚たちを見渡した。


「辞めりゃいいじゃないか。ほら、製糸工場なんていくらでもあるし、どこいったって人手不足だよ」


 ブノワ氏を振り返ると、いかにも汚いものを見るようにしてミレイユは言い捨てた。


「大して金払いも良くない工場で偉そうにすんなよ」


 それを引き金に、女工たちが一斉に声を上げた。


「そうよ! そうよ!」

「私のお薬代も返してください!」

「お給金が低すぎます!」


 頭を掻きむしると、ブノワ氏は地団駄を踏んだ。


「うるさい! うるさい! 帳簿を盗みやがって! 警察を呼んでやる! お前ら、留置場送りだ!」


 若い娘たちは警察という言葉に衝撃を受けて、すくみ上った。


「け、警察」

「どうしよう」


「ちっ、また留置場かよ」


 癖の強い黒髪をかきあげ、ミレイユがそうぼやくと、コンスタンスが彼女を見て強く言った。


「ミレイユ、あなただけを行かせません」


「コンスタンス!」


 シモーヌが驚いて口を押さえて叫ぶ。


「何言ってんだ、お前」


 ミレイユが呆れたようにコンスタンスを見た。


「警察だぞ! 警察だ!」


 そう叫ぶブノワ氏の後ろ、事務所に通じる扉が勢い良く開いた。 


「そこまでだ!」


 上等な仕立のスーツを着た若い紳士が現れた。

 その後ろには、書類を持ち眼鏡をかけた数人の男がいる。


 コンスタンスは目を見開いた。


「ジャン=リュック?」


 紳士はコンスタンスにちらりと視線を送ると、ブノワ氏の正面に立った。


「この工場は私が買い取った。ムシュー・ブノワ、工場の所有者として命ずる。君を工場長から解任する!」


「えっ、そんな、なぜですか!」


 ブノワ氏の抗議に目もくれず、紳士は女工たちを見渡して微笑んだ。


「私が新しい工場の所有者、ジャン=リュック・アズラです。女工の皆さんの医療費は、すべて洗いなおして、皆にきちんと給金を払いましょう」


 女工たちから大きな歓声が上がった。

 手を叩き、抱きあって若い娘たちが喜びを分かち合う。

 

 それを見て笑みをこぼすと、ジャン=リュックは後ろの男たちを振り返った。


「後の手続きは頼むよ」

「承知いたしました。ムシュー・アズラ。ムシュー・ブノワ、こちらに」


 ブノワ氏が男たちに連れられて消えると、ジャン=リュックはゆっくりとコンスタンスに近づいた。正面にたち、真っすぐに彼女を見つめる。


「コンスタンス。あの雨の日、僕は君のために何もできなかった。本当に悪かった。どれほど悔やんでも悔やみきれない。遅すぎるかもしれないけれど、今、僕は君の力になることができただろうか」


 ジャン=リュックを見るコンスタンスの目から涙がこぼれた。彼女は笑った。


「ありがとう、ジャン=リュック。本当にありがとう。どれほど感謝しても感謝しきれません。あなたは、私と私の友人たちを助けてくださいました」


 振り返ってコンスタンスは、シモーヌとミレイユを見た。二人ともぽかんと口をあけてコンスタンスを見ていた。


 コンスタンスの肩に手を置き、ジャン=リュックが小さく聞いた。


「ねえ、コンスタンス、その、僕にね、工場の経営ができると思うかい?」


 驚いて見上げると、黒い瞳が不安に揺れている。

 コンスタンスは笑った。


「もちろんです! ジャン=リュック、あなたは素晴らしい経営者になれると私は信じています!」

 

 コンスタンスはジャン=リュックの手を両手で強く握って振った。

 つられるようにジャン=リュックも笑った。

 そして、懐に手を入れると、コンスタンスの前で片膝をつく。


 コンスタンスは息をのみ、両手で口をおおった。

 悪戯めいた黒い瞳が、コンスタンスの青い瞳を見上げる。その手には光輝く指輪があった。


「マドモアゼル・コンスタンス。僕と結婚してください」


 コンスタンスの震える手を、ジャン=リュックがそっと掴む。かすかに首を振り、コンスタンスは震える声で答えた。


「はい、お受けいたします。ムシュー」


 呆気に取られて見守っていた女工たちが一斉に黄色い声を張り上げ、飛び跳ねる。あまりの騒音にジャン=リュックが目を見開いて怯えたように周りを見回した。


 笑ってコンスタンスが振り返ると、泣きながら笑っているシモーヌが体ごとぶつかってきた。二人は固く抱き合った。

 女工たちの歓声とミレイユの指笛が音高く工場に響いた。




最後までお読みいただきありがとうございました。今回初めて恋愛ジャンルに挑戦しました。よろしければ皆さまの評価を教えてください。

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― 新着の感想 ―
[一言] ジャン=リュック工場主になっちゃったよ!(笑) コンスタンスの事本当に好きだったんだねー。 面白かったです!
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