第1話「神様に目をつけられた女の子と、陰陽師くんの最悪な出会い」
春の終わり、四月の半ば。
社殿の古びた縁側に腰をおろして、私はぽけっとおにぎりをかじっていた。
神社の境内はひっそりと静まり返っている。参拝客もおらず、砂利を踏む音も聞こえない。
梅の木が風にゆれて、白い花びらの残骸がふわりと舞い上がったかと思えば、すぐに消えた。空は澄んでいて、少し高い。午後の日差しがうすいオレンジ色に滲んで、古い石畳に落ちていた。
そこに、ふわっと現れたのだ。
ちいさな光の玉が。
「りんこ、りんこ」
声がする。やわらかくて、綿飴みたいな声だ。
光の玉がふわふわと近寄ってきて、私の頬のあたりをぐるぐる回り始めた。
「なに、福ちゃん」
私はおにぎりの残りを口に入れながら答えた。
この光の玉の正体は、この神社に何十年も住み着いている小さな神様だ。人間に見える姿は持っていないけれど、たまにこうして光の玉になって私に話しかけてくる。
名前は自分ではないと言っているが、私は勝手に「福ちゃん」と呼んでいた。
初めて話しかけられたのは、三歳のころだったと思う。あの頃から私は「神様が見える子」だった。
「なんか変なものが来てるよー」
福ちゃんは言った。
「変なもの?」
「うん。あの学校のほうから」
福ちゃんがぷかぷかと浮かびながら指し示す——指はないけれど、なんとなく方向がわかる——のは、神社の鳥居越しに見える、緑色の屋根の建物。
私が通う花之宮学園だった。
私は顔をしかめた。
「変なもの、って?」
「うーん、わかんない。でも、りんこが気をつけたほうがいい感じがする」
…………。
気をつけたほうがいい、って、具体的に何をどうすれば。
十七年間、神様方と付き合ってきた経験から言わせてもらうと、神様というのは基本的にふわっとしたことしか言わない。
「そっちに行っちゃダメ」とか、「もうすぐいいことがある」とか、そういう系のアドバイスが大半で、詳細を聞いても「わかんない」か「りんこならなんとかなるよ」しか返ってこない。
なんとかなるかどうかは私が一番わからないんですが。
「わかった、気をつける」
私は言って、鞄を持って立ち上がった。
「もうそろそろ学校に戻らないといけないから」
「うん、いってらっしゃい」
光の玉が縁側の欄干にとまって、ぴかぴかと光った。なんとなく手を振っているみたいだった。
私は小さく手を振り返して、神社をあとにした。
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「花宮さん、遅刻ギリギリだよ?」
教室に飛び込んだ私に、席の近い友人——宇野奈々が呆れた顔で振り返った。
「ごめんごめん、ちょっと長くなっちゃって」
「神社?」
「神社」
奈々はため息をついた。
この子は私が昼休みに近所の神社でぼーっとしていることを知っている。理由は「落ち着くから」と説明してある。
神様に話しかけられているからとは言っていない。
そんなこと言ったら確実に引かれる。
「あのさあ、今日さ」
奈々が声を落とした。
「転校生が来るんだって」
「へえ、二年の途中に?」
「しかも噂だと、めちゃくちゃかっこいいらしいよ」
奈々の目がきらきらしている。
私は曖昧に笑いながら席についた。
転校生。二年の途中に。
それが「変なもの」と関係するとは、この時点では思っていなかった。
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六時間目の古典の授業が始まって、担任の田中先生が教室に入ってきた。
その後ろに、一人の男子生徒がついてくる。
奈々の言っていた通り、と私は内心思った。
黒髪。背が高い。制服の着こなしが妙に整っている。表情はなく、黒い瞳は静かに、何もないところを見ているようだった。
美形というより、精巧に作られた人形みたいな顔だ。
「鷹司澄くんです。よろしくお願いします」
先生が言った。
「……よろしくお願いします」
声も静かだった。感情がなさそうで、でも聞き取りやすい声。
鷹司くんは教室全体を一度だけ見回した。
そして——私のほうで、視線が止まった。
え。
なんか、すごく……見られてる。
冷たい視線なのに、やけに鋭くて、まるで品定めでもするみたいに、私だけをじっと見ている。
三秒。五秒。
私は何故か目を逸らせなかった。
「鷹司くんは、花宮さんの隣の席が空いていますから、そこに座ってください」
先生が言った。
鷹司くんはゆっくりと視線を外して、まっすぐ私の隣の席まで歩いてきた。
椅子を引いて座る。
横顔が近い。
「……なんだ、お前」
えっ。
ぼそっと、本当にぼそっと言われたその言葉に、私は固まった。
聞こえていたのは私だけのはずだった。奈々は先生の方を向いている。
私を見ることなく、鷹司くんは教科書を机の上に置いた。
「いや、なんでもない」
何が「なんでもない」なんだ。
明らかに私に向けて言ったじゃないか。
私は混乱しながら、とりあえず前を向いた。
……あの人。
さっき、すれ違う瞬間に感じた。
彼の周りには薄く、でも確実に「霊的なもの」の気配がある。陰陽師か、それに近い何かの家の出身だろう。
私はそういうのを感じ取るのが得意だった——神様と話せる体質のせいで。
鷹司くんの霊力は、私がこれまで感じた中でも相当強い部類に入る。まだ十七歳なのに、それだけのものを持っているのはちょっとすごいと思った。
(陰陽師くん、かっこいいな)
と、職業的な意味でそう思った。
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放課後のことだった。
私は図書委員の仕事があって、他のクラスメイトが帰った後も教室に残って本の整理をしていた。
奈々は先に帰っている。
図書室に向かおうとして廊下に出た、その瞬間だった。
