2話 沈黙の帰路
右腕が、熱い。
鉄手甲の隙間から漏れ出る青い光は、吸着した世界の不具合がまだ消化しきれていない証だ。
王国騎士図書館の堅牢な壁を背に、俺は夜の闇を縫って下層街へと向かう。
厚底の皮纏が石畳を叩くたび、右腕の奥で骨を軋ませるような痛みが走った。
この熱は、世界の理が砂のように細かく砕けていく現象を、無理やり自らの肉体に宿した代償に他ならない。
「正典」が強固な場所ほど、崩落の際に生じる猛毒は濃い。
図書館の最深部を狙ったのは、そのためだ。銀の檻の中にいる彼女を維持するには、並の澱では足りない。
それに――耳の早い情報屋から聞き及んだ話も、俺の足を向かわせるには十分だった。
『騎士団が、隠蔽の手間に嫌気が差して、記録の綻びを知った司書どもを丸ごと歴史から削ることに決めたらしい』
あいつららしい、身勝手極まる効率主義だ。
白銀の甲冑が放つ、あの潔癖なまでの光が脳裏をよぎり、不快な吐き気が込み上げる。
不具合を直す技術も度胸もないくせに、不都合な「事実」を消すことだけは一人前だ。
背後では、つい先ほどまで死線であった図書館が、何事もなかったかのように魔導燈の光に白く浮かび上がっている。
あの巨大な石の集積所は、真実を飲み込んで腹を膨らませる巨大な墓標だ。
俺のような追放者が、二度と足を踏み入れるべき場所ではない。
無造作な黒髪をかき上げる指に、汚染の証である白い筋が混じる。
首元までを覆う窮屈な黒の肌着は、息苦しいほどに肌に密着している。その肌着と、深い灰色の長外套の隙間に、俺は手を滑らせた。
指先に触れる、冷たくも確かな重み。懐中時計ほどもある、銀の首飾り。
銀の薄板越しに、微かな、だが確かな脈動が指先に伝わってくるような感覚がある。
彼女はまだ生きている。
この冷たい銀の檻の中で、今も俺が迎えに来るのを待っているのだ。
その微かな熱が、不具合に焼かれる右腕の激痛を、かろうじて意味のあるものに変えてくれていた。
「……まだ、終わらせるわけにはいかない」
独り言は、湿った夜風に霧散した。
このペンダントの中に封印された幼なじみ。
彼女を再びこの世界に繋ぎ止めるためなら、右腕の一本や二本、不具合に焼き切られても構わない。
騎士の誇りを奪われ、正典から切り捨てられたあの日から、俺がこの歪んだ世界に爪を立てて生き続けている理由は、この胸元の重みだけなのだ。
石畳の路地を抜け、魔導燈の光さえ届かない澱の溜まる街へと降りる。
硝子障の割れた空き家が並ぶ、見捨てられた場所。
ここには騎士団の掲げる正典など存在しない。
あるのは、ただ静かに朽ちていく現実と、逃げ場のない諦念のみ。
一軒の薄暗い店が見えてくる。看板すらない、リリィの溜まり場だ。
扉を開けると、焦げた鉄と薬草の匂いが、肺の奥を直接侵食した。
店内の空気は、澱の溜まる下層街のなかでも、ひときわ重く湿っている。
棚に並ぶのは、出所の怪しい薬瓶と、ラベルの剥がれた安酒の瓶。
その中心に、緋色の煙管を燻らす一人の女がいた。
彼女はリリィ。
幾つとも知れぬ年齢、かつては光の世界にいたことを予感させる整った顔立ちには、磨き抜かれた白銀が錆び果てたような、救いようのない気品と退廃が混在している
彼女の最大の特徴は、右目の上に深く刻まれた、世界の不具合によるものと思われる赤黒い「焼け跡」だ。
その不吉な烙印を、彼女は隠すことなく、むしろ誇るかのように晒している。
「……生きてたんだね、エル。随分と酷い臭いだよ。また世界の不浄を食らってきたのかい?」
板場の奥から、リリィの呆れたような声が飛ぶ。その赤い瞳は、俺のこの惨めな右腕の正体を知りながら、変わらぬ皮肉を投げてくる数少ない一人だった。
「まあ、一食分にはなった」
俺は答え、隅のガタつく椅子に深く腰を下ろした。
リリィが差し出した空の硝子瓶に、鉄手甲を嵌めた右腕をかざす。
「……ふっ、……ぐッ……!」
装甲の隙間から、粘着質な泥のような黒い澱が滴り落ち、瓶を満たしていく。
その無残な姿は、かつての誇りを奪われた追放者の現在を、鏡のように映し出していた。
「あんたのそれ、もう限界だろ? 吸いすぎて、中身が焼け付いてる。いつか、吸着が弾けてあんた自身が世界のゴミに変わっちまうよ」
「その時は、あんたが片付けてくれ」
リリィは短く鼻で笑い、紫煙を天井へと吐き出した。
彼女は手元の棚から、手際よく一粒の結晶を放り出してきた。
受け止めた手のひらで、銀色の包み紙がかすかに擦れる。俺はそれを無造作に引きちぎると、まだ青い火花が燻る鉄手甲の指先で、濁った塊を口へと放り込んだ。
奥歯で、硬質な代償を噛み砕く。
脳を直接焼き切るような強烈な苦味。それと同時に、脳髄を痺れさせるような劇薬の熱が全身を駆け巡る。
意識が急速に研ぎ澄まされ、右腕を焼いていた不快な熱が、緩やかに遠のいていく。
自意識をこの世界に繋ぎ止めるための、呪いのような味。
俺は、この猛毒を噛み砕く音を聞くたびに、自分がもう、あの光の下へは戻れない不具合の一部なのだと思い知らされる。
「……それで。その魔力糖が必要なほどの何があったんだい? 騎士団の蔵にでも手を出したか?」
リリィは煙管を灰皿に打ち付け、慣れた手つきで灰を落とす。
ふと、地下図書館で救った女の顔を思い出した。
震える手で本を抱え、ただ呆然と世界の不具合を見つめていたあの司書。
あいつもまた、騎士団が切り捨てることに決めた「不自然な一行」に過ぎないのだろう。
「やっぱり。……あんな女、助けるべきではなかったな」
魔力糖の苦味を吐き捨てるように呟いた。
俺と出会い、あの光景を目にした瞬間、あいつの運命はすでに壊れている。
軍刀を鞘ごと外し、机に置いた。
騎士団時代の名残がある、意匠の凝った鞘。
それを、汚れた指でなぞりながら、俺は上の光の世界を想う。
思い出せないはずの笑顔が、なぜか銀の冷たさと重なる。
今頃あの女は、自分が信じていた騎士団という光の欺瞞に晒され、絶望の淵に立たされているだろう。
もし、あいつがその絶望を乗り越えて、この汚濁に満ちた下層街まで辿り着けるというのなら――
「……ま、無理だろうな」
右腕の熱は引いたが、銀の首飾りの冷たさがやけに胸に堪えた。
自分を救うことすらできないまま、他人の破滅を予感している己の醜さに、俺は薄く笑うより他になかった。




