一つの手掛かり
陽が落ちて暗くなったことと、しっかり髪色を隠したこともあってか、事務所へ戻るまでに誰かに襲われる、といった問題は起きなかった。
だが、精神的には誰もが疲れている。
特にクコは、口にはしなくても相当参っているのがシダルゼアにはわかった。
「まさか警衛まで巻き込むとはな」
数々の噂を流した者と、警衛にタレコミした者は同じと考えていいだろう。どちらもクコを陥れようとしている点で、それは明らかだ。
「ここまでされれば、もう放置はできないね。明らかと言うより、あからさまな悪意だよ」
いつもは穏やかな表情のラセットが眼鏡を外し、眉間にしわを寄せている。
「あたし、そんなに悪いことしたのかな」
警衛でシダルゼアと再会した時は明るい表情だったクコも、今はすっかりしょげている。ラセットが淹れてくれた香りのいい緑茶を前にしても、手つかずのままだ。
ちなみに、このお茶はいただきもので、本日開封されたばかりのもの。
「気にするな、と言ってもこれじゃあな。とにかく、噂をたどって出所を探す」
警衛にタレコミした者は、匿名だった。それはよくある話だが、虚偽の情報で警衛まで巻き込むなど、何を考えているのだろう。
「シダル、昨夜クコに会ってから戻って来る間に、おかしなことはなかったのかい?」
「あればもっと注意してるっての。あの時間帯でも通りをうろつく奴なんて、昼間程でなくたっていくらでもいるからな。夜行性の奴もいるし、こっちを見られたっていちいち気にしない」
明確な悪意を持って見られていれば、シダルゼアだってもう少し異変に気付いたはず。だが、そんな視線は感じなかった。
「だいたい、五十年前の別次元から来た子が、数時間しか経たないうちに目を付けられるってことがあるか?」
「どういう場所から来たにしろ、普通はないよ。相手の事情や意図はわからないけれど、取っ捕まえて聞くしかないね」
穏やかそうに見えて、ラセットもかなり頭にきているようだ。
「取っ捕まえるって、そんな簡単にできないでしょ」
「んー、まだ手掛かりは一つしかないから、すぐって訳にはいかないけれど」
「ラセット、何か掴んだのか」
自分達が警衛に行っている間に見付けたのか、とシダルゼアが相棒を見る。
「何かって、シダルもクコもずっと話してたじゃないか」
「え? あたしも?」
名前を出され、クコはきょとんとする。そんなふうに言われる程、すごいことを口にした覚えはない。
「クコはモダという鬼人と間違えられた。今回のことで、姿が見えないのはそのモダしかいないじゃないか」
「あ……ああ、そうか。賊のことと、クコが来た場所の話ですっかり追いやってた」
熊の獣人達はクコを自分達の仲間だと思って連れて行ったが、その後で本物の仲間が近くまで来ていたとしたら。
鍵が開いていたということは、先に向かったモダがやったのだろう。それから仲間と合流しようとしたら、クコが連れて行かれているのでモダは置き去り状態。
それだけじゃない。クコにその気がなくても、彼女のせいで屋敷にシダルゼアが現れ、仲間を倒してしまった。遅かれ早かれ獣人達の供述から自分も手配されるし、入るはずだった金品も手元にはない。
間違えたのは仲間でも、こんなことになってしまって怒りの矛先がクコへ向けられることは……ありえる。
「くそ、自分でも名前を出してたのに、完全に抜けてた。最初から答えはあったんだ。クコに似た鬼人の少年モダ。重要参考者だな。ってか、こいつ以外に噂を流す理由はないか。警衛にタレコミしたのも、自分の代わりにクコが捕まってくれればって魂胆だ」
「それについては、仲間が鬼人の『少年』と証言しているし、クコは女の子。少なくとも、今後警衛に捕まることはなくなった訳だよね。男女の違いがあるのにタレコミしたのは、捜査の攪乱のつもりかな。何にしろ、捜査の手がまた自分の方へ伸びることを考えて、何か仕掛けて来ることもあるよ。今のところ、自分が直接手を出そうって気概はないようだけど」
警衛に捕まえさせようとしたり、噂を流して誰かをたきつけようとしたり。
本当に恨みがあるのなら、自分の手で始末しようと考えそうなものだ。面倒なのか、度胸がないのか、そこまでする程に報復する気がないのか。
