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溺れる魚  作者: まめご
2/2

「なにそれ、ノロケ? 新婚三年目のノロケですか?」

同僚の川崎はアルコールで充血した目を敵意丸出しで雄二に向けて、噛みつくように言った。

「いや、そうじゃなくて」

雄二の声にも聞く耳もたず、その隣の藤本に凭れかかる。

「ふじもっちゃーん、こいつむかつくー。叩いていいー?」

「重い」

川崎の巨体を押しのけて、眼鏡をかけなおした藤本が雄二を見つめた。

「なあ、お前それまじで言ってんの? 贅沢じゃね?」

「そうだそうだ。秘書課のアイドルかっさらって独占しやがって」

 都築美和子は入社前から評判だった。今度の秘書課の新人、ものすごい美人がいるんだってよ――。川崎などは好んでこの話題を口にし、用もないのに秘書課の前をうろついて課長に怒られたりしていた。雄二も一度だけちらりと見かけたことがある。同僚なのか先輩なのか、見目麗しい集団の中でも、一際異彩を放っていた。美和子の周りだけ、特別な光り輝く粒子が飛んでいるようだった。そんな女を仮にも一流企業に勤めている男たちが放っているはずがない。エリートを自負する彼らが、あの手この手で美和子に猛烈にアプローチをかけている噂は雄二も聞いていた。所詮は「もぐら」所属の自分には縁のない世界だと納得がいくような、かけ離れた世界だった。

 ある日の社員食堂での偶然だった。コーヒーの紙コップを持った雄二と美和子がぶつかり、その白いブラウスにコーヒーが飛び散った。完全に雄二の不注意だった。平身低頭で謝りまくり土下座せんばかりの雄二に始め美和子はあっけにとられていたが、あまりにもうろたえ方がおかしかったのか、その内クスクスと笑い始めた。

「もう、顔を上げて下さい。大丈夫です、ロッカーに着替えを置いているので、お気になさらないで」

 後日、美和子は雄二の部署を訪れ、押し付けたままになっていたハンカチを返しに来た。

「せめてクリーニング代は払わせて下さい」

丁寧にアイロンのかけられたそれを握りしめて、雄二がそう言うと、美和子は可愛らしく首を傾げた。

「でも、本当にそんな大したものでもないですし……あ、その代わりと言っては無いんですが、どこかご飯でも食べに行きませんか?」

 ドコカゴハンデモタベニイキマセンカ。理解するまでに、たっぷり五秒はかかった。

「あの、大丈夫ですか?」

 それからほどなくして二人は付き合い始めた。会社設立以来の美女と噂される美和子と自分が釣り合うなどと思ってはいなかったが、引く手あまたの中から選ばれたという優越感に浸れた。

「なんでおれなの?」

 直接的な雄二の問いに美和子は微笑んで答える。

「雄二さんだったから」

 あなただけは特別だから。案にそう言われて雄二は有頂天になった。きっと王子様に見染められた平凡な女の子もこんな気持ちになっただろう。幸福の渦に巻き込まれたまま結婚し、双方の親が頭金を出して郊外に家を持った。ふと気が付くと、雄二は虚しさの荒野に立っている。

「いーよなー」

 不貞腐れたような川崎の声に、現実に戻った。居酒屋のざわめきがやけに大きく感じる。

「うちのかみさんと交換してほしいよ。あいつ、結婚して半年で十キロ太ったんだぜ……今やトドだよ、トド。波打ち際でオウオウ手を叩いているアレそっくりだよ。って言ったらお前はブタそのものだって言われて頭来て大ゲンカになった」

川崎がジョッキを片手に項垂れれば、藤本も遠い目をする。

「トドなんてかわいいじゃないか。うちは飯が不味いんだよ。この間なんて、『ヘルシーでしょ(ハート)』なんか言って、豆腐とキャベツオンリーのお好み焼き食わせられた。お好み焼きなんて肉系がなきゃまずいのに、頼むから思い付きで一人暮らしの大学生の男料理みたいなものつくるのはやめてほしい、と申し出たら、翌日の弁当にから揚げ二つしか入ってなかった。あれだよな。日本の景気より奥さんの機嫌だよな」

「分かる。おれだって大変なんだよ」

雄二も負けじと割り込む。

「基本的にテレビ禁止だし、晩飯の時も話きいてやらなきゃ不機嫌になるし」

「はあー? それ普通にかわいいじゃん」

「なに、そんなことで大変とかいってんの? あーもう爆発しろよお前―」

「いや、だから」

 結局、堂々巡りになりそのまま解散となった。帰りの電車の中で、大学時代に過ごしていた四畳半の下宿を思い出す。猥雑で、混沌としていて、すべてが自分の支配下だった。小さな部屋の王さまだった。今はただ息苦しい。 

いつもの坂道の途中の潰れた熱帯魚ショップの金魚は、瀕死だった。ゆっくり沈んでは思い出したように水面から顔を出し、息をする。目はうつろで、すでに死を受け入れていた。

