森と井戸と 1
本作はえきちー(@EkitaiT)の名前で、カクヨムにも掲載しております。
神無市西区。
JR神無駅を出て西へ進んだ先には、神無山という山がある。
標高は約600メートルとさほど高くはないが、その山沿いはなだらかで、市内の小中学校の遠足やハイキングで利用される登山道も整備されている。
豊かな森が広がる山の麓には、小さな湖も存在し、その湖畔ではキャンプや釣りなどで楽しまれることも多い、神無市の観光スポットとなっている。
そんな神無山の登山道の入口に、スマホを片手に持った襟崎芽衣が立っていた。
学校終わりにそのままやって来たため、神無高校の制服を着ているが、上着は着ておらず、長袖のスクールシャツ姿である。
まだ6月に入ったばかりだが、ここ数日、30度近くまで気温が上がる日が続いていた中、今日は朝から曇天の空模様で気温は多少下がっている。しかし、湿度の高さから涼しさはさほど感じられず、うっすらと肌に浮かぶ汗がシャツに滲み込み、若干の不快感がある。
芽衣がここへやってきたのには理由があった。
最近、彼女と相方の夕川黒亜が運営するオカルト専門相談サイト【奇々怪々】内の掲示板で、いくつか共通する話題が出ており、その確認をおこなうためだった。
“神無山の登山道の途中には獣道に入れるところがあり、その獣道を進むと井戸がある。その井戸を覗き込むと、数日以内に死んでしまう”
掲示板に書かれていた内容をおおまかにまとめると、そのような内容だった。
『神無山で井戸を見つけた知り合いが三日後に心臓発作で亡くなった』
『井戸を覗いた友人が、翌日に交通事故に遭い死亡した』
『井戸を見に行くと言った友人が行方不明になった』
など。
しかし一方で、
『神無山の登山道はよく散歩しているが、そんな獣道はない』
『途中で正規ルートとは違う荒れた道があったが、その先はただの行き止まりだった』
といった反論も上がっていた。
【奇々怪々】の掲示板はログインしなければ使用できず、書き込みには変更不可の固定ハンドルネームを設定しなければならない。また、大手のオープンな掲示板というわけでもないため、いたずらという線は薄いだろう。
この“井戸”に関連する相談や依頼といったものはまだ特に来ていない。
ただ最近、よく掲示板内の書き込みで目にした内容だったため、先日、芽衣は話の種にこの話題を黒亜へ振ってみた。
芽衣はそのときのことを思い返した。
◆◆◆◆◆
「……って感じなんだけど、ココちゃんはどう思う?」
「井戸……井戸かぁ……」
煙羅亭のいつものテーブル席でコーヒーを片手に読書をしていた黒亜は、芽衣から投げられたその“神無山の井戸”の話題に眉をひそめた。
「やっぱ井戸って何かあるの? そりゃ『リング』みたいなホラー映画のせいでよくないイメージあるけど」
「もちろん、井戸もいろいろあるよ。例えば古い家を壊すときに井戸が出てきたらお祓いするでしょ? あとは怪談話で有名な『番町皿屋敷』だと、お菊という女性が身投げしたのが古井戸だしね」
芽衣にはぴんと来なかったが、曰く、井戸には水神様がいるとされており、家屋の解体や建築をする際に、その土地に井戸がある場合は、神社の神主に依頼してお祓いやお清めをしてもらうのが一般的だそうだ。その後、地盤沈下のリスクを避けるために井戸の中の水や、溜まっている有機ガスなど抜いて、砂利や砕石で井戸の“埋め戻し”をするらしい。
また古くからの怪談話にもあるように、井戸というのは身投げして非業の死を遂げる先、あるいはその中に死体を遺棄して隠すために使われたりと、何かと“死”と結び付けられることも多い。
だが、黒亜が芽衣から聞いた話で引っかかっているのはそこではなさそうだった。
「井戸そのものよりも『井戸を見た人、覗いた人が数日後に亡くなった。でもそんな井戸はないって言ってる人もいる』っていう、その“話題”自体が引っかかるんだよね……」
芽衣が「どゆこと?」と訊くと、黒亜は続けて語った。