空気が変わった。
重たい、ざらざらとした感触が皮膚に張り付くような——霊的な「よどみ」だ。
私は十七年で、それを嗅ぎ分けることを覚えた。
廊下の奥、旧校舎への渡り廊下に続く扉の向こうから、何かが来ていた。
(……でかい)
本能的にそう思った。
大きな獣のような輪郭をしていて、真っ黒で、人間の悪意みたいなものが凝り固まったような存在だ。
まだ扉の向こうにいるが、このままでは廊下に出てくる。
私はどうしようかと考えた。
一秒だけ考えた。
「……仕方ない」
深呼吸をして、右手を軽く持ち上げた。
特に技術があるわけじゃない。呪文もない。
ただ——なんというか、「帰りなさい」という気持ちをぎゅっと込めて、存在に向かって手をかざした。
光が出た。
私の手のひらから、あたたかくてやわらかい光が広がって、廊下いっぱいに満ちた。
ざわざわとした気配が一瞬びりっと揺れて——次の瞬間、嘘みたいに消えた。
静かになった廊下。
私はほっと息をついた。
「……なんだったんだろ」
「……………」
背後から視線を感じた。
振り返る。
鷹司澄が、教室の扉のそばに立っていた。
いつからいたのかわからない。
手に白い符が一枚握られている。青白い顔が、私を見ている。
「お前」
と彼は言った。
今度は「なんだ」ではなく。
「何者だ」
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困ったな、と私は思った。
これをどう説明すれば、変な人だと思われずに済むだろう。
……いや、もうとっくに変な人だと思われているか。
手のひらから光を出した女子高生が「普通です」なんて言えるはずがない。
鷹司くんは一歩、二歩と歩み寄ってくる。
瞳が細い。
その目の奥に、警戒と、それから——ほんの少しだけ、怖れに似たものが混じっているように見えた。
「お前から神気がする」
彼は静かに言った。
「人間が出せる波動じゃない。何をしていた」
「えっと」
私は正直に答えることにした。
「あそこに変なのがいたので、帰ってもらいました」
「……帰ってもらった」
「はい」
鷹司くんはしばらく私を見た。
「……お前、陰陽師か」
「違います。普通の女子高生です」
「光を出しておいて普通を名乗るな」
それはそうなんですが。
私が困っていると、廊下の窓からするっと何かが入ってきた。
ぴかぴかと光る小さな玉——福ちゃんじゃないけれど、似たような小さな神様だ。
この学校の近くに住んでいるらしく、たまに廊下でばったり会う。
名前は知らないので、私は心の中で「廊下さん」と呼んでいる。
その光の玉が、鷹司くんの周りをくるくると回り始めた。
鷹司くんが、見えていないはずなのに、なんとなく眉を動かして、かすかに後ずさった。
……見えてる?
見えてるのか。
やっぱりこの人、すごいな。
「なんで神様がいるんだ」
彼は低く言った。
「慕われてるらしいです、私」
沈黙。
「……ありえない」
鷹司くんは言った。
その声に初めて、少しだけ感情らしきものが混じった。それが怒りなのか、困惑なのか、私にはまだわからなかった。
「なんで十七年もこんなものを野放しにしていた」
野放しにしていた、って。
……なんか聞き捨てならない言い方だな。
でも私が何か言うより早く、彼の手が動いた。
白い符が、ひらりと私に向かって飛んだ。
「——ちょっと待って!?」
符は、光の中に溶けていった。
私の光の中に。
私の手のひらから無意識に出た光が、符を音もなく溶かした。
鷹司くんが固まった。
私も固まった。
二人でしばらく、互いを見つめ合った。
「……」
「……私も、驚いてるんですが」
鷹司くんが深呼吸をした。
長い沈黙のあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「今夜、俺の上司に話を通す。明日、改めて話をしろ」
「……はあ」
「お前が敵じゃないなら、の話だが」
それ、今もまだ敵かもしれないと思われているってことですよね。
廊下に夕陽が差し込んでいた。
西の窓から差し込む光が、鷹司くんの輪郭をぼんやりと縁取っている。
私の横を、「廊下さん」がぴかぴかと泳いでいく。
隣の席の陰陽師くんは、まだ私を値踏みするような目で見ていた。
きれいな目だな、と思った。
怖いけど、きれいだ。
「名前は」
と彼が言った。
「花宮凛です」
鷹司くんはそれだけ聞いて、くるりと背を向けた。
廊下を歩いていく。
その背中は、夕陽の中でどこか遠いものに見えた。
「鷹司くん」
気づいたら声をかけていた。
彼が振り返る。
「今日、学校で変なのが出たのは——もしかして、あなたが来たから?」
一瞬だけ、鷹司くんの表情が動いた。
ほんとうに一瞬で、次の瞬間にはもとの無表情に戻っていたけれど。
「……関係ない」
そう言って、今度こそ歩き去っていった。
嘘だな、と思った。
これが、花宮凛と鷹司澄の——最悪な出会いだった。
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その夜、布団の中で天井を見つめながら、私はこれからのことを考えた。
陰陽師の家の人間が学校に来た。異形が現れた。
鷹司くんは私を「敵かもしれない」と思っている。
面倒なことになったな、とは思う。
でも正直なところ——十七年間で初めて、「神様が見える」以外のことで自分に関わろうとしている人間に会った気がして、それがなんだか少しだけ、ほっとするような不思議な感じだった。
変なの、と自分で自分に突っ込んでおく。
隣の部屋で祖母がテレビを見ている音がする。
私は目を閉じた。
明日、どんな顔で話しかければいいんだろう。
鷹司澄は、きっとまだ私を疑っている。
それでも——あの目のきれいな陰陽師くんが、どんな人間なのか、ちょっとだけ気になっていた。