「クコが一旦見張りをしたことを、警衛は知らない。賊はモダが見張りをしたと思っているけど、あの場にいなかったと聞いて逃げたと思ってるだろうね」
「実際、モダはいなかったんだから、逃げたんだ。本気で仕事をする気なら、遅れてもあの裏口周辺にいるはずだろ。名前と、姿はクコに似てるってわかってる。あの獣人達の周辺を調べれば、警衛より先に居場所はわかるだろ」
熊達がどこまで詳しくモダの容姿を説明しているかは聞いていないが、シダルゼアはその姿をはっきり知っている。警衛よりかなり有利だ。
解決策が出されたようで、クコは目を輝かせる。
「すごい。モダのことがわかれば、あたしはもう平気?」
「いや、まだだ」
シダルゼアの答えに、クコはがっかりする。モダのことがわかってシダルゼア達が何とかしてくれれば、怖い思いをしなくて済む、と思ったのに。
「奴が捕まったとしても、噂は当分生きてる。あれはガセネタだってことがはっきり公表されるまで、しばらくは警戒した方がいい。モダが捕まって、あの噂を奴が流したんだってことがしっかりと……例えば新聞なんかに載れば、おかしな行動を起こす奴もほぼいなくなる」
「ほぼ、なの?」
悪い奴が捕まっているのに解決しないなんて、納得できない。
「新聞なんか読まないって奴もいるからな。そのくせ、こういう金が絡んだりするような噂にはすぐ飛びつくんだ」
新聞やちゃんとした筋の情報を仕入れてくれる者ばかりならいいのだが、怪しい情報ばかりを信じる者が少なからずいる。現時点のように、街にいる面倒な輩全員を警戒するよりはいいが、それでも危険が完全に去る訳ではないのだ。
「……あたし、ここへ来てシダルとラセットに迷惑ばっかりかけてるね」
この世界へ放り出され、同族の方が話しやすいと鬼人のシダルゼアに頼ったが、それがなければこの事務所までも厄介事に巻き込まれたりしなかった。
流れで事務所へ来ることになったとは言え、クコに関わらなければシダルゼアとラセットは平穏な生活のままだったのに。
そう思うと、とても申し訳なく思う。
「ん? どうしてクコがそんなしょぼくれた顔になるんだい?」
「しょぼくれって……」
「でも、しょぼくれてるよ」
「クコは何もしてないだろ。むしろ、犯罪者を捕まえるように仕向けた。まぁ、この点については、全てを警衛に話せてないのが惜しいところだけどな。とにかく、何も悪いことなんかしてないんだ。堂々としてりゃいい」
「……うん、ありがとう」
めまぐるしい、という言葉では足りない程に環境が変わり、身の振り方なんて考える余裕もなかった。そんな中で、彼らと出会えたことはクコにとって最大の幸運だ。
「とにかく、そのままで外へ出るのは危険だから、髪は染めた方がいい。ああ、染め方がわからないよな。後で風呂場で染めてやるから」
「え、お風呂って……服も脱がなきゃいけないの?」
「は? ばっ……そうじゃないっ。染め粉が床に落ちた時にすぐ流せる都合上だ」
頬を赤くしながら戸惑うクコに、図らずもシダルゼアまで焦ってしまった。
そんなやりとりを見て、ラセットはくすくす笑う。
「ラセット、笑うな」
「いやぁ、どっちもかわいいなぁと思って」
「殴るぞ」
「シダルに殴られたら、顔が陥没するからやめてね」
彼らのやりとりを聞いてさっきまでの怖い気持ちが幾分か和らぎ、今度はクコがくすくす笑うのだった。
☆☆☆
次の日の朝早く。
シダルゼアがさっさとモダを取っ捕まえに行く気でいたところへ、事務所の扉が小さくノックされた。
ずいぶん音が小さいな、と思いながらラセットが扉を開けると、彼の目の高さに浮遊している小さな妖精の姿があった。
黄緑色の髪が緩やかにウェーブしながら胸元まで伸び、現れた人間をその大きな緑の瞳で見ている。
外見はクコより幼い感じに思えるが、妖精は見た目に反して長寿だと聞くので実年齢は不詳。背中では、透明の羽が朝日に当たってきらきらと光る。
「おはようございます。こちらで行方不明者を捜してくれる、と聞いたのだけれど」
見た目よりも大人びた口調。聞けないが、やはりそれなりの年齢のようだ。