「メイちゃんは『遠野物語拾遺』って知ってる? そこに『淵と沼と』っていう逸話があるんだけど、その中の話の一つに似てる気がするんだ」
『遠野物語』は、当時、早稲田大学の学生だった佐々木嬉善という青年が語った、自身の出身である遠野地方の伝承や逸話の内容を柳田國男が執筆した説話集である。
一方、『遠野物語拾遺』は、嬉善が國男に書き送った原稿を元に編纂された説話集となり、『遠野物語』の発刊から25年後に刊行された。
黒亜が言うには、その『遠野物語拾遺』の37話目に“神無山の井戸”と近い話があるという。
――綾織から小友に越える小友峠には祠が祀ってあるが、この辺りの沢にはまれに人目に見える沼があるという。その沼には、海川に棲む魚の種類はすべていると伝えられている。もしこの沼を見た者があれば、それがもとになって病んで死ぬそうである。
「要するに『たまに人に見える沼があって、この沼を見た人は病気になって死んでしまう』ってこと?」
やや唸ってから要約した芽衣に「そんな感じ」と黒亜は肯定する。
「似てるでしょ? 『人によっては見える“井戸”があって、その“井戸”を覗いたら死んでしまう』って話と」
◆◆◆◆◆
「見つけて覗いたら死んでしまう井戸、か……」
今の時季の夕方5時半という時間帯にしては薄暗い中で、芽衣は登山道の入口を見ながらぽつりと呟いた。
芽衣に“小友峠の沼”の話をした黒亜は、急な用事ができたとのことで、昨日から神無市を離れ地元の山形へ行き、数日は戻ってこれないと連絡があった。
他のメンバーもイギリスやら中国やら“あちら側”やらへ出払っているため【奇々怪々】は数日の間、休業を余儀なくされた。
そして芽衣の本業の方も今は依頼がない。
そこで彼女はこの空白の時間を利用して、掲示板内で噂になっている“神無山の井戸”の確認にやってきた。
まだ案件にはなっていないが、こうも話題になるなら具体的な話になるのも時間の問題だろう。暇つぶし兼先行調査、といった具合である。
芽衣はスマホを鞄にしまうと、代わりにベルのチャームが付いたブレスレットを取り出して右手首に着けた。それは黒亜の着けているチャーチベルのブレスレットに似ているが、ベルの意匠が若干異なっている。
このブレスレットは、以前黒亜が芽衣に渡した“呪具”である。
黒亜のチャーチベルのブレスレットは“怪異”の『縄張り』に入ったときに音を鳴らして知らせる“呪具”だが、芽衣が渡されたのは『縄張り』に近付いた際に音を鳴らす“呪具”だった。
芽衣は黒亜のように“怪異”への耐性はなく、『悪鬼』どころかただの『霊』が相手でもまともに対処はできない。
故に、一度『縄張り』の中に入ってしまうと、自力での脱出はほぼ不可能となってしまう彼女は、『縄張り』に入らないようにするための対策が必要となる。それがこのベルのチャームが付いたブレスレットであった。
今回も掲示板の書き込み通りに“井戸”があるならば、その“井戸”の周囲に『縄張り』がある可能性が高い。
準備を終えた芽衣は、登山道を歩き始めた。
神無山の登山道は小学生の遠足や、高齢者の散歩道としても利用されるぐらいには勾配が緩く、整備もされた路面は状態も良い。多少距離はあるが頂上まで歩くにはそれほど難くない。
また、道中には何ヶ所か休憩所を兼ねた広場も設けられている。
道の両脇は背の低い柵が設けられ、その先には木々が並び立っている。普通に歩く限り、誤って正規のルートを外れてしまうことはまずない。
晴れていれば、木々の隙間から漏れる陽の光が道行く人々をまばらに照らし、山道をゆったりと歩く楽しさを教えるのかもしれない。
しかし今日の空は厚い雲に覆われており、背の高い木々に囲まれたこの登山道を歩く者に、鬱蒼とした暗鬱な一面を見せていた。
植物特有の青臭さと、腐葉土の臭いとを肺に取り込みながら、芽衣は静かに登山道を歩く。
時折、顔の周りを飛ぶ羽虫を手で払いながら、人が入れそうな脇道を探す。
書き込みにあった“獣道”は登山道の途中にあったとしか書かれておらず、具体的な位置まではわからない。