まるで溺れる魚のようだ。

 焦点の合わない目でそれを眺めていた雄二は、一度手を上げたが思い直したようにまた下げた。そして踵を返した。

十二時を回っても美和子は起きて待っていた。

「お茶漬けでも食べる?」

 かいがいしく身の周りの世話を焼かれて雄二は苦笑する。有り難さや嬉しさなど全く感じず、ざらざらとした灰色の哀しさしか覚えない自分に苦笑する。

友人の披露宴がある、と美和子が言った。新幹線で一時間ほどかかる美和子の地元のその友人はあわただしく式を上げる必要があったそうで、三ヶ月先だという。

「それがね、どうしてもその時間帯しか取れなかったみたいで……、披露宴は三時スタートなのよ」

「行けばいいじゃないか」

久しぶりに実家に帰ってゆっくりすればいい、お義父さんもお義母さんも喜ぶだろう、と言葉も添えて雄二は笑顔を作った。この心の喝采がばれそうになるのを苦心させて。

「でも……悪いわ」

当日まで美和子は渋っていたが、結局は「戸締りはしっかりしてね、鍵をちゃんとかけて、知らない人が来ても開けちゃだめよ?」と子供に諭すように言い含めて、出ていった。

がちゃりと鍵を締めた瞬間、雄二は呟いた。

「自由だ」

 これから2日間、何をやってもいい。自由だ。ああ、三ヶ月間、どれだけこの瞬間を夢見たことか。

 まず、テレビを付けた。かしましいお笑い芸人が騒いで、観客がわっと笑う。それだけで空気が色を付けたように明るくなった。ピザを頼んだ。添加物がふんだんに乗っている、一番体に悪そうな奴だ。ビールを開け、コップに移さずに立ったままグビリとやる。あまりにもみみちい幸せに一人台所で笑った。今日は一日、無為な時間を楽しむのだ。牽制する存在はいない、心なしか普段は冷たい家の雰囲気も和らいでいる。クッションを折ってまくら代わりにし、ひっくり返ってビールを口に運ぶ。飽きるとコンビニに向かい、欲しいものを片っ端から籠に放りこんだ。週刊誌もエロ本もペーパバックのマンガも、つまみも菓子もアイスも、かわきものも酒もあれもこれも。膨らんだレジ袋を両手に抱えて帰宅すると、リビングにすべてぶちまけた。どれから手をつけようか迷う子供のように、しばらくウロウロと目を動かして、まずはアイスに手を伸ばす。咥えたままマンガを開いてごろりと寝そべる。

 夜十時を過ぎて、リビングでひっくり返ったままうとうとしていた時だった。玄関先で物音が聞こえ、何事かと振り返った雄二はそのまま凍りついた。

「心配で帰ってきちゃった」

 一泊分の荷物を詰め込んだ旅行鞄を片手に美和子は目を丸くして、リビングの惨事を見渡す。テーブルの上に放置されたピザの残骸。片隅に積まれたマンガのタワー。横には妙齢のお姉さんが切ない顔で御開帳ポーズを決めている表紙のエロ本。寝室から持ち込んだタオルケットが丸まって、袋からこぼれたポップコーンが転がっている。そしてテレビから聞こえる絶え間ない雑音。その時、自分はどれほど間抜けな顔をしていただろうか。

美和子はゆっくりと微笑んで雄二を見た。まるでペットの悪戯現場を発見した飼い主のような、仕方がないわねぇ、というような顔だった。

「もう、わたしがいないとだめなんだから」

 カチリ、と頭のどこかで音がした。



 金魚は死んでいた。虚ろになった眼球も解体される寸前で、小さな体はただの物体に成り下がっていた。

「おれは死んでいない」

 いつものように足を止め、哀れな残骸を眺めながら雄二は自分に言い聞かせる為に呟く。

二人の日常は相変わらず過ぎてゆく。美和子は家の中を完璧に整えて、雄二の帰りを待っている。帰れば夫婦ごっこが始まる。お互いに本心を出さずに、演技をするように相手に合わせて会話を変えてゆく。口に出せなかった不満は心の底に澱のように溜まっていっている。川崎や藤本みたいに本音を言ってそれで二人の仲が深まるのならいい。だが、そうならない確信が雄二にはあった。気が付いていたが、気が付かないふりをしていた。

 美和子の中に雄二はいない。いるのはただ夫という存在である。

 幸せのテンプレートが必ずしも幸せだとは限らない。過程だけを辿っても、心は遠く離れたままで、ちっとも歩みよらない。

 こんなはずじゃなかった。三年前、たしかに自分は美和子を愛し、一生守り抜くと誓った。永遠は永遠のまま続くと思っていたのに。幸福なお伽話の結末のように、いつまでも仲良く過ごせるはずだったのに。

 それでも争って険悪な雰囲気になるよりはいい、違和感に我慢さえすればそれでいい、と思っていた雄二の小さなプライドを、美和子は踏みにじった。

――もう、わたしがいないとだめなんだから。

 何たる高慢、何たる思い違い。あの瞬間、爆発しそうになった感情は今や醜くとぐろを巻いて体中を駆け巡る。醗酵して腐敗して、やがて狂気を連れてくる。

 ずっしりとした黒いビジネスバッグを持ち上げて、上から触って中に入っている「もの」を確認する。美和子さえ消えれば雄二の世界は正常に回るはずだ。このままでは崩壊してしまう。

 携帯のフラップを開けて、耳に押し当てる。コールが二つなった後、美和子の声がする。

「おれ。今から帰るよ」

 思考はうまく働かないのに、声は普段のように出る。フラップを閉じた後、ゆっくりと歩き出した。足は重い。だが僅かに浮足立っているのが自分でも分かる。

 浮かんでいる金魚の目は白濁して何も映していない。同じ目をして雄二は家路をたどる。




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