「ええ、そうです。ご依頼でしたら、中へどうぞ」
ラセットは自分の手のひらにも満たないサイズのクライアントを迎え入れるべく、扉を大きく開けた。
「普段なら、そちらのソファにかけてもらうんですが……」
ソファは人間や鬼人用のサイズだ。
「そうなの? それじゃ」
妖精は気にしてないようで、指し示されたソファの縁にちょこんと座る。背もたれ部分には届くはずもなく、人形を座らせているみたいだ。
現在、このソファはクコのベッドになっているが、今はもちろん起きている。ついたてのそばから初めて見る妖精に興味津々だ。
仕事だということがわかっているから声をかけたりはしないが、目が離せない。
ちなみに、髪は昨夜のうちにシダルゼアに染めてもらい、黒くなっている。
かわいい。本当に羽があるんだ。少し大きめの蝶みたい。本当に小さいんだぁ。
「クコ、お茶と、こちらにはミルクを頼む」
目をきらきらさせているクコに、シダルゼアがお茶くみを任せる。
「は、はい」
モダを捜しに行きたいところだが、外で動き回るのは主にシダルゼア。こうして依頼者がいる時はラセットだけに対応させず、自分も話を聞くようにしている。依頼者の口調や仕草などから、小さな手掛かりを得ることもあるからだ。
一方、お茶くみを頼まれたクコ。
シダルゼアに言われて返事はしたものの、妖精に出す入れ物に頭を悩ませる。依頼が持ち込まれた時に出すカップはいくつか置かれているが、あとはお皿やボウルなどといった日常で使う食器類ばかり。
この事務所に依頼を持ち込むのは、主に人間と鬼人だと聞いた。依頼があれば他の種族でも、たとえば今のように妖精が来ても受けるらしいのだが、これまでに妖精からの依頼はなかったようだ。彼らは魔力が高いので、魔力の低い鬼人に何かを頼む、という観念がないのである。
そんな事情で、妖精用の食器は置かれていない。
あ、これならいけるかな。それでも大きいような気がするけど。
クコが見付けたのは、彼らがたまに晩酌で使う小さなカップだ。
温めた穀物の醸造酒を、これで少しずつ飲む。
初めてこれを見た時にそう聞いたが、こんなものでちびちび飲んでおいしいのかなぁ、と飲めないクコは首を傾げたのだった。しかも、酒を温めるなんて、初めて聞く話だ。
ヒョウロは飲めない方だったので、自宅で晩酌することがなかった。村の鬼人達は、お椀に入れて飲んでいたような気がする。
それはともかく。これ以外にちょうどいい器はなさそうなので、ここにミルクを注いだ。ふたりには、温かいお茶を淹れる。
お茶なんて、一年に一度飲めるか飲めないかだったなぁ。
ヒョウロは自分がどうにか食べてゆければそれでいい、という生活をしていた。それはクコが来てからも基本的には変わらなかったが、ふたり分を何とかしなくてはならない。
クコと出会った時点で高齢だったため、ヒョウロはあまり無理ができず、結果的にかなり貧しい生活を強いられた。
そんな彼らにとって、お茶なんてものは高級品だ。普段は、水か白湯。
ほんの少しだけお裾分けに茶葉をもらって飲んだ時は、こんなおいしいものが世の中にあるのか、と思った。出がらしになって、お湯にほとんど色がつかなくなってもその「お茶」を飲んだものだ。
それが、ここでは何のためらいもなく客に提供される。しかも、無料。
聞いた時のクコの驚きようといったらなかった。価値観の違いや物の豊富さが桁違いだ。
昨夜、警衛から戻って来た時は心身共に疲労感があり、ラセットが出してくれたお茶も眺めているだけ。
しかし、話が少し明るい方へ向かって来ると、今更のようにお茶の存在に気付き、すっかり冷めていたがおいしく飲んだ。村で飲んだものよりおいしい、と感じたくらいだ。
最初に見た時「大きなお皿」と思ったトレイにお茶とミルクが入った器をのせると、クコはシダルゼア達へ運ぶ。これを置く時、妖精をもっと近くで見られると思うと嬉しい。
クコがミルクの器探しに頭を悩ませていた頃、シダルゼアとラセットは妖精の話を聞いていた。
「私はロムレア。普段はこの街を出て東にある森にいるわ。あなた達にお願いしたいのは、仲間の力を奪った者を早急に見付けてもらいたい、ということ」