そもそも、そのような道はない可能性もあるが、薄暗い中、芽衣はそれらしいところがないか注意深く辺りを窺いながら進んでいく。
「…………」
10分程かけて着いた一つ目の休憩所を通りすぎ、さらに5分程度歩く。
道の左右には延々と密集した木々が連なり、人の通れそうなところは見当たらない。
やはりデマだったのだろうか。時間も時間だし、二つ目の休憩所に着いたら戻ろう。
そんなことを考えていたとき。
――ひゅう
音が聞こえた
まるで誰かが一瞬だけ口笛を吹いたかのような、微かな高い音。
僅かに吹く風が木の枝葉を揺らすざわめきが支配する中で、明らかに浮いた不自然な異音。
自身の左後方から耳に届いたその音に、芽衣は意識せずに振り返る。
“道”があった。
密に並び立つ木々の中で、そこだけ樹木を抜き去って道としたかのような、一直線に伸びる空隙。
この道は“今”現れた。芽衣が通ったときにはなかったはずだ。
規則的に同じ風景が続く中で、注意深く確認していたのだ。見落とすはずがない。
登山道と比べても明らかに整備されておらず、生え茂る雑草と落ちた枝、ごろごろとした石などで荒れた路面。まさに“獣道”とも呼べるその先は、芽衣が立つ場所よりもさらに暗く、その先に何があるのか見通すことはできない。
この突如現れた“獣道”に対して、芽衣の右手首に着けたブレスレットのベルは鳴っていない。
まるで彼女を誘うかのように現れたこの“獣道”を進むことができると判断した芽衣は、柵を乗り越えて足を踏み入れた。
がさ、がさ、がさ
じゃり、じゃり、じゃり
スニーカーのゴム底で枯葉や砂利を踏んだ音を鳴らしながら進む、暗い一本道。
脇から伸びる枝や、大きめの石で足を取られないように注意しつつ、念のために持参したハンディライトで辺りを照らしながら進む。
そうして進んでいると、やがて開けた場所に出た。
そこはおよそ六畳程度の広さだろうか。
それほど輝度が高くはないライトの明かりが、その空間の奥にあるものをぼんやりと照らし出した。
井戸
それは、いくつもの石を積み重ねて形を作る、いわゆる“石積み井戸”と呼ばれる、古そうな丸井戸。
その石の表面にはところどころに苔が生えており、その井戸の上には木の板が置かれ、穴は蓋がされている。
傍には釣瓶やポンプはなく、ただ“井戸”だけが、ぽつんと、そこに存在していた。
手首のベルは鳴らない。つまり『縄張り』はない。
なのに。
その“井戸”を見た瞬間、ぞっ、と芽衣の全身に鳥肌が立った。
それは以前、煙羅亭で魔術を実践したときの、黒亜の作り出した“儀式の場”に入ったときと似た感覚。周囲の光景は何も変わっていないはずなのに、その中は確実に“何か”が変わった、あの感覚。
「……っ!」
自身の意識しない身体の反応に、芽衣の表情が強張る。
何が起こったかわからない。だが、この瞬間に自分に“何か”が起こったという確信があった。
『突然現れた獣道を進んだ先に古井戸があった』という不気味で異様な体験をした、という話だけでは済まなくなってしまったかもしれない。
芽衣は額に脂汗を浮かべ、周囲を見渡す。
音が消えたわけでも、気温が急激に下がったわけでもない。
これ以上、この場で何か起こりそうな気配は、もうない。
だが、これは間違いなく“怪異”だ。
そしてこの“怪異”に対して絶対にやってはいけないのが井戸の中を覗くことだろう。
井戸を覗くと死んでしまう。
黒亜の語った『遠野物語拾遺』の“小友峠の沼”の話ではないが、掲示板にはこの井戸を訪れた後に知人友人が亡くなった、という書き込みが数件あった。
おそらく今の芽衣のようにここに辿り着き、あの井戸の蓋を開けて中を覗いてしまったに違いない。
確かに井戸は神無山に存在した、という事実が確認できたのであれば、この先に進む理由も、留まる理由もない。あとは黒亜が帰ってきたら相談して、どう対処するかを決めればいい。
そんな判断を下した芽衣は、それ以上この空間へは踏み込まず、しかし自身に起こった強烈な違和感に懸念と不安を抱きながら、狭い獣道を戻ったのであった。
<続>




