【第十話】あいだのあいだに(下)
常政律郎は、北梓の要請で、疎遠気味な珠悠と話をするために、彼女が通っている動物園へとやってきた。律郎は固唾を飲んでそのゲートをくぐる。
律郎が動物園に来るのは十年ぶりくらい、一人で来るのは初めてだった。
珠悠は年間パスポートを持っていて、毎週訪れているヘビーユーザーらしい。こんな家族連れやカップルだらけのところにソロで毎週来るなんて、本当に好きなんだな、と律郎は人混みにげっそりしながら思った。
この中から人ひとりを見つけるなんて無茶だろと、律郎は途方に暮れていたが──信じられないほど、あっさりと見つけることができた。
珠悠は、ある小動物のケージの前に佇んでいた。あまりにもじっと佇んでいるものだから、人の流れが彼女を避けるように形成されていたので、すぐに発見できたのだ。
(めちゃめちゃ見てる……アルマジロを)
珠悠は優しい眼差しで、アルマジロがカボチャを食べているのを見ていた。小さくなったそれを、前足の爪を使って頑張って食べようとするが、全然口に入らない。そんな様子に心を奪われているようだった。
珠悠は一時間以上、アルマジロを見ていた。何故、経過時間がわかるのかというと、律郎が一時間も声をかけ損ね続けたからだ。
人の流れに乗って近づき、声をかける勇気が出なくて、ためらっているうちにじりじりと遠ざかる。そんなことを延々と繰り返していた。道中に設置されたアルマジロの生態を読みすぎたせいで、アルマジロの生態に異様に詳しい人になってしまった。
(……というか、よく流山も飽きないな)
アルマジロも心持ち気まずそうにしている。
永遠にこんなことをしていても、しょうがない。律郎は気合を入れて、次こそ、絶対に話しかけると決めた。
人の流れに乗って、少しずつ近づいてくる背中。緊張が高まる。また逃げそうになる、が、ふんばる。
律郎はめちゃくちゃ頑張って、口を開いた。
◇◇◇◇
「流山」
「ひうっ!」
その時、完全に油断しきっていた珠悠は、突然声をかけられて、すごい声を出してしまった。未だにカボチャに悪戦苦闘しているアルマジロのアースくんも、びっくりして丸くなる。
ばっと振り向くと、あろうことか常政律郎がいたものだから、珠悠の頭は一瞬にして大混乱に陥った。
「常政くん⁉ ま、間に合ってるから……!」
なんてわけのわからない言い訳をして──珠悠は逃げだした。
珠悠は脱兎のごとく走って、園外れの公園で力尽きた。ここまで来ると、園内のような賑やかさはない。遠慮なくゼーハーすることができた。
(に、逃げちゃった……)
突然のこととはいえ、最大の悪手だった。次、会う機会があったら、どんな顔をすればいいのか。
というか、何で彼がここにいるんだろう。もしかして、アズが教えた? でも、彼女はそんなお節介を焼くタイプではないはずだ。それじゃあ、偶然──?
「おーい!」
呼び声が聞こえた。反射的に顔を上げて、珠悠は目を瞠る。
律郎が追いついてきたのだ。それも、全然息を切らしていない。軽やかに走る姿は、爽やかにすら見えた。
「あ、う……つ、常政くん……どうして、ここに……」
珠悠は呼吸を落ち着かせながら、観念するように訊ねる。律郎は珠悠の目の前に立つと、落ち着いた様子で言った。
「流山と、話がしたくて……」
「……え、えっと……は、話……って……」
「と、とりあえず、休もうか」
「そ……そうさせて……」
猛ダッシュ後の疲労にかかれば、気まずさもろくに機能しなかった。
ベンチに座って少し休んだら、だいぶ落ち着いた。律郎は近くの自販機でスポドリを買ってきてくれて、むげにするのも悪いのでいそいそとそれを飲む。
「常政くん……体力あるんだね……」
「一応、中学の時、テニス部だったし」
「ええっ! 意外……」
言ってから、失言かとひやっとしたが、「そうでしょ」と律郎は満更でもなさそうに小さく笑った。そういうタイプもいるんだ、と珠悠はまた意外に思う。
「そ、それで、話って……?」
やがて、恐る恐る切り出してみると、律郎は真面目な顔をした。
「ああ、なんか最近、流山が衰……元気ないって聞いて。部室にも顔出さないし……だから、ちょっと、悩み事、あるのかなーって、思ってさ」
「えっ……それでわざわざ……?」
心配して駆けつけてくれたのなら、なんて良い人なんだろう、と珠悠は感動を覚えた。それと同時に、顔を見ただけで、思わず逃げてしまった自分の小ささに腹が立つ。
それでも、してしまったことは変えられない。今は、ちゃんと話をしなくちゃ。珠悠はそう自分を奮い立たせ、ぐっと拳を握り締めて、口を開いた。
「ごめんね……あの、実は、私が──」
と、勇気を出して言い始めた瞬間、律郎が崩れ落ちるように、頭を下げた。
「いや、ごめん、ほんとは全部、北さんから聞いた! 元気出させてくれ、って頼まれて、ここに来たんだ!」
「え、アズが……」
「事情は聞いてる。根も葉もない噂が立つからって、遠慮してくれてたって」
珠悠は静かに目を閉じた。すっと、背筋から血液が抜けていく感じがわかった。
アズ──あなた、ほんとに全部、話してる……。
「だから私がここにいるって、わかったんだね……」
「うん……俺も、ストーカーしてるみたいで、気が進まなかったけど……でも、俺にも責任があるなら、あんまり気にしてほしくないなって思って」
「そんな、常政くんに責任なんて……私が勝手に気にしてただけで……」
「いや、俺は……流山に、できればいて欲しいし」
心臓が縦に跳ねたようだった。
「え、それって……」
自分の顔が紅潮するのを感じる。なんだろう、この雰囲気。初めて感じる──。
突然、珠悠は律郎から目を離せなくなった。次に彼が放つ言葉の予感が、怖いと思うと同時に、ずっと待ち望んできたもののようでもあった。
「流山さ」
珠悠に見つめられながら、律郎は改まった様子で、言った。
「元文芸部員になってくれないか」
「……もとぶんげいぶいん……?」
珠悠は呆然として、鸚鵡返しをしてしまった。
律郎は大まじめな顔で頷いた。
「ああ。多分……いらない噂が立つのは、俺たちの関係が謎だからだと思ってさ。それでワイワイ推測される。それなら、わかりやすい理由をつければいい」
それから、律郎は、文芸部が自分の目の前で廃部になった話、廃部になった次の一年は同じ活動内容の部活を興せない話、そして、復興も含めて部活の創設には3人の入部希望者が必要な話をした。
「その3人のうちの一人に……私がなるってこと?」
「ああ。それを便宜上、元文芸部員って言うわけ。そうすれば、元部室にいる名分が立つから、いろいろ、説明がしやすくなると思うんだけど、どう?」
文芸部復興に携わっていると言えば体面も成り立つし、文芸部復活への布石になるし──珠悠は律郎のタイピングを見られる生活になる。
そう思うと珠悠の心は、晴れ間が訪れたようにふわりと軽くなった。
「いい、かも……」
そう言うと、律郎の表情がふっと緩んだ。
「良かった。そこまでしたくないって言われたら、どうしようかと」
「そんなこと言わないよ」
「そっか。ありがとう。やっぱり……俺も、自分が書いてるところ、見守ってくれる人がいた方がいいからさ」
律路は照れ隠しをするように、はにかみながら言った。
その表情に──珠悠は胸をきゅっと締め付けられたような気持ちになる。
もしかして、私が噂話をされたくないと思ってしまったのは、実はそれが……と、危うい思考の線が走り始めたのを、慌てて止める。
ダメ、まだ……早すぎる。
その言い訳をするように、珠悠はうなずいて、言った。
「わかった。私、見てるから。常政くんが目指す先」
律郎は安心したように、笑みを浮かべた。
珠悠もつられて、頬が緩む。明日からまた、常政くんと一緒にいられる……そう思うと、周りの景色も色づいた気がした。
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小雨は止んでいた。湿気をはらんだ風が、緑づき始めた木々の枝葉を揺らしている。
珠悠は、自分が「元文芸部員」になった過程を思い出して、こめかみがじんと熱くなった。いろいろあったけど、珠悠がここでのんびりできるのも、律郎の優しさというか、ちょうどいい距離感覚のお陰だったと思う。
(出会ってなかったら……私、どうしてたんだろう)
江川先輩の使い走りと、皆森の世話、それだけが学校生活の全てになっていたかも知れない。そう思うと、憩える居場所ができたのは、とてもありがたい話だった。
ずっと窓の外に向けていた視線を室内に戻すと、律郎がいた。いつものように、キーボードを一心に叩いている……珠悠の知らない、どこか遠くを目指して。
エンドマークがついた日に、珠悠は、その軌跡を目にすることができる。
その日まで──見守り続けよう。
珠悠は椅子に腰かけて、目を落とす。その指の走りに、恋焦がれるように。
(第十話・終わり